30.ごめん
「う……っ」
腹部に鈍く重い痛みを感じて、叶慧は歯を食いしばる。
再び手の自由を奪われ、先ほどの部屋に連れ戻されたかと思えば、またもや床に転がされ腹を強く蹴られたのだ。蹴られたところが熱を持ち、全身に広がっていく。
横になった視界の中で、部屋の様子が目に映る。連れてこられた直後、どこかの倉庫かと思っていた場所は、意外にも居住地だった。柔らかそうなソファとしっかりとした机、そしてランプと、西洋風な家具が揃えられた部屋は、中々快適そうである……こんな状況でなければ。
蹲っていると、そのまま背中を踏みつけられる。
叶慧を痛めつけることに遠慮はないながらも、決して見える位置に傷をつけようとはしないのが腹立たしい。
肺を圧迫される苦痛を感じ、叶慧は隆明を上目遣いで睨んだ。
「いい加減、無駄な抵抗は諦めろ」
かすむ視界の向こうに、おぼろげながら隆明の顔が見える。
その口端は歪み、一層憎々しさを増幅させる。
「つまらん意地を捨てて、どうするのが己の利になるか、考えたらどうだ。そうまでして守るほどのものがあの家にあるわけでもないだろう。それとも、そんな目を持っているのに、大局を見据える視野を持ち合わせていないのか?」
(目先のことしか見ていないのは、お前の方だろう)
反射的に悪態をつきつつも、息が苦しくて言葉に出来ない。
「そろそろ頷いてくれないと、俺も本格的に強硬手段に打って出るしかなくなるんだがな。ああそれとも、最初からそれをお望みか?」
そう言って視線をやった先で、主の思惑を的確に汲み取った使用人たちが動き出す。
カメラに、パソコンに、鋏に、縄に――。様々な方向で人に苦痛と屈辱を与えるために揃えられた道具が、整然と並べられていく。
どうやって叶慧に協力を確約させるのか疑問だったが、協力せざるを得ないほどの脅迫材料を、この場で作るもりだったのかと、叶慧は納得した。
(良家の坊ちゃんがやるとは思えない、何とも下衆で乱暴な手だな)
着々と準備される道具を、その使い道を正確に認識した上で、叶慧は無感動に眺めた。
その表情を絶望だとでも読み取ったのか、隆明は満足そうにのぞき込んだ。
「安心しろ、俺だって、手荒なことは好まないんだ。お前の体に目立つ傷をつけるのも避けたいしな。――さて、そろそろ最終勧告といこうか。恥辱か栄達か、お前はどちらを選ぶ、御澄叶慧」
おぞましい声で、男が耳元で囁いた。
(どちらを選んだところで、やることにさほど差はないだろうに)
対象を屈服させようと目論んだ言葉が、逆に叶慧の中の怒りを煽る。
けれど、滾る反発心を抱く一方で、それと相反し氷のような感情を伴った声が、頭の中で呟く。
叶慧は小さく息を吐き、目を伏せた。
(……無理、だな)
四肢の自由が奪われたこの状況で、叶慧にできることは、大人しく助けが来ることを待つ以外に何もない。
であれば、この場で下手に抵抗の姿勢を見せることは愚策だ。
そんな動きを少しでも見せれば、敵の行動はますますエスカレートしていくだろう。
だから今は、どんな痛みも辱めも、甘んじて受ける他に手はない。
隆明が先見の目を欲している以上、最悪命までは取られやしないはずだ。
ゆっくりと、身体の力を抜いていく。
強張りがなくなっていくにつれて、感情までもが抜け落ちていく気がした。
悲鳴も憤りも、その全てを表には絶対に出さないで、無感情の人形に徹する。
それが、この場における最善手だと、判断を下した。
『何を置いても、先見が一個人の私欲に利用されることなど、あってはいけません。たとえそれが、自分の命に係わることであろうとも』
こんな時だというのに、いや、こんな時だからこそか。祖母の固い声が頭に響く。
叶慧はうっすらと笑った。
ええ、そうですねお祖母様。貴女の意図する方向とは違うでしょうが、その言葉には同意いたしますよと、誰にともなく呟く。
「……何なの、気味が悪い」
笑っているところを見られたのか、慄いたような女の声が聞こえると同時に、背中に衝撃を感じた。
せき込みはしたものの、もう先ほどまでのような怒りは湧いてこない。
そもそもにして、こんな状況になっているのは、自分がさっさと家に入らなかったことが原因だ。
この程度の痛みなど、戒めとして丁度いいくらいだろう。
(……足音、が)
すぐ近くまで聞こえてくる。第二撃がくるだろうかと、叶慧はぼんやりと思った。
感情を閉ざすように、ふっと瞼を下ろした。
――その時。
『――何で、抵抗しようとしなかったんですか?』
「……!」
