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先見のお嬢は、未来を憂う  作者: 和広奈子
30/44

30.ごめん

「う……っ」


 腹部に鈍く重い痛みを感じて、叶慧は歯を食いしばる。

 再び手の自由を奪われ、先ほどの部屋に連れ戻されたかと思えば、またもや床に転がされ腹を強く蹴られたのだ。蹴られたところが熱を持ち、全身に広がっていく。


 横になった視界の中で、部屋の様子が目に映る。連れてこられた直後、どこかの倉庫かと思っていた場所は、意外にも居住地だった。柔らかそうなソファとしっかりとした机、そしてランプと、西洋風な家具が揃えられた部屋は、中々快適そうである……こんな状況でなければ。


 蹲っていると、そのまま背中を踏みつけられる。

 叶慧を痛めつけることに遠慮はないながらも、決して見える位置に傷をつけようとはしないのが腹立たしい。

 肺を圧迫される苦痛を感じ、叶慧は隆明を上目遣いで睨んだ。


「いい加減、無駄な抵抗は諦めろ」


 かすむ視界の向こうに、おぼろげながら隆明の顔が見える。

 その口端は歪み、一層憎々しさを増幅させる。


「つまらん意地を捨てて、どうするのが己の利になるか、考えたらどうだ。そうまでして守るほどのものがあの家にあるわけでもないだろう。それとも、そんな目を持っているのに、大局を見据える視野を持ち合わせていないのか?」


(目先のことしか見ていないのは、お前の方だろう)


 反射的に悪態をつきつつも、息が苦しくて言葉に出来ない。


「そろそろ頷いてくれないと、俺も本格的に強硬手段に打って出るしかなくなるんだがな。ああそれとも、最初からそれをお望みか?」


 そう言って視線をやった先で、主の思惑を的確に汲み取った使用人たちが動き出す。

 カメラに、パソコンに、鋏に、縄に――。様々な方向で人に苦痛と屈辱を与えるために揃えられた道具が、整然と並べられていく。


 どうやって叶慧に協力を確約させるのか疑問だったが、協力せざるを得ないほどの脅迫材料を、この場で作るもりだったのかと、叶慧は納得した。


(良家の坊ちゃんがやるとは思えない、何とも下衆で乱暴な手だな)


 着々と準備される道具を、その使い道を正確に認識した上で、叶慧は無感動に眺めた。

 その表情を絶望だとでも読み取ったのか、隆明は満足そうにのぞき込んだ。


「安心しろ、俺だって、手荒なことは好まないんだ。お前の体に目立つ傷をつけるのも避けたいしな。――さて、そろそろ最終勧告といこうか。恥辱か栄達か、お前はどちらを選ぶ、御澄叶慧」


 おぞましい声で、男が耳元で囁いた。


(どちらを選んだところで、やることにさほど差はないだろうに)


 対象を屈服させようと目論んだ言葉が、逆に叶慧の中の怒りを煽る。


 けれど、滾る反発心を抱く一方で、それと相反し氷のような感情を伴った声が、頭の中で呟く。

 叶慧は小さく息を吐き、目を伏せた。


(……無理、だな)


 四肢の自由が奪われたこの状況で、叶慧にできることは、大人しく助けが来ることを待つ以外に何もない。

 であれば、この場で下手に抵抗の姿勢を見せることは愚策だ。

 そんな動きを少しでも見せれば、敵の行動はますますエスカレートしていくだろう。


 だから今は、どんな痛みも辱めも、甘んじて受ける他に手はない。

 隆明が先見の目を欲している以上、最悪命までは取られやしないはずだ。


 ゆっくりと、身体の力を抜いていく。

 強張りがなくなっていくにつれて、感情までもが抜け落ちていく気がした。


 悲鳴も憤りも、その全てを表には絶対に出さないで、無感情の人形に徹する。

 それが、この場における最善手だと、判断を下した。


『何を置いても、先見が一個人の私欲に利用されることなど、あってはいけません。たとえそれが、自分の命に係わることであろうとも』


 こんな時だというのに、いや、こんな時だからこそか。祖母の固い声が頭に響く。

 叶慧はうっすらと笑った。


 ええ、そうですねお祖母様。貴女の意図する方向とは違うでしょうが、その言葉には同意いたしますよと、誰にともなく呟く。


「……何なの、気味が悪い」


 笑っているところを見られたのか、慄いたような女の声が聞こえると同時に、背中に衝撃を感じた。

 せき込みはしたものの、もう先ほどまでのような怒りは湧いてこない。


 そもそもにして、こんな状況になっているのは、自分がさっさと家に入らなかったことが原因だ。

 この程度の痛みなど、戒めとして丁度いいくらいだろう。


(……足音、が)


