33.分岐
「……これから、どうなさるおつもりですか」
つい先ほどまでいた部屋から更に階を上り、おそらく最上階の部屋に連れられた叶慧は、隆明の背中に問いかけた。
しかし、隆明は答えない。ただ、窓からじっと、外の様子を見ている。
叶慧はそれ以上聞くことはせず、頭の中で状況を整理する。
一体何が起こったのか、詳しいことは分からないが、確実に言えるのは隆明側に離反者が出たということ。そして、日下部と呼ばれた男の言葉から鑑みるに、新條家の人間が既にこの場に到着していることも。おそらく、御澄の人間もいるのだろう。
(……一つ、気になるのは)
日下部が、どのタイミングで隆明への裏切りを決意したかということだ。
叶慧の誘拐を実行した後で心を決めたと考えるのが自然だが、それにしては短時間で状況が整いすぎている。助けられる側の叶慧が疑いを抱かずにはいられないほど、不自然なくらいに。
残る可能性は、誘拐の計画段階から既に決意していた線だが――。
「……」
叶慧は眉を寄せる。目を固く閉じると、思考を無理やり中断させた。
(埒も明かないことを考えるのは、やめよう)
目線を上げ、先ほど見た時から微塵も姿勢が変わっていない隆明に、話しかける。
「――てっきり外に、逃げられるのだと思いましたが」
「馬鹿か。日下部があれほど大胆な行動に出たというのに、包囲網が固まっていないわけがないだろう。案の定、家の周りは新條と御澄の者で、寸分の隙なく囲まれているようだしな」
淡々と、まるで他人ごとのように言い切った声音に、違和感を覚える。
違和感の正体は、これほどの強引な手を使ったわりに、諦めが早すぎるような気がするからだ。
無論、叶慧とてそれを望んではいるが、あれほどの新條家への執着を見た後では、戸惑いを感じずにはいられない。
「分かっておられるのならばどうして、こんな己を破滅に追いやるようなことばかりをなさるのですか」
ぽつりと、零れるような問いかけに、青年はふっと短い笑いを漏らした。
「さあな。今更それを知ってどうなる」
「……どうにもなりません。ただの、興味です。でも」
自分でもよく分からないが、どうしても気になるのだ。
戸惑うように発された声に、隆明は目を向ける。
本当に、よく分からない。
数刻前まであれほど嫌悪し、憎しみの対象だった相手が目の前にいるのに。
何故か今、最も強く感じているのは、親近感に似たものだった。
「――なあ」
隆明が、静かに口を開く。
「今のお前には、俺の未来が見えているのか?」
突然の問いに、叶慧は目を見開いた。
そのまま、瞬きもせずその双眸に隆明を映す。
ややあって、叶慧は短く答えた。
「……いいえ」
隆明は軽快に笑った。
「そうか、それは残念だ」
残念だと言いつつも楽しそうに、どこかすっきりしたように笑う姿に、叶慧の目は縫い留められる。
声も発さずじっと隆明を見つめていると、やがて青年はゆっくりと口を開いた。
「物心ついた頃から、俺にとっては新條の家が、父が、この世の全てだった。なぜと言われても答えようがない。誰だって一つくらい、捨てたくても捨てきれない執着があるだろう。俺にとってはそれが、新條家当主の座だっただけだ。……これだけは、そう易々と変えられまいよ」
叶慧は瞼を震わせる。
偏狭な、と責めることはできない。
理性だけでは抑えようのないものの厄介さは、身に染みて分かっている。
それでも、無責任に聞かずにはいられない。
「……どうしても、手放すことは出来なかったんですか」
問うと、隆明はゆるく笑んだ。
「自分でも、自分の執念深さに驚く。……手放そうにも、自分の中で何かしらの決着をつけないと踏ん切りがつかない。それこそ、望みは完全に絶たれたのだと、徹底的に思い知るほどに」
叶慧は大きく目を見開く。まさか、と頭で呟く声がする。