突然、脳裏に蘇った声が、全身を震わせた。
不意打ちで水をかぶせられた時のように思考が鮮明になり、手足の先が熱を取り戻していく。
茫然とした顔で、誰にも聞こえないほどの声で、あかつき、と呟く。
動揺と疑問が思考を埋め尽くす。
何故、どうしてこのタイミングで、彼の言葉を思い出すのだ。
その理由を突き止めるより前に、記憶の中の桂太は、次々と言葉を発していく。
『――俺が、貴女が理不尽に傷つく姿を見たくないんです』
『――俺を付き人にした時点で、ご自分の不幸も幸せも、一人だけのものではなくなったと自覚してください、良いですね!』
そうだ。確かに彼は、そう言った。
投げやりな態度をとる自分に、痛みをこらえるような、とても真剣な目で、叱るように言ってくれたのだ。
口調は怒っているのに、どこまでも自分を気遣ってくれるその心が、嬉しくて嬉しくて堪らなかったのに。
その時の自分は驚くばかりで、ろくに礼も言えなかった。
「……あかつき」
今は傍にいないはずの声が、こんなにも鮮やかに耳と心を貫く。
自分ではない、誰かを通して向けられていると思い込んでいた言葉は、熱と衝撃をもって、萎えた四肢を打ち震わせていく。
こんなにも、芯を揺るがしていく声を、自分はついぞ知らない。
(……いや、違う)
とっさに浮かんだ言葉を、叶慧はすぐに打ち消す。
――知らなかったのではない。
気付かないように、していただけだ。
叶慧は唇を戦慄かせた。1人の青年の背中が、心に浮かぶ。
(深月……)
かつて、同じように温もりと柔らかさをもって己を包んでくれた声を、自分はまだ覚えている。
揺るがされることも温められることも、新鮮で心地よかった。
けれどそれ以上に、失った時は痛くて、息がつまるほど重くて苦しくて。
そんな思いをもう一度味わうのが、恐ろしくて堪らなかった。
だから、必死に拒絶した。
深月と同じように自分を見てくれる、桂太の言葉と心を。
「――よりにもよってこんな土壇場になって、気付かずとも良かろうに」
叶慧は小さく、覇気のない声で笑った。
ゆらりと顔を傾け、そのまま俯く。
頭を低くするとその分、地を這ってくる足音が大きく聞こえる。
ああ、大分近づいてきたなと、他人ごとのように思った。
けれど不思議なことに、その足音が、先ほどよりもひどくゆっくりに聞こえるのだ。
自分以外の時間が遅くなったような、とても不思議な感覚だった。
(よりにもよって……ではないか。きっとこんな状況だからこそ、思い出させてくれたんだな)
桂太が真心をもって伝えようとしてくれた言葉は、ちゃんと必要な時に、身をもってその意味を思い知る時に、叶慧の心に届いた。
かなわないな、と思わず苦笑を漏らす。
自覚するとやはり、過去の記憶と共に、じわりと広がる痛みが胸をえぐっていく。
けれど、想像していたよりずっと、痛苦も悲嘆も伴わなかった。
だってこの痛みは、桂太が叶慧に向けてくれた心の、そのままの重みを反映しているのだから。
「……本当に馬鹿だ」
叶慧はぎりっと唇を噛み、拳を握りしめる。
こんなにも痛くて、けれど泣きたいほどの温もりを帯びて胸を侵食する想いが、間接的なものであるはずがないのに。
桂太は疑いようもなく、叶慧に、他でもない叶慧自身に、心を砕いてくれていたというのに。
今になってようやく、実感できる。
理屈ではない。
でも、分かるのだ。相手の言葉が、自分に向けられたものか、そうでないのかは。
頭の中で難しく考える必要なんてない。
肌で、心で、声にのせた熱で、ありありと分かるものなのだ。
自分はそのことを、既に知っていたはずなのに。
自ら拒絶しておいて、そのくせ疑うなど、聞いて呆れる。
(こんな状況にでもならないと、自覚できなかったなんて)
ああ、自分は本当に、視野が、世界が狭い。
叶慧は瞑目した。
(……ごめん、明槻)
疑ってごめん。
話を遮ってごめん。
目を逸らして、耳を塞いでごめんなさい。
今、こんなにも。
こんなにも君に謝りたいことが、伝えたいことがある。
夜になって、朝がきてもきっと、足りないほどに。
あかつき。
あかつき、あかつき。
「……けいた」
叶慧は震える唇で、青年の名を紡ぐ。
きっと、伝えるから。
ちゃんと、君の言葉の続きも、聞かせてもらうから。
これ以上怪我を負わずに、帰るから。
……君がくれた優しい心に、報いてみせるから。
だから、どうか待っていて。
叶慧は心の中で祈ると、きつく瞑った目を、緩やかに開いた。
長い睫の下からは、清絶な瞳が、冬の朝のように張り詰めた光を覗かせていた。