 すぐ近くまで聞こえてくる。第二撃がくるだろうかと、叶慧はぼんやりと思った。


 感情を閉ざすように、ふっと瞼を下ろした。


 ――その時。



『――何で、抵抗しようとしなかったんですか?』



「……!」


 突然、脳裏に蘇った声が、全身を震わせた。

 不意打ちで水をかぶせられた時のように思考が鮮明になり、手足の先が熱を取り戻していく。


 茫然とした顔で、誰にも聞こえないほどの声で、あかつき、と呟く。


 動揺と疑問が思考を埋め尽くす。


 何故、どうしてこのタイミングで、彼の言葉を思い出すのだ。

 その理由を突き止めるより前に、記憶の中の桂太は、次々と言葉を発していく。



『――俺が、貴女が理不尽に傷つく姿を見たくないんです』 


『――俺を付き人にした時点で、ご自分の不幸も幸せも、一人だけのものではなくなったと自覚してください、良いですね!』



 そうだ。確かに彼は、そう言った。

 投げやりな態度をとる自分に、痛みをこらえるような、とても真剣な目で、叱るように言ってくれたのだ。


 口調は怒っているのに、どこまでも自分を気遣ってくれるその心が、嬉しくて嬉しくて堪らなかったのに。

 その時の自分は驚くばかりで、ろくに礼も言えなかった。


「……あかつき」


 今は傍にいないはずの声が、こんなにも鮮やかに耳と心を貫く。


 自分ではない、誰かを通して向けられていると思い込んでいた言葉は、熱と衝撃をもって、萎えた四肢を打ち震わせていく。


 こんなにも、芯を揺るがしていく声を、自分はついぞ知らない。


(……いや、違う)


 とっさに浮かんだ言葉を、叶慧はすぐに打ち消す。


 ――知らなかったのではない。

 気付かないように、していただけだ。


叶慧は唇を戦慄かせた。1人の青年の背中が、心に浮かぶ。


(深月……)


 かつて、同じように温もりと柔らかさをもって己を包んでくれた声を、自分はまだ覚えている。


 揺るがされることも温められることも、新鮮で心地よかった。

 けれどそれ以上に、失った時は痛くて、息がつまるほど重くて苦しくて。


 そんな思いをもう一度味わうのが、恐ろしくて堪らなかった。


 だから、必死に拒絶した。

 深月と同じように自分を見てくれる、桂太の言葉と心を。 


「――よりにもよってこんな土壇場になって、気付かずとも良かろうに」


 叶慧は小さく、覇気のない声で笑った。


 ゆらりと顔を傾け、そのまま俯く。

 頭を低くするとその分、地を這ってくる足音が大きく聞こえる。

 ああ、大分近づいてきたなと、他人ごとのように思った。


 けれど不思議なことに、その足音が、先ほどよりもひどくゆっくりに聞こえるのだ。

 自分以外の時間が遅くなったような、とても不思議な感覚だった。


(よりにもよって……ではないか。きっとこんな状況だからこそ、思い出させてくれたんだな)


 桂太が真心をもって伝えようとしてくれた言葉は、ちゃんと必要な時に、身をもってその意味を思い知る時に、叶慧の心に届いた。


 かなわないな、と思わず苦笑を漏らす。


 自覚するとやはり、過去の記憶と共に、じわりと広がる痛みが胸をえぐっていく。

 けれど、想像していたよりずっと、痛苦も悲嘆も伴わなかった。

 だってこの痛みは、桂太が叶慧に向けてくれた心の、そのままの重みを反映しているのだから。


「……本当に馬鹿だ」


 叶慧はぎりっと唇を噛み、拳を握りしめる。


 こんなにも痛くて、けれど泣きたいほどの温もりを帯びて胸を侵食する想いが、間接的なものであるはずがないのに。

 桂太は疑いようもなく、叶慧に、他でもない叶慧自身に、心を砕いてくれていたというのに。


 今になってようやく、実感できる。


 理屈ではない。

 でも、分かるのだ。相手の言葉が、自分に向けられたものか、そうでないのかは。

 頭の中で難しく考える必要なんてない。


 肌で、心で、声にのせた熱で、ありありと分かるものなのだ。


 自分はそのことを、既に知っていたはずなのに。

 自ら拒絶しておいて、そのくせ疑うなど、聞いて呆れる。


(こんな状況にでもならないと、自覚できなかったなんて)


 ああ、自分は本当に、視野が、世界が狭い。


 叶慧は瞑目した。


(……ごめん、明槻)


 疑ってごめん。

 話を遮ってごめん。

 目を逸らして、耳を塞いでごめんなさい。


 今、こんなにも。

 こんなにも君に謝りたいことが、伝えたいことがある。

 夜になって、朝がきてもきっと、足りないほどに。


 あかつき。

 あかつき、あかつき。


「……けいた」


 叶慧は震える唇で、青年の名を紡ぐ。


 きっと、伝えるから。

 ちゃんと、君の言葉の続きも、聞かせてもらうから。

 これ以上怪我を負わずに、帰るから。

 ……君がくれた優しい心に、報いてみせるから。


 だから、どうか待っていて。

 叶慧は心の中で祈ると、きつく瞑った目を、緩やかに開いた。

 長い睫の下からは、清絶な瞳が、冬の朝のように張り詰めた光を覗かせていた。


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