24.幸せ
新條隆明が御澄家に押し掛けてから、瞬く間に一週間が過ぎた。
一度新條将道と尚之からそれぞれ謝罪の言葉が届いたきり、隆明の名が叶慧の耳に入ってくることはなく、いつも通りの日々の中で、青年の存在は叶慧の中で確実に薄れていった。
桂太との距離感も変わらぬまま、いつも通りの日々が続いていく。
朝起きて、必要最小限の人と言葉を交わし、一人で学校での時間を過ごし、夜遅くまで稽古事に勤しみ、床に就く。
(まるで、彼が来る前の日常に、戻ったみたいだな)
時間というのはこれほど早く流れるものだったかと、叶慧はぼーっと目の前の光景を眺める。
「一点!」
張りのある声がした方を向くと、審判役の女子が、得点表をめくるところだった。
「いくよー!」
その声を合図に、試合が再開する。コートに入っていない生徒たちから、たちまち応援の声が上がっていく。
(バレーの授業は、こうやって休める時間が多いのがいい所だな)
壁にもたれて座っていた叶慧は、少し腰を持ち上げて体勢を変えた。
濃紺の体操服が体のラインに合わせて皺をつくる。
「……」
壁にかかっている時計をちらりと見る。叶慧の出番は先ほど終わったばかりだから、今日はもうコートに入らないまま終わるかもしれない。
そんなことを考えてると、頭上から声が降り注いだ。
「隣、座ってもいい?」
「……」
「やだなあ、そんな露骨に顔をしかめないでよ」
苦笑して、それでも叶慧のそばに腰を下ろしてきたのは、原田理香だった。
数週間前、木の上で泣き言を言っていた姿を思い出し、叶慧はじっと理香を見た。
「どうしたの?」
「いや、別に」
短く言って、再び目を逸らす。
(あの時からは考えられないほど、明るくなったな)
以前は何かに遠慮するような気弱な雰囲気をまとっていたのに、今の理香はどこか吹っ切れたような笑顔を浮かべている。やはり本来は明るい性格だったのだと、一目で分かるほどに。
以前は友達がつくれないと悩んでいたが、この様子を見るに、解決したのだろう。
「……友人たちのところに行かなくていいのか?」
「うん、今は皆試合中だし」
そう言って理香は、友人たちの名を大声で呼び、エールを送る。
心から楽しそうな姿に、ああ本当に良かったと、叶慧は思う。
彼女に遠からず友人ができることは知っていたけれど、思っていたよりその時が早く訪れたのは、嬉しい誤算だった。
理香は叶慧に目を向ける。
「それに、御澄さんとも話したかったしね」
「……君は」
叶慧は半眼になる。
初めて話をしてから、理香は時たまこうして、叶慧に声をかけてくるのだ。
最初は何か用事があるのかと思いきや、毎回「ただ話したかっただけ」だとか「目に入ったから、声をかけようと思って」だとか、特に目的はないようなのである。
だったら律義に声などかけなくていいと、何度言っても彼女はこうして自分に近づいてくる。
はみ出し者の自分にそんなことをしていては、せっかくできた友人とうまくいかなくなってしまうではないか。そう思うのに。
叶慧はため息をついた。
「何か、悩み事?」
「…………いや」
(原因は君だ)
目を眇めて、返答はごく短く呟く。
理香は眉を下げると、しばらくして「あ」と呟いた。
「もしかして、いつも一緒にいる男の人のこと?」
「は?」
叶慧は思わず振り向く。
理香が示唆しているのは、十中八九桂太のことだろう。
視線の先には、至極真面目な顔をした理香がいた。
「だって、ここのところ御澄さん、ずっと浮かない顔をしてるでしょ。だからきっと、誰かと喧嘩でもしたんじゃないかと思ってたんだけど」
当たり? と首を傾げる理香に、叶慧はぶんぶんと首を振った。
「まさか」
「えー……そうなの? てっきりそうだと思ったんだけどなあ」
「と言うか、別に落ち込んでなどいない。君の気のせいだろう。私は表情が乏しい方だし」
胡乱げに叶慧が言うと、理香は眉を寄せた。
「そりゃ、分かりやすい方ではないけど。でも雰囲気とかで何となく分かるよ。元気か、そうでないかぐらいは」
叶慧は返答に困って視線をさまよわせる。
落ち込んでなどいない。
まして桂太のことで、落ち込む理由などあろうはずがない。
だってここ数日、彼とはろくに話もしていないのだから。
そうするