25.怒気
昼休みのチャイムが鳴る。
いつもの場所に行こうとした叶慧は、どこからか聞こえてきた笑い声に反応する。
振り仰ぎ、心に浮かべていた姿とは全く違う生徒を見て唇を噛んだ。
「何をやっているんだ……」
頭を振って、記憶を拭おうとしても、やはり心に染みついた言葉が脳裏を離れない。
――御澄さんが本当に望むことって何?
「……そんなこと、分からない」
考えようとしたこともなかった。
いや、遠い昔にはあったのかもしれないが、もう思い出せない。
第一に周囲があって、自分が成り立つ。
それが当たり前だった。自分のことを真っ先に考える必要などどこにもなかった。
特に、ここ数年は。
自分の行動原理の下には常に、他の存在が横たわっている。
何かのために、誰かのために。ひいてはそれが、自分のために。
そういうことは多々あっても、どうにも理香の問いに対する答えにはそぐわない気がした。
だからやはり答えは「分からない」の一言になる。
……何だか自分がひどく、空っぽなものに思えた。
必然、心は億劫になる。
ため息をつきながら歩いていると、いつの間にか目指す場所に着いていた。
「……」
到着するなり、叶慧は眉をひそめた。
美しく整った顔に、みるみる険しい色が広がっていく。
その原因に向けて、細められた目をやる。
いつも通り、誰もいないはずの場所に、なぜだか見慣れる人影があった。
「……どちら様でしょうか」
さっぱりした色の洋服を身にまとった中年の女性に、固い声音で尋ねる。
黒々とした髪を清潔にまとめあげ、楚々と佇む姿は一見、ただの上品な婦人のようだ。
けれど付け入る隙を与えないような堂々とした態度、そして何より叶慧を待ち伏せしていたかのような状況に、不信感は募る。
警戒心をこめて睨むが、相手は物怖じすることなく、にっこりと仮面のような笑顔を浮かべた。
二人が対峙している場所は叶慧が通う学校の裏庭で、周りには誰もいない。
昼時の今、生徒たちは皆教室や屋上で昼食を食べており、わざわざ日当たりの悪く湿気のある場所になど来ないのだ。
そんな場所に好き好んでやってくるのは叶慧くらいのもの……の、はずだったのに。
「御澄、叶慧様ですね」
「……」
何とも言えない気味の悪さに叶慧が黙り込んでいると、女性は突然、頭を下げた。
「このような場所で、前触れもなく迎えましたる無礼、どうかご容赦ください。私は新條の若様にお仕えしている者でございます。本日は貴女様にお願いがあって、まかりこしました」
「新條家の……?」
叶慧が目を見開くと、女性は上品にほほ笑んだ。
「……なるほど。話というのは、隆明様がらみですか」
「若様」というからには新條家の男子を指しているのだろう。
が、もし尚之の手の者であれば、こんな風に人目をはばかるようなことをせず、堂々と御澄本家にやって来るはずだ。
大っぴらに御澄家の敷居をまたげないような、後ろ暗い事情を抱えた新條家の人間。
現段階でそれに該当するのは隆明しかいない。
案の定、女性は頷いた。
「ええ、まさしく。……御澄叶慧様、単刀直入に申し上げます。どうか隆明様に、ご助力くださいませんか」
「……どういうことです」
冷めた目で叶慧は相手を見る。
叶慧の問いに、女性は声に力を込めて答え始めた。
「貴方様もご存知でしょう。将道様が新條家の跡継ぎを、尚之様に定められたことを」
そこまで言って、女性は悔し気に顔を歪めた。
拳を握りこみ、ぎりりと歯噛みした唇の間から、震える声で言葉を吐き出す。
「そんな……っ、そんな馬鹿な話、あっていいはずありません……っ。隆明様の方がご気性も知性も政治家としての資質も尚之様よりよほど優れているというのに、他でもないお父上に選ばれないなんてこと、あるはずがない!」
女性は体全体で、屈辱を表している。
凪いだ水面のように穏やかだった様から一変して、激情のままに身を震わせるその姿に、叶慧は驚愕した。しかし内心の動揺を押し隠し、言葉をかける。
「……岡目八目という言葉もあります。隆明様への情が深すぎる故に貴女方が見えなかった部分を、将道様は見抜いておられたのではないですか」
「いいえ、そんなはずありません!」
女性は即座に、甲高い声で叶慧の言葉を否定する。
「私たちは隆明様を幼い頃から見てまいりました。奔放で軽はずみな行動をなさる尚之様と違って、隆明様はいついかなる時も、新條家のご長男としてお父上の言葉に忠実に従ってこられたのです。お父上を敬愛し、お父上が歩んでこられた道をひたすらに追ってこられたのです、その姿をいつもお近くでつぶさに見守ってきた私たちが、隆明様のことで知らないことなど無いに決まっているでしょう!」
