27.問い
翌日の放課後、叶慧は傍から見ればいつもと何ら変わらぬ様子で駐車場に向かう。
(いつも通り、いつも通り、いつも通り……)
呪文のように言い聞かせて、強張った面持ちでゆっくりと歩く。
――昨日、祖母の部屋で聞いてしまったことは、いったん忘れようと決めた。
叶慧はぴたりと足を止める。
唇を噛みしめて、歪んだ顔を、間違っても誰かに見られないよう、足下を睨んだ。
忘れようと、決めた。
気にしたところで何が変わるわけでも、変えるつもりもない。
――それなのに、心はどうしても波立つ。
聞き分けの無い子供のような心が、どうしようもなく腹立たしい。
叶慧は片方の手に、爪を強く食い込ませた。苛立ちが幾分かなくなり、少しだけ冷静さが戻ってきた。
「いつも通りだ」
声を抑えて呟くと、叶慧は再度歩き出した。
大丈夫、目覚めてから学校に着くまではちゃんとやれた。
あと少しだけだ。きっと今日が過ぎれば、少しは落ち着くはずだから。
そう言い聞かせて、叶慧は目前の車を見つめて、息を吸う。
「ご苦労」
迎えに来た桂太に固い声音で一声かけ、既に開けられていたドアに手をかける。
事務的な声で、「お疲れ様でした」と言葉が返ってきたのを聞き届ける。
叶慧が乗り込むと、車はほどなくして発進した。
心地よい揺れに、叶慧はやがて微睡み始める。
実は昨日の夜はなかなか寝付けなくて、朝からずっと猛烈に眠かったのだ。
それに眠気に身を任せると、ささくれ立っていた心を遥か彼方に押しやることができる。
本格的に寝ようかと目を閉じたところで、静かな声が耳に入ってきた。
「……叶慧様」
「なんだ」
半分寝ていた叶慧は、桂太の声に飛び起きる。
声をかけた当人は、少しためらいがちに口を開いた。
「その、今日は朝からお顔の色が優れなかったようですが、お疲れがたまっているのではないですか? それにどことなく、気落ちされているようにもお見受けしましたが」
叶慧は虚を突かれて、黙り込んだ。ややあって、ため息と一緒に言葉を吐き出した。
「………よく、見ているな」
思わず苦笑した。
朝からいつも通りに振る舞えていると思っていたのは、自分だけだったのか。
そう思うと滑稽で、苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
けれど驚くべきは、桂太の観察力にもあるだろう。
よく、朝からの短い会話だけで、叶慧の心情まで察したものだと、素直に感心する。
(相変わらず目ざとい)
他の誰も、気付かなかったというのに。
――また、主人が倒れでもしたら困るものな。
「……っ!」
叶慧は息を呑んだ。ちらりと自分の頭をよぎった、卑屈な考えに狼狽える。
口を手で覆い、邪念を振り払うように、ぶんぶんと頭を振った。
違う、違う。こんな気持ち、本心なんかじゃない。
こんなに捻くれたことを考えてしまうのはきっと、疲れているからだ。
そう言い聞かせて、深呼吸をする。
それでも手が、喉が震える。
どうやっても心はざわついたまま、鎮まる気配はない。
「? 叶慧様、何かありました……」
「何でもない」
何やら様子がおかしい叶慧に、桂太が気遣わし気な声をかける。
とっさに否定したものの、桂太の声を聞くと、胸中の靄は一層濃くなる。
小さなきっかけ一つで心がどうしようもなくざわめいて、衝動と自制心とがせめぎあう。
「――明槻」
揺らぐ感情をしばらくは抑えつけていたものの、聞いてはいけないと分かっていても、もうこれ以上、堪えることができなかった。
おそるおそる、ずっと聞きたかったことを、口にする。
「君が私の付き人になる前、御澄朱里の付き人だったという話は、本当か」
「……!」
“御澄朱里”
その名を聞くやいなや、桂太が驚愕する気配が伝わってきた。
動揺が空気を伝い、叶慧の方までやってくる。
逡巡しているのか、桂太は中々答えようとしない。もしくは、答えられないのかもしれないが。
重くて痛い沈黙が、広い車の中に満ちる。
叶慧は乾いた唇を湿らせた。
「……昨日、お祖母様とそう話していたのを、聞いてしまったんだ」
叶慧にしては珍しく細い、けれどしっかりと通る声を聞き、桂太は瞠目する。
――目の前の信号が、青から赤に変わる。
桂太は振動を全く感じさせずにブレーキを踏み停車させると、そのまま目を伏せた。
「……おっしゃる通りです。貴女の元に来るまでは、御澄朱里様のところで、付き人の任に就いていました」
