26.理由
同日の夕方、学校から戻り自室で着替えると、叶慧は真っすぐに祖母の部屋に向かう。
言うまでもなく、今日の出来事を報告するためだった。
「……!」
しかし、襖の前に立ったところで、叶慧は足を止める。
中から、人が話す声が聞こえてきたからだ。話し手の一人は勿論祖母だが、もう一人は予想外の人物だった。
(明槻……?)
部屋から聞こえるのは紛れもなく、数分前、車の中で別れたばかりの付き人の声だった。
叶慧の付き人とは言え雇い主は雪菜なのだから、会話していること自体は不自然な状況ではない。
が、どうにも内容が気になって叶慧は聞き耳を立てる。
襖越しに、雪菜の声が聞こえてきた。
「――あの子の付き人として、今のところはうまくやれているようですね」
なんと、話題は自分のことだ。
ますます気になって、叶慧はごくりと唾を呑む。
「はい。須藤さん始め、皆々様のお力添えのおかげで、何とか務めることができています」
桂太の声だ。
本来の明るさからすると、かしこまった話し方は、どこか別人のようにも聞こえる。
(最近は、私に対してもあんな口調だけれど)
――当たり前だ。他でもない、自分が命じたのだから。
何故だか急に冷えていく胸を押さえ、叶慧は瞳を伏せた。
「付き人に任じるにあたり、貴方には懸念する点もあったのですが。とりあえずは、須藤の熱心な推薦に耳を貸しておいて良かったと思っていますよ」
「――身に余るお言葉です」
付き人として、懸念する点?
祖母の言葉に叶慧は首を傾げる。
少なくとも能力的な面においては、明槻は十二分にその資格があるはずだ。
すぐ傍で盗み聞きをしている孫がいるとは露知らず、雪菜は嘆息した。
何気なく、次の言葉を紡ぎ出す。
「貴方が朱里の付き人だったという経緯を聞いた時には不安に思いましたが、結果その経験が活かされているのでしょうね」
「………え?」
思わず声を漏らしてしまい、叶慧は慌てて口を塞ぐ。
(今、なんて)
叶慧は祖母の言葉を反芻する。
何度思い返しても、確かに彼女の名を、朱里という音を口にしていた。
御澄朱里。
御澄分家の少女。同世代の中で、叶慧の次に強い先見の力を持った少女。
(確か、数か月前から、気鬱で臥せっていると……)
桂太が御澄家にやって来た日に、そう、聞いていた。
その時は心配に思いこそすれ、それ以外の感情は特に抱かなかった。
たった今、祖母の言葉を聞くまでは。
(明槻が、朱里の元付き人……⁉)
以前にも、先見の力を持つ者に仕えていたというのか。
だからあれほど、先見の力に詳しくて、その存在に驚くこともなかったのか。
心当たりを探せば、腑に落ちる点はいくらでもあった。
けれど先見の力の保持者に、二人以上仕えた付き人の話など聞いたことがない。
混乱する頭を、何とか回転させる間にも、二人の話は続いていく。
思考はこんがらがっているのに、聞きなれた祖母の声は、憎らしいほど鮮明に耳に入ってくる。
「朱里の件の罪滅ぼしかまたは別の目的か。分家で付き人の任を解かれてさほど間を置かずに、貴方が叶慧の付き人を強く熱望した理由は最早問うことはしませんが、この調子で今後も励みなさい。最低限の責さえ果たせば、こちらからそれ以上の要求をすることはありません」
雪菜が話を切り上げる気配を感じた叶慧は、慌ててその場を離れ、真っすぐに自分の部屋へ向かった。
なるべく物音をたてず扉を閉めると、そのままずり落ちるように座り込む。
骨でも抜かれてしまったみたいに、足に力が入らない。
(行かなければ。お祖母様に、ご報告を……)
今を逃せば、今日はもう時間を取れなくなる。
分かっているのに、頭を占拠するのは、まるで別人のような桂太の固い声と、冷たく鋭い、祖母の言葉。
「罪……滅ぼし……」
一音一音、言葉の正体を確かめるように、噛みしめて呟く。
それが、桂太が叶慧の元にやってきた理由だというのだろうか。
すぐ傍にいながら朱里を、主人を助けられなかった贖罪の念から、朱里と同じく先見の力を持つ叶慧に仕えようと思ったとでもいうのか。
「朱里の面影を、私に重ねて」
口にして、叶慧は笑った。
そんなはずはない。
だって彼はそんな素振り、一度も見せなかったじゃないか。だからこそ自分も、今の今までその可能性に気付かなかった。
彼はいつも、叶慧自身に笑顔を向けていてくれたはずだ。
そう思う一方で、引っかかることもあった。
――何度思ったことだろう。なぜこんなにも彼は、自分に尽くしてくれるのだろう、と。
会ったことも話したこともないはずの彼が、あれほど忠誠を捧げてくれた理由など、叶慧には見当もつかない。
あるとするならば、御澄家もしくは先見の目そのものに幻想を抱いているか。
てっきり最初はそうだと思ったが、彼の言葉と行動は、そのいずれでもないことを証明している。
けれど、もし。
もし、自分に向けられていると思っていた誠意が、笑顔が、他の誰かの存在を通して与えられていたとしたら。
自分の疑問に、説明がつくのではないか。
「……」
叶慧は手足をだらりと床に投げる。
何度試みても、腰を上げることができない。
いや、立とうという気概さえ起らないのだ。
諦めて、耳をふさぐかたちで頭を抱えた。
「………問題ない」
桂太の心が誰を見ていようが、その忠誠が本当は誰のものか、そんなことはどうでもいい。
現在の彼は、叶慧の付き人として申し分ない働きをしてくれている。その事実があれば十分だ。
むしろ、彼と距離を置きたかった自分にとっては好都合のはず。
もっとも、元々彼が叶慧自身に入れ込んでいなかったのなら、今までとんだ勘違い発言をしてしまったことにはなるが。
「問題ない」
叶慧は掠れた声で、もう一度呟く。
膝に顔を埋め、両手で強く肩を抱くその姿は、まるで何かから己を守っているようだった。
――結局その日は、祖母の部屋に寄りつくことができなかった。