「……隆明様の方が優れているとは仰りますが、尚之様とて現在は隆明様と同じ大学で、熱心に学ばれていると聞きます。隆明様が将道様の足跡をたどる努力をされてこられたと言うのなら、尚之様はご自身で道を拓く努力をされてこられたというだけではないのですか」
「だとしても、隆明様の方が心身ともに優れたお人であることに、変わりはありません」
間髪入れず言い返す女性に、何をもってこれほど自信満々に言い切るのかと、叶慧は呆れるような感心するような思いを抱く。
隙を見て帰ってもいいのだが、隆明側が何か事を起こそうと動いているのなら、その動向を探っておきたくもある。
(今月はつくづく、昼食に縁がない)
息を吐き、叶慧はげんなりと口を開いた。
「それで、具体的に何をしろというのです?」
女性はようやく興奮を鎮め居住まいを正すと、叶慧に真っすぐ向かい合う。
「……御澄雪菜様が行われた「先見」という儀式の、やり直しをお願いしたいのです」
思いがけない「先見」という言葉に、叶慧は目を瞠った。
慎重に言葉を吐く。
「その言葉は、新條家では当主の血族しか知らないはずですが」
女性はどこか誇らし気に胸を張った。
「数日前に、隆明坊ちゃまから教えて頂いたのです」
「…………………で、その根も葉もない胡散臭い話を信じたのですか」
「それは勿論、隆明様の仰ることですから」
確信と愉悦に満ちて言い切る姿を前に、叶慧は呆れて物が言えなかった。
(何勝手なことしてんだ、あのボンボン)
叶慧は小さく舌打ちして、女性を睨む。
言う方も言う方だが、証拠もなしに信じる方もどうかしている。
先見の存在が万に一つ外部に漏れたところで、所詮夢物語みたいな話だ、馬鹿正直に信じる人などいないだろうと思っていたのだが。
(その馬鹿が、いたというわけか)
叶慧は初めて、祖母があれほど先見の秘匿に拘る理由が、理解できるような気がした。
「尚之様よりよほど身も心も優れてらっしゃる隆明様が選ばれなかったのは、きっと御澄雪菜様が行われたという儀式の影響に違いありません。御澄の方々の古来よりのご貢献は聞いております、将道様とて無下にするわけにもいかなかったことは、容易に想像できます」
それ以外考えられないと言わんばかりに、女性は首を振った。
(分かってないな)
叶慧は心中で呟く。
跡継ぎ選定の際、確かに先見の力を使って候補者を品定めすることはあるが、御澄家はその助言が活かされようと無視されようと大して気にしない。
要は、現当主への義理立てと、次代の新條家当主に恩義を感じさせることができればそれで良いのだ。
先見の結果が、本人たちに伝えられることはないのだから。
故に新條家の当主が御澄家に気を遣って先見を尊重するなど、あろうはずがない。
「……念のため言っておきますが先見は儀式でもなんでもありませんし、此度のこととて隆明様の将来性という、一片を評しただけにすぎません。それに、そういうお話であれば祖母本人にすべきではありませんか?」
「既に、御澄雪菜様には隆明様ご本人が打診しました。けれど結果は、まるで取り付く島もなかったのです」
身内である叶慧を目の前にしているからか、流石に落ち着いた口調で語るが、女性の声は悔しさと憎らしさで満ちていた。
(まあ、お祖母様ならそうするだろうな)
にべもなく要求をはねつける祖母の姿が容易に想像できて、叶慧は乾いた笑いを漏らす。
「で、私に頼みに来たというわけですか。しかし仮に先見を行ったとて、結果が同じだったらどうするおつもりで?」
叶慧は皮肉な笑みを浮かべるが、女性は顔を輝かせて叶慧を見返す。
「ああ、それはご心配なく。正確に申し上げれば、貴女様には、先見を行ったふりをして頂ければよいのです。先見の結果は、私共が用意した通りの文言を言っていただくだけで、貴女様ご自身で何かを仰る必要はありませんから」
「は……?」
相手の言う事が俄かには理解し難く、叶慧は開いた口がふさがらなかった。
つまり、先見を行うも行わないのも本当はどうでもよくて、要は先見の力を持つ者が新條隆明に有利な発言をした、という事実が欲しいのだけなのか。
(……馬鹿々々しい。そんな状況、用意したとて周囲が信じるものか)
あまりにもお粗末で馬鹿らしくて、もはや笑う気力さえ湧いてこない。
