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先見のお嬢は、未来を憂う  作者: 和広奈子
27/44

27.問い

 翌日の放課後、叶慧は(はた)から見ればいつもと何ら変わらぬ様子で駐車場に向かう。


(いつも通り、いつも通り、いつも通り……)


 呪文のように言い聞かせて、強張った面持ちでゆっくりと歩く。


 ――昨日、祖母の部屋で聞いてしまったことは、いったん忘れようと決めた。


 叶慧はぴたりと足を止める。

 唇を噛みしめて、歪んだ顔を、間違っても誰かに見られないよう、足下を睨んだ。


 忘れようと、決めた。


 気にしたところで何が変わるわけでも、変えるつもりもない。


 ――それなのに、心はどうしても波立つ。


 聞き分けの無い子供のような心が、どうしようもなく腹立たしい。

 叶慧は片方の手に、爪を強く食い込ませた。苛立ちが幾分かなくなり、少しだけ冷静さが戻ってきた。


「いつも通りだ」


 声を抑えて呟くと、叶慧は再度歩き出した。


 大丈夫、目覚めてから学校に着くまではちゃんとやれた。

 あと少しだけだ。きっと今日が過ぎれば、少しは落ち着くはずだから。


 そう言い聞かせて、叶慧は目前の車を見つめて、息を吸う。


 「ご苦労」


 迎えに来た桂太に固い声音で一声かけ、既に開けられていたドアに手をかける。

 事務的な声で、「お疲れ様でした」と言葉が返ってきたのを聞き届ける。


 叶慧が乗り込むと、車はほどなくして発進した。

 心地よい揺れに、叶慧はやがて微睡み始める。


 実は昨日の夜はなかなか寝付けなくて、朝からずっと猛烈に眠かったのだ。

 それに眠気に身を任せると、ささくれ立っていた心を遥か彼方に押しやることができる。


 本格的に寝ようかと目を閉じたところで、静かな声が耳に入ってきた。


「……叶慧様」


「なんだ」


 半分寝ていた叶慧は、桂太の声に飛び起きる。


 声をかけた当人は、少しためらいがちに口を開いた。


「その、今日は朝からお顔の色が優れなかったようですが、お疲れがたまっているのではないですか? それにどことなく、気落ちされているようにもお見受けしましたが」


 叶慧は虚を突かれて、黙り込んだ。ややあって、ため息と一緒に言葉を吐き出した。


「………よく、見ているな」


 思わず苦笑した。


 朝からいつも通りに振る舞えていると思っていたのは、自分だけだったのか。

 そう思うと滑稽で、苦笑いを浮かべずにはいられなかった。


 けれど驚くべきは、桂太の観察力にもあるだろう。

 よく、朝からの短い会話だけで、叶慧の心情まで察したものだと、素直に感心する。


(相変わらず目ざとい)


 他の誰も、気付かなかったというのに。



 ――また、主人が倒れでもしたら困るものな。



「……っ!」


 叶慧は息を呑んだ。ちらりと自分の頭をよぎった、卑屈な考えに狼狽える。


 口を手で覆い、邪念を振り払うように、ぶんぶんと頭を振った。


 違う、違う。こんな気持ち、本心なんかじゃない。


 こんなに捻くれたことを考えてしまうのはきっと、疲れているからだ。

 そう言い聞かせて、深呼吸をする。


 それでも手が、喉が震える。

 どうやっても心はざわついたまま、鎮まる気配はない。


「? 叶慧様、何かありました……」


「何でもない」


 何やら様子がおかしい叶慧に、桂太が気遣わし気な声をかける。

 とっさに否定したものの、桂太の声を聞くと、胸中の靄は一層濃くなる。


 小さなきっかけ一つで心がどうしようもなくざわめいて、衝動と自制心とがせめぎあう。


「――明槻」


 揺らぐ感情をしばらくは抑えつけていたものの、聞いてはいけないと分かっていても、もうこれ以上、堪えることができなかった。


 おそるおそる、ずっと聞きたかったことを、口にする。


「君が私の付き人になる前、御澄朱里の付き人だったという話は、本当か」


「……!」


 “御澄朱里”


 その名を聞くやいなや、桂太が驚愕する気配が伝わってきた。


 動揺が空気を伝い、叶慧の方までやってくる。


 逡巡しているのか、桂太は中々答えようとしない。もしくは、答えられないのかもしれないが。

 

