29.どうか
ピリリと、電子音が鳴る。
青年は左手だけでハンドルを操りながら、通話ボタンを押した。
「――明槻です」
『須藤です。今どのあたりでしょう?』
「目的地まで約10キロほどです。飛ばせば20分かからず到着すると思います」
黄色に変わった信号機を、スピードを一切緩めず通り過ぎながら桂太は淡々と返す。
声音こそ静かなものの、その眼光は刃のように鋭い。
『そうですか。ならば君が一番早く着きそうですね。……発信機の情報は、届いていますか?』
「はい。雪菜様が指示してくださった場所と、完全に一致します」
『そうですね。普段であれば陽動の可能性も考えますが、雪菜様が絡んでいる以上、ほぼ無いと言っていいでしょう』
桂太は「はい」と返す。
叶慧が連れ去られたと分かってからすぐに、御澄本家に招集がかけられた。
非番の者、普段は本家の使用人でない者も含めて、総勢50人ほどがものの十数分で揃った。
なにせ次世代の御澄家の要となる少女だ。
真価を知るものこそごく一部だが、詳しいことは知らされずとも、その重要度は御澄家全体に共有されている。
警察への連絡も含め、具体的な計画が立てられていたところへ、使用人の中で最も影響力の強い男が、静かに現れ、言った。
「警察の協力は必要ありません。範囲を無駄に広げる必要もありません。今から一部の者を残し、全員この場所へ向かいなさい。かなりの確率で、叶慧様はそこにいます」
そう言って、地図上の一点を指さした。
的確を通り過ぎてやけに限定的な指示に、若い年代の者たちの間で、戸惑いを伴ったざわめきが起こった。
須藤はその者たちに目をやり、にこりとほほ笑んで口を開いた。
「今は無駄口をきいている暇はありません。迅速に指示に従い、確実に任務を果たしなさい。御澄の使用人に、無能はいません。この意味は、もちろん分かりますね?」
微笑をたたえながら、和やかさを一切含まない視線で、須藤は言った。
水を打ったように、その場が静まり返る。
誰も口を挟もうとしないのを見届け、須藤は笑った。
「ほら、急ぎなさい。もうとっくに準備できている者もいるんですからね」
そう言って桂太を見る。
「――行って、いいですか」
落ち着き払った声で、冷静な態度で、須藤に向き合う。
須藤は微笑んだまま、「ええ」と言った。
すぐさま動きだした桂太に、周りの者も慌てて付いて行く。
「……先ほどの指示は、雪菜様からです。間違いなく、叶慧様はそこにいます。急いでくださいね」
すれ違いざま、桂太にだけ聞こえるように言った須藤の言葉に、振り向かずに「はい」とだけ答えた。
『発信機の場所にある建物ですが、どうやら新條家が所有するもののようですね』
「そうみたいですね」
桂太の声音に、須藤が「おや」と漏らした。
『その口ぶりだと、知っていましたか』
「……新條隆明が警戒人物リストに上がった時点で、身辺情報も一通りは調べましたから」
もっとも、それでこの体たらくでは、まったく意味がないのだが。
無意識に力をこめていた拳を緩めると、慎重に息を吐く。
(落ち着け)
感情の乱れは判断を鈍らせる。今、自分の感情に付き合っている暇はないのだ。
『場所が場所なので、新條家からも人員が割かれます。おそらく君と同時刻に、あちらの応援も着くでしょう。現場での指示は、一色という人に従いなさい』
「俺と、同時刻に……? 随分と速い対応ですね」
訝し気な桂太の声に、須藤が笑った気配が電話ごしに聞こえた。
『そうですね。ですがその辺は、君が気にする必要のないことですよ。それでは、何かあれば逐一連絡することを、お忘れなく』
穏やかだが、有無を言わせない迫力をもった須藤の声に返事をして、桂太は携帯を横に置く。
再び、静寂が訪れた。
『――やはり、そうなのか』
覇気のない、叶慧の声が頭に響く。
桂太が叶慧の付き人になった背景に、御澄朱里のことが関係しているのか。
その問いに是と答えた時の、叶慧の表情が脳裏に焼き付いて忘れられない。
めったに感情の揺れを表に出さない少女の、寂しげに俯く姿を浮かべるたび、違うのだと、何度も心の中で言い分けをしている。
『――どうか、したのか?』
しとしとと降る雨に紛れるように、静かに言葉をかけてきた少女。
あの日、初めて言葉を交わした時からずっと、もう一度会いたいと願ってきた。
だからどうしても、叶慧の付き人になりたかった。
それは決して、誰に言われたからでも、誰の影響でもなくて。
俺が貴女に会いたかったのだと、ただ純粋にそう伝えれば良かったのに。
『――分家でのことは、叶慧様の前ではしばらく口にしないように。知ってしまっては、警戒されたり不信感を持たれても仕方がないですから。余計な偏見を持たれぬよう、頃合いを見て私が話すとしましょう』
そう言った須藤の言葉に従ったのは、上司の言葉だったからというだけではない。
他でもない自分自身も、そうしたいと思ってしまったからだ。
なにせ前経歴は、主人を気鬱にまで追い込んだ、役立たずの付き人だ。
もしそれを知られたら、失望されるどころではないのは、想像に難くない。
――そんな浅はかな自己保身のせいで、叶慧を不安にさせて、こんな危険な状況に追いやっている。
大型トラックが通りすぎる前で、ブレーキを踏む。
桂太はハンドルを強く握りしめたまま、顔を伏せた。
「つくづく、付き人の資格ねえなあ……」
己に毒を吐き、自嘲気味に笑う。
(全部、どうでもよかったのに)
自己保身も、上司の指示も、昔の過ちも。
その何もかもが、叶慧の前では取るに足らない。
どちらが大切かなんで、比べるべくもない。
本当に、大事なのは。
何より優先すべきものは、叶慧の笑顔のはずだったのだと、こんなことになってから痛烈に思い知る。
「――不甲斐ない付き人で、申し訳ありません」
姿の見えぬ相手に懺悔する。
もう、痛いほど思い知った。
帰ったら、何もかも話すから。
隠していたことを、打ち明けるから。
貴女の知りたいことはいくらでも、夜が明けて朝になったとしても、話し続けるから。
だから、どうか。
(……お嬢)
どうか、どうか。
「俺が着くまで、無事でいてください」




