31.誓い
「――一体、どういう心変わりだ?」
ただ身を固くして、なされるがままの様子から一転。
急に抵抗の姿勢を見せ始めた叶慧に、隆明がつまらなそうな視線を向ける。
確かな敵意を覗かせながらも、一度試みた逃走が失敗してからは大人しくなったはずだった。
表情が抜け落ちた人形のような顔で、どうとでもなれと言わんばかりに無気力な状態だったというのに、今の様子はどうしたことか。
「……気に入らない」
何だ、その目は。
何故この状況で、怯えを見せないどころか、光を宿している。
しかもこれは、助かるとか逃げられるとか、打算が混じった希望ではない。そういったものを期待するにしては、焦燥や恐怖の気配が見えなさすぎる。
何より、この状況にも関わらず、少女の瞳が見つめているのは目前のことではなく、もっと遠くの、別の何かだということは、向き合う隆明にはよく分かった。
「気に入らない」
隆明は再度呟いた。
――叶慧が何を見据えているのかはどうでもいい。
ただ目の前に自分がいるというのに、他のものに気を取られているという事実が、ひどく腹立たしい。
苛立ちにまかせて膝を上げる。
横腹を蹴ろうとして、けれど身をひねって避けた叶慧の髪を乱雑に引っ張り、ぎりぎりと踵で背を踏みつけた。叶慧が顔を歪めたのを見止めてから、ぱっと手を離す。黒い筋が何本か、ぱらぱらと宙を舞った。
それでも、乱れ解れた髪の間から覗く、自分に感情を向けようとしない視線に、隆明は忌々しそうに舌打ちをする。
「馬鹿な上に、ここまで頑固な女だとはな。あくまで俺に手を貸したくないというのなら、俺たちも相応の対応を取らせてもらう」
冷めた声を皮切りに、右と左、両方から腕を掴まれる。
そのまま強制的に上体を起こされ、荒い息で呼吸しながら叶慧は目線を上げた。
自分を睥睨する、隆明の目が見えた。
「……つくづく、お前たち御澄という存在は、疎ましいことこの上ない。だが、それも俺の代で終わりだ。こんな旧時代の異物、俺が当主となったらすぐに、跡形もなく新條の家から排除してやる。その時はせいぜい見苦しい抵抗など見せずに、潔く消えてくれることを期待しているぞ」
俺が、皆の目を覚まさせてやる。
満足げに放った声に、叶慧はぴくりと反応する。
ふっと、小さく、本当にごく小さく噴き出した声は、一人悦に入る青年の耳にも入った。
とたんに、隆明の顔から笑みが消え、鋭さを帯びた無表情が顔を覆った。
「何がおかしい」
平坦な声といっしょに、重い衝撃が右腕を襲う。
出来得る限り身を守ろうと体勢をとっても、全てをかわせるわけではない。
ずきずきとにぶい痛みを訴える腕を抱えながら、叶慧は顔を上げた。
「……っ、あなたは、先見の力を、信じていないというのですか」
途切れ途切れに紡がれる言葉を受け、隆明は口角を吊り上げる。
「当然だろう。……何が、神の御業だ。何が、未来を照らす一族だ。そんな大層な呼称を笠に着て、その実、人心を惑わし貶める詐欺師共が」
憎々し気に零された言葉を、叶慧は一音ずつ受け止めた。
睫を震わせ、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
「……そう、ですね。貴方の言う事にも、一理あります。先見の目は、特定の人のためだけに使用することを許されてきた。その陰で不幸にしてきた人も数知れず、たとえ良かれと思って使ったとて、結局は使用者が未熟では逆効果にしかならない。貴方が、先見の目を信じないというのもそれはそれで自由ですし、そんな風に先を評価してくれることは、正直ありがたくもある。――けれど」
叶慧はつい、と、視線を隆明に向ける。これほど不利な立場にありがら、変わらず物怖じ一つしない輝きに、心を見透かすような凪いだ瞳に、隆明は思わず一歩下がった。
「信じていないというのなら、なぜ己の力一つで、お父上に立ち向かおうとなさらないのですか。なぜ、己の野望のために、たかがほら吹きの小娘一人の力を、必要とされているのですか」
「な……っ」
語気を荒げられたわけでもないのに、言葉の一つ一つから発せられる重みと迫力に、聞く者全てが息を呑む。
何か反論しようと口を開くのに、冷たく苛烈な光に射すくめられるとどうしてか、声を出すことさえかなわない。
叶慧の言葉は続く。
「なぜ、尚之様に負けた理由を、先見によるものだと押し付けたのですか。貴方の敗因が将来性にあると、将道様に明言されたとでも? そんなことは、万に一つもないはずですが。……隆明様、貴方が真実、尚之様に勝っていると思われるのであれば、こんな回りくどい手を使わずとも、証明する方法はいくらでも考えられるのではないのですか」
整然と、隆明の主張にある綻びを一つ一つ並べていく。
どこか怯えた表情を浮かべ、身体を戦慄かせる男を、叶慧は静観した。
同時に、御澄家ですれ違った時の、隆明の様子を思い出す。叶慧と目が合うやいなや、恐ろしいものでも目にしたかのように取り乱し、反射的に視線を逸らした、その表情。
それはどう見ても、先見の力を絵空事だと、何でもないことだと信じ切る者の反応ではなかった。
なぜこうも確信をもって言えるのか。その原因たる人物を思い浮かべ、叶慧は笑った。
かつて先見の力を、まるで役立たずのように「使い勝手が悪い」と言ってのけた青年の姿を、昨日のことのように覚えている。
(本当に興味のない人間の反応とは、ああいうものをいうんだ)
心中で零し、小さく、笑みを口の端にのせた。