 重くて痛い沈黙が、広い車の中に満ちる。

 叶慧は乾いた唇を湿らせた。


「……昨日、お祖母様とそう話していたのを、聞いてしまったんだ」


 叶慧にしては珍しく細い、けれどしっかりと通る声を聞き、桂太は瞠目する。


 ――目の前の信号が、青から赤に変わる。

 桂太は振動を全く感じさせずにブレーキを踏み停車させると、そのまま目を伏せた。



「……おっしゃる通りです。貴女の元に来るまでは、御澄朱里様のところで、付き人の任に就いていました」


 桂太はやがて観念したように、絞り出すような声で言葉を吐き、叶慧の言葉を肯定した。


「――やはり、そうなのか」


 ぽつりと、それだけを呟いた。


 無意識のうちに体から力が抜け、声が掠れる。


 知ってはいた。疑っていたわけでもない。

 だけど、桂太の口から聞くまでは、どこか信じきれないでいたことを、今更ながらに身をもって思い知る。


「……では、君が今ここにいるのと、朱里が臥せってしまったこととは、何か関係があるのか?」


 声が震えないように、叶慧は慎重に言葉を重ねる。


「それは……っ」


 桂太は目に見えて狼狽えた。

 質問の答えを知るには、その反応だけで、もう十分だった。


(そう、か)


 瞬間感じたのは、誤魔化しようのない寂しさ。


 けれどそれより大きな空虚が心を覆って、叶慧の感覚を麻痺させる。


 目は濁っているのに、愉しくもないのに、口元が弧を描いて、歪な笑みを形作る。

 きっと今の自分は、さぞおぞましい顔をしているに違いないと、他人ごとのように思った。


 ――見計らったかのように、信号が青になった。

 車の振動がそのまま叶慧自身も揺らす。全身を強張らせているからか、やけに振動を大きく感じる。


「すまない」


 叶慧は強張ったままの唇を、何とか動かした。


「……寝不足のせいか、急に眠くなってきてしまった。到着したら起こしてくれ」


 そう言って一方的に目と耳を閉じる。

 卑怯だとは思ったが、今はそうすることしかできなかった。


 沈む意識の中、桂太が「……はい」と零す声が、遠くから聞こえた気がした。




 車はほどなくして、御澄本家に到着した。


「ありがとう」


 叶慧はすぐさま降車する。

 そのまま足早に去ろうとすると、背後から焦りを帯びた声がかけられた。


「叶慧様、どうか一度話を……」


「―――だめだ!」


 追ってきた桂太の言葉を、叶慧は反射的に遮る。

 青年の動きが、ぴたりと止まった。


 彼からは見えなくなるように、叶慧は顔をそむける。

 とてもじゃないが、今、桂太の顔を真っすぐ見れそうになかった。


「……すまない。話は後で、必ず聞くから。今はまだ、待ってくれ」


 俯いたまま呟く叶慧を前に、桂太は一度口を開きかけたが、すんでのところで呑み込んだ。

 青年は固く口を引き結ぶと、そのまま静かに頭を下げる。


「――車を戻してきます」


 それだけを伝えて、車に乗り込んだ。


 後に残った叶慧は、すぐに門にくぐろうとはしなかった。

 家に入るどころか、その場から一歩も動けなかったのだ。


「何で、あんなことを」


 聞いてしまったのだろう。

 今になって、激しい後悔が襲う。

 小さく呟き、両手で顔を覆った。


 桂太が今まで叶慧に打ち明けなかったということは、それだけ触れてほしくない話題であったことに他ならない。


 それを分かっていながら、なぜそっとしてあげることができなかった。

 自分は桂太にあれほど、気遣ってもらったというのに。


 勝手に聞き出して、勝手に落ち込んで、拒絶して。


 己の不甲斐なさに憤りが湧いてくる。


 感情コントロールには自信があったのに、昨日から全然自己制御ができていない。


(……また、彼に言葉を呑み込ませてしまった)


 後悔と自己嫌悪で頭がいっぱいになって、塀に頭部を預ける形で寄りかかる。

 背後にじめじめとした哀感をたたえ悄然と肩を落とす姿は、普段の叶慧からは想像もつかないものだった。


 しばらくそうしていた叶慧だったが、やがてのろのろと顔を上げた。


「いいかげん、家に入らなければ……」


 力なく呟き、ようやく足を踏み出した、その瞬間。


 突然、強い力で後ろから引っ張られる感覚があった。


「……⁉」


 異変を感じた直後、目と口が塞がれ、暗闇が視界を覆う。


 そのまま車に連れ込まれかけるのを感じ、叶慧は片方の靴が脱げながらも必死に抵抗を試みる。

 けれどその甲斐もなく、無理やり後部座席へ押し込まれてしまった。


 上から乱暴に押さえつけられ、あっと言う間に手と足が縛られる。


「出せ」


 指示を出したのは、若い男の声だった。

 その声色に聞き覚えがあった叶慧は、目隠しの下で驚愕する。


 車は男の命に忠実に、右へ左へと忙しく進路を変えながら、かなりの速さで進んでいった。


 一体、どこへ行こうというのか。視界と手足の自由を奪われた叶慧に、それを知り得る術はなかった。



 ――丁度その頃。


 御澄本家の門前では、一人の青年が茫然といった体で佇んでいた。


「……まさか」


 うわ言のように呟く視線の先には、女性用の黒い革靴が握られている。


 次の瞬間、青年は血相を変えて駆け出して行った。



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