桂太はやがて観念したように、絞り出すような声で言葉を吐き、叶慧の言葉を肯定した。
「――やはり、そうなのか」
ぽつりと、それだけを呟いた。
無意識のうちに体から力が抜け、声が掠れる。
知ってはいた。疑っていたわけでもない。
だけど、桂太の口から聞くまでは、どこか信じきれないでいたことを、今更ながらに身をもって思い知る。
「……では、君が今ここにいるのと、朱里が臥せってしまったこととは、何か関係があるのか?」
声が震えないように、叶慧は慎重に言葉を重ねる。
「それは……っ」
桂太は目に見えて狼狽えた。
質問の答えを知るには、その反応だけで、もう十分だった。
(そう、か)
瞬間感じたのは、誤魔化しようのない寂しさ。
けれどそれより大きな空虚が心を覆って、叶慧の感覚を麻痺させる。
目は濁っているのに、愉しくもないのに、口元が弧を描いて、歪な笑みを形作る。
きっと今の自分は、さぞおぞましい顔をしているに違いないと、他人ごとのように思った。
――見計らったかのように、信号が青になった。
車の振動がそのまま叶慧自身も揺らす。全身を強張らせているからか、やけに振動を大きく感じる。
「すまない」
叶慧は強張ったままの唇を、何とか動かした。
「……寝不足のせいか、急に眠くなってきてしまった。到着したら起こしてくれ」
そう言って一方的に目と耳を閉じる。
卑怯だとは思ったが、今はそうすることしかできなかった。
沈む意識の中、桂太が「……はい」と零す声が、遠くから聞こえた気がした。
車はほどなくして、御澄本家に到着した。
「ありがとう」
叶慧はすぐさま降車する。
そのまま足早に去ろうとすると、背後から焦りを帯びた声がかけられた。
「叶慧様、どうか一度話を……」
「―――だめだ!」
追ってきた桂太の言葉を、叶慧は反射的に遮る。
青年の動きが、ぴたりと止まった。
彼からは見えなくなるように、叶慧は顔をそむける。
とてもじゃないが、今、桂太の顔を真っすぐ見れそうになかった。
「……すまない。話は後で、必ず聞くから。今はまだ、待ってくれ」
俯いたまま呟く叶慧を前に、桂太は一度口を開きかけたが、すんでのところで呑み込んだ。
青年は固く口を引き結ぶと、そのまま静かに頭を下げる。
「――車を戻してきます」
それだけを伝えて、車に乗り込んだ。
後に残った叶慧は、すぐに門にくぐろうとはしなかった。
家に入るどころか、その場から一歩も動けなかったのだ。
「何で、あんなことを」
聞いてしまったのだろう。
今になって、激しい後悔が襲う。
小さく呟き、両手で顔を覆った。
桂太が今まで叶慧に打ち明けなかったということは、それだけ触れてほしくない話題であったことに他ならない。
それを分かっていながら、なぜそっとしてあげることができなかった。
自分は桂太にあれほど、気遣ってもらったというのに。
勝手に聞き出して、勝手に落ち込んで、拒絶して。
己の不甲斐なさに憤りが湧いてくる。
感情コントロールには自信があったのに、昨日から全然自己制御ができていない。
(……また、彼に言葉を呑み込ませてしまった)
後悔と自己嫌悪で頭がいっぱいになって、塀に頭部を預ける形で寄りかかる。
背後にじめじめとした哀感をたたえ悄然と肩を落とす姿は、普段の叶慧からは想像もつかないものだった。
しばらくそうしていた叶慧だったが、やがてのろのろと顔を上げた。
「いいかげん、家に入らなければ……」
力なく呟き、ようやく足を踏み出した、その瞬間。
突然、強い力で後ろから引っ張られる感覚があった。
「……⁉」
異変を感じた直後、目と口が塞がれ、暗闇が視界を覆う。
そのまま車に連れ込まれかけるのを感じ、叶慧は片方の靴が脱げながらも必死に抵抗を試みる。
けれどその甲斐もなく、無理やり後部座席へ押し込まれてしまった。
上から乱暴に押さえつけられ、あっと言う間に手と足が縛られる。
「出せ」
指示を出したのは、若い男の声だった。
その声色に聞き覚えがあった叶慧は、目隠しの下で驚愕する。
車は男の命に忠実に、右へ左へと忙しく進路を変えながら、かなりの速さで進んでいった。
一体、どこへ行こうというのか。視界と手足の自由を奪われた叶慧に、それを知り得る術はなかった。
――丁度その頃。
御澄本家の門前では、一人の青年が茫然といった体で佇んでいた。
「……まさか」
うわ言のように呟く視線の先には、女性用の黒い革靴が握られている。
次の瞬間、青年は血相を変えて駆け出して行った。