「……あれだけ隆明様のことを持ち上げておきながら、あの方の未来を信じることができないのですか。正々堂々と先見に臨む覚悟がないのですか?」
声を押し殺して、叶慧は吐き捨てる。
「まさか! 隆明様には勿論、洋々たる未来が待っていると信じております。……けれど貴女はまだ、正式に先見の仕事をされたことがないのでしょう? そんな状態でいきなりこんな重役を負っては、緊張して満足に力が発揮できないに違いありません。だから今回だけは、私共が補助させて頂こう、という心遣いですわ」
悪気も躊躇いも後ろめたさも一切ない、晴れやかな顔で女性は言ってのけた。
まるで自分たちの行っていることが正義であり善行であることを、欠片も疑ってない様子だった。
愚行の動機を相手に押し付け、自分たちはさも綺麗で何の穢れもない存在として押し通そうとしている姿に、叶慧は眩暈がした。
極上の笑顔で聞こえの良い言葉を放っているはずの相手が、ひたすら気持ち悪くてしょうがない。
(……吐き気がする)
もう、限界だった。
「……部外者が、知ったような口をきくな」
地の底から響くような、怒りと敵意の入り混じった声で、叶慧は言葉を紡ぐ。
「え?」
突如として相手から漂ってきたただならぬ怒気に、女性は初めて言葉を失う。
思わず、後ずさりする。
目の前にいるのはただの女子高生であるはずだったのに、どういうわけか身じろぎできぬほど体が硬直していた。
成人にも満たぬ少女に自分が気圧されている、受け入れがたい事実に混乱しながら、怜悧な輝きを放つ瞳が美しいと、場違いにもそう思った。
「お引き取り願う」
きっぱりと言い切った少女を前に、女性は何とか口を開くのが精一杯だった。
「え? いや、あの……」
意味を為さない声に構うことなく、叶慧は続ける。
「あまり、先見役の務めと覚悟を舐めないでいただきたい。私は何があろうと、偽りの未来を口にすることも、ましてや偽りの先見を行うこともない。……それがたとえ、己の命と天秤にかけられようとも」
たぎる怒りを秘め、氷河のような鋭い瞳で、叶慧は目前の相手を貫く。
先見の力は、御澄家以外の誰も持たない。
その世界を見ることが出来る者は誰もおらず、一度偽りを言おうものなら、その信頼は二度と戻らない。
これまで御澄家に向けられた信用も敬意も、一瞬にして疑惑と敵意に変わる。
だからこそ、先見の者たちは何が有ろうと、虚偽の未来を告げてはならない。
そして、その約束を何代も何代も守り続けてきたからこそ、今日の御澄家が、叶慧が存在する。
――自分は、先人たちの誠意の上に生きている。
そう思うからこそ、たとえ何を犠牲にしようとも、叶慧たちは先見を偽ることはできない。
心構えや自戒などという、生優しいものではない。これは、魂に刻みこまれた誓いなのだ。
どうしようもない家だとは思うけれど、そんな家にも守り通してきた矜持というものがある。
そのために全てを犠牲にするつもりもないが、少なくともこんな下らない企みのために曲げるつもりは、毛頭ない。
「これ以上貴女と話すことは何一つない。私は貴女方に与しないし、取るに足らない小物に力を貸す気もない」
冷徹な声に、女性はようやく我を取り戻して反論する。
「な……っ、貴女はまだ分かっていないようですね。いいですか、新條家の跡継ぎに真に相応しいのは紛れもなく隆明様で、あの方には、信じてお仕えするだけの価値が……」
「違う」
女性に最後まで言わせることなく、叶慧は断言した。怯む相手に、尚も言葉をたたみかける。
「貴女たちは、自分の見立てが間違っていたと認めたくないだけだ。これまでの時間が報われなかったと、思いたくないだけだ。本当に隆明様を評価し、隆明様のためを思うのなら、こんな杜撰な計画に乗ることなどしないはずだろう。……貴女たちがやろうとしていることは、ただの見苦しい悪あがきだ」
淡々と、けれど鋭い響きをもって言い放った言葉に、女性は茫然と口を開ける。
あれほど饒舌だった彼女が、まるで言語を失くしてしまったかのように立ち尽くしていた。
「……失礼する」
それだけを残して叶慧が去っていった後も、女性は放心状態のままで、身動き一つしなかった。
――やがて、急に目が覚めたかのように身震いをすると、ゆるゆると携帯電話を取り出し番号をかけ、耳にあてる。
「絶対に許さない……隆明様にあんなひどいことを、小娘ごときが……」
表情が抜け落ちた顔で、抑揚なく口早に、けれど恍惚とした様子で呟き続けるその姿は、狂気そのものだった。




