32.裏切り
隆明は目を大きく見開き、高校生とは思えないほど大人びた顔つきをする少女を、魅入られたように見つめる。
一度、唇が動き、何事を言いかけた。
けれど結局音になることはなく、口を閉ざす。次に顔を上げた時の隆明は、感情を完全に消し去った仮面のような表情をしていた。
「……残念だよ」
そうしてゆっくりと叶慧に歩み寄ろうとした、その時。
―――ガチャン!
階下で、何かが割れる音がした。そしてその音が合図であったかのように、物が倒れる音、複数の足音が入り乱れる音が、矢継ぎ早に聞こえる。
「な、何だ⁉」
取り乱した使用人が脅えをまじえて叫ぶが、その問いに答えられる者はその場に一人もいなかった。
「――様子を、見てまいります」
緊張した声と共に、隆明の従者たちが用心深く扉の外に出ていく。
後に残ったのは叶慧と隆明と、隆明の使用人一人と、先日叶慧を訪ねてきた女性だけだ。
(助けが、来てくれたのか……?)
とっさにそう思ったものの、まだ発信機を作動させてから、ものの十数分しか経っていない。いくら何でも駆け付けるのが速すぎる。
期待を押しつぶす推測と、困惑が頭を占拠してどういう心境でいればいいのか分からない。
「………」
誰一人声を出せない緊迫感の中、何分が経過したのだろう。
絶え間なく続いていた物音が、収まった。完全な静寂が訪れる。
不気味な空気を、コンコン、というノックの音が震わせる。
「誰だ」
短く問うた声に、歯切れのいい声が答える。
「日下部です! 先ほどの物音ですが、どうやら御澄家の者がこちらを尾行していたようで、階下で騒ぎを起こしておりました。こちらの被害も少しありましたが、侵入者は押さえつけましたので、そのご報告に参りました!」
「日下部……そうか、よくやった」
日下部と名乗った従者の言葉に、隆明は明らかに安堵した様子を見せる。
叶慧は視線を落とした。
やはり、味方の者だったのか。
どうやってこれほど早くに駆け付けられたのかは知らないが、これでより一層、隆明側の警戒は強くなるはずだ。
(階下で拘束されていると言ったが、無事だろうか)
おそらく乱暴に押さえつけられたのだろうから、無事とはいいがたい有様だろうが、それでもなるべく軽い怪我であってほしい。
「……」
「御澄の者」と聞いてとっさによぎった桂太の姿を、叶慧は強引に打ち消す。
叶慧の付き人だ。
可能性としては十分あり得るが、出来れば考えたくないと、反射的に思ってしまった。
他の誰かであればいいという話であるはずがないのに、随分と身勝手なことを考えているな、と乾いた笑みを零す。
「扉を、開けてやれ」
「はい」
喜々として返事をした女性は、部屋の入口に向かっていく。
何十人もの人間が優に入るであろうこの部屋は、扉が西と東、それぞれの方に一つずつ備わっている。そのうち、東の扉へと足を運んだ女性は、躊躇いもなくガチャリと鍵を回した。
「――え?」
「は?」
「……っ⁉」
叶慧と隆明、それに隆明の従者、三人分の声が重なる。
扉が開いた途端、くの字に体を曲げ、そのままくずおれていった女性の体を茫然と眺める。
やがて、逞しい体つきをした壮年の男が室内に入ってきた。
「くさかべ……?」
女性の腹に拳を叩き込んだ張本人が、何食わぬ顔で近づいてくる様を、隆明は放心したような目で見る。
「隆明様、貴方のお味方は、一人残らず階下で拘束致しました。これ以上、無意味に足掻くのはおやめください。どうか速やかに、将道様の元へ参られますよう」
淡々と言った男の声に、瞠目していた隆明は身を震わせる。
そして視線を下げると、不気味な声で、笑った。
「なるほどそうか。日下部、お前は最初から父の犬だったわけか。今の今まで見抜けずにいたとは、己の見る目の無さに涙が出る」
吐き捨てるように言った言葉に、何故か日下部は痛みをこらえるような顔をして、唇を引き結んだ。
「……隆明様。どうかもう、これ以上は。今ならまだ、将道様にお許しを乞うことも出来ましょう。私共と一緒に、新條家へお帰り下さい」
「忠告痛み入る。だが生憎俺は、退くつもりはない。……おい」
すぐ傍で呆けたように立ちすくんでいた小男に、声をかける。
かけられた方はびくりと飛び上がり、怯えるような目で、隆明と日下部を交互に見た。
「早く日下部を押さえつけろ。それができなければせめて、俺が出ていくまでの時間を稼げ」
「あ、あの、隆明様、お、俺は……」
「さっさとしろ。ここまで来て、自分だけ逃げられるなんて思うなよ。今の時点で十分、お前も立派な共犯者なんだ」
「そ、そんな」
ひくりと喉を震わせ、唇を戦慄かせた男に、隆明はふっと笑った。
「なんだ。まさか人一人を監禁することが聖人君子のやることだと、思ったわけでもないだろう。言っておくが今連れ帰されれば、俺は新條家の長男ではなく、ただの一犯罪として見なされる。分かったら早く動け。共犯者の烙印を押されたくなければな」
これ以上ないくらい顔を青くした男は、隆明の言葉に突き動かされたかのごとく、奇声をあげて日下部に掴みかかっていった。
「隆明様っ!」
懇願する響きを持った声に背を向け、隆明は叶慧を引きずって部屋を出ていく。
下から僅かに覗き見た顔は、意外にも穏やかで、それ以上に淋しそうに見えた。