そして、無言のまま身を硬直させた青年を眺める。
周りの従者たちから名を呼ばれても一切返事をせずに、叶慧を凝視し続ける。
表情を凍りつかせ、大きく目を見開いたまま瞬き一つしない様に、叶慧は心の中で、ああ、と吐息を漏らす。
(……きっとこの人だって、分かっているんだ)
己に欠けている部分を、実弟に力及ばないと判じられた理由を、他でもない本人が身に染みて分かっている。
先ほど叶慧が問いかけた言葉だって、隆明自身の中で既に生まれて渦巻き続けていた言葉かもしれない。
分かっていて、それでも離さずにはいられないのだ、きっと。
こんな強硬策に打って出なければいられないほどに。
音もなく立ち尽くす姿が、どうしようもなく哀しいものに、叶慧には見えた。
「……もう、この辺でやめにしませんか。隆明様、貴方は紛れもなく新條家のご子息で、頂きに上り詰める素養をお持ちの方です。……新條という家に拘ることをやめて初めて、貴方の力量はいかんなく発揮されると思われますが」
「……黙れ」
突如として動いたかと思うと、一層暗い瞳で、隆明は叶慧を見る。
「新條の者でもないただの小娘が、知ったような口をきくな。その程度の言葉で、いい気になったつもりか」
押し殺した声で言い切ると、力任せに叶慧の髪を上から握りしめた。
「っ……」
苦悶の声を漏らし、顎が上を向くほど顔を持ち上げられた叶慧に、隆明は言葉を吐きかけた。
「大体、家に縛られるというなら、人のことが言えた義理か。お前だって、これほど頑なに俺への援助を拒む理由も、生まれた時から全てあの家に心も体も囚われているからではないのか。どれだけ反感を持っていたとしても、結局は家が定めたことに逆らえないからではないのか、違うなら言ってみろ!」
先ほどまでとは比べ物にならないほどの激情で、唸るように話す隆明の声に、叶慧は聞き入る。
――そう、かもしれない。
確かに自分はどうしようもなく御澄の人間で、頭のてっぺんからつま先まで、ずぶりと御澄の世界に浸っている。
十五年間も浸かり続けたこの身は、今更他のところに逃げようとしたって、完全には御澄の皮を脱ぎきれないことだろう。
現にこれまでだって自分は、大切な人の窮地に立ち会っても尚、御澄の掟を振り払えなかった。
その結果、何人もの人を追い詰めてきた。
だから、隆明が言ったことも、純然たる事実だ。
(……けれど)
けれど今はそれだけではないと、確信をもって言える。
その証拠のように、ふわりと、心の奥で小さな灯りが燈る。
灯りが照らす範囲はごくわずかなものだけど、それだけで、そこにあるだけで、しゃんと前を向いて立っていられるような強さを与えてくれる。
「――――」
力を振り絞って、懸命に顎を動かす。顔を上げさせられたことによって、十分な呼吸がままならくなった喉が、掠れた音を出した。
それでも、必死に声を出す。
灯りをくれた彼らの笑顔を、感謝してもしきれないその姿を、思い描きながら。
「―――裏切りたくない、人たちがいるんです」
「は?」
胡乱な声と眼差しに、叶慧は緩く笑んで答える。
「不甲斐ない姿を見せたくないと、与えてくれた優しさに背くような人間にはなりたくないと、そう、思わせてくれるような人たちが、いるんです」
ふと心に浮かんだのは、これまでの付き人たちの姿。
怖がらせてしまった。悲しませてしまった。取り返しがつかないほど、傷つけてしまった。
時には、思い込みのせいで。
時には、互いの認識不足のせいで。
時には、最後まで捨てられなかった、叶慧自身の中にある、「御澄」への執着のせいで。
どんなに悔やもうと呪おうと、一度抉ってしまった傷痕は、元には戻らない。
一度深く刻まれてしまったものは、後になってどう足掻こうが、取り戻しがきかない。
けれどだからと言って、過去に戻りたいとは思わない。
たとえ何度繰り返そうとも、結局自分は同じ道を辿ってしまうと、同じことを繰り返してしまうと、そう思うから。
とてつもない後悔があっても、どれだけ反省しても、自分はそれでも土壇場では御澄が定めたことに背くことはできないと、そう思うから。
自分はそういう、どうしようもない人間なのだ。
じわりと、口内に鉄の味が広がる。
強く噛みしめすぎて、いつの間にか唇が切れていたらしい。
血が外に漏れ出ないように、ぎゅっと口を閉ざす。
……優しい人たちを傷つけてでも通してきた、御澄の数百年の重みを抱えて、今ここに生きている。
だからこそ、これまで貫き通してきた御澄家先見役としての「御澄叶慧」を、その名に課せられた責を、死んでも放棄しないと、自分自身で誓った。
間違っても、深月は、深月たちの心は、保身や打算のために易々と曲げてしまえるような、軟弱な意志のために犠牲になったのではない。
そんな取るに足らぬもののために、貴方たちの大切なものは踏みにじられたのではないと、そう言えるように。
だから許してくれというのではない。こんな一方的な決意が、彼らの慰めになるとも思っていない。
ただこれが、叶慧の中にある、何人にも揺るがされるわけにはいかない絶対の信念なのだ。
今の叶慧を叶慧たらしめているのは、御澄としての覚悟と、記憶の中に生きる人々への想い。
どちらも、生半可な言葉で動かされるような、やわな想いで出来てはいない。
「――再度、申し上げます。私は貴方のために、先見の力を貸すことはできません。たとえ何を、引き換えにしようとも」
確固たる意志を感じさせるその瞳で、叶慧は静かに、そう告げた。