「だから、こんなことを……?」
隆明は笑みを崩さない。
「やるなら、中途半端なものでは意味がない。手に入れるか、全てを失うかだ。……そうしたかったというより、そうせずにはいられなかったという方が正しいかもしれない」
隆明はそう言って、くつくつと笑った。
叶慧は目を伏せる。
はた迷惑な話だ。
これほど周囲を巻き込んだ行動の理由が、ただの自己満足だったとは。
本当に、呆れかえるほどの幼稚さ。
「……」
それなのに、叶慧は目の前の男を、完全には見放せないでいた。
身の奥から湧き出る共属感情に似たものも、変わらぬままに心を覆う。
「さぞや俺の行動が、自暴自棄なものに映るだろう。言動の全てが、盲目的なものになっている、とも。――実際、その通りだろうな」
全てが、どうでもいいと思った。
望みが叶わぬのであれば自分に価値はないと、最後の悪あがきをしようと思った。
それを無理やり正当化しようとした。己に心酔する使用人をも利用して。
隆明は言葉を切り、じっと叶慧を見つめる。
「裏切りたくない人がいる、ねえ……。まったく、痛い所をついてくれる」
苦笑した青年の顔を、叶慧は見る。何も、言う事が出来なかった。
「お前の言う通り、分かっているさ。俺には新條の顔となる力量も度量も、あいつには及ばなかった。ずっと近くで育ってきたんだ、それはもう、痛いほど思い知らされている。俺のような男が先頭に立ったとて、人心も時運もついてはこないだろうとも」
「……それでも日下部さんという人は、貴方を案じておられたようですが」
その名を口にすると、愉快そうに笑っていた顔が、ぴたりと静止した。
人をかわすような表情が一変して、視線が鋭さを帯びる。
「日下部さんは、新條家の長男でも落伍者としてでもない、貴方自身に言葉をかけられていたように見えました。それにあの時、部屋を去る前、貴方が執拗に使用人の方を脅しておられたのも、わざとなのでしょう?」
ぴくりと、眉が動く。その小さな変化を視界におさめ、叶慧は話し続ける。
「日下部さんが、信頼できる証人がいる前で、貴方に「脅迫されて仕方なく」行動を起こしたように見せたのでしょう? ……人心がついてこないというのは、訂正してください。貴女には、貴方自身を思って下さる方が、絶対にいます」
真っすぐに隆明を見つめる。見つめられた方は、ややあって、小さく笑った。
「本当に、小賢しい女だよお前は。これほどまでに痛いところを的確についてくるとは。もしや先ほど存分に痛めつけたとへの、意趣返しか?」
何も答えない叶慧を見つめ、隆明は表情を緩ませた。
青年は口元に、ほろ苦さをにじませる。
「同じだと、思っていたんだがな」
主語が無いその言葉の意味を、叶慧は正確に受け止める。
叶慧とて、その言葉と同じものを、今まさに、全身で感じているのだ。
「……間違いではありませんよ。家の名に縛られているのは、お互い様です」
ただ、そこから掬い上げようとしてくれた手を、掴んだか目を背けたか。それだけの、たったそれだけの違いだ。
それだけの、大きくて深い違いだ。
「私は、そちら側にはいけません」
重くのしかかる家の名に、押しつぶされるのでない。
なすがままに、操られるのでもない。
それらを全部飲み下した上で、自分で選んだのだ。
自分で足を踏み出していくと、決めたのだ。抗うと、そう、決意したのだ。
己を掻き乱し、振り回した環境を、思い通りにならない今に毒を吐き、引き返せないほどの破滅に身を投じることの、なんと魅惑的なことか。
けれど、行けない。
彼らのことを覚えている限り、何があろうと歯を食いしばって、踏ん張らなくてはいけない。紛れもない、自分自身の意志で。
真っすぐ、強い眼差しを向ける。隆明は目を見開き、やがて笑った。
その顔には、淋しそうだけれど、どこか満足そうな表情を浮かべていた。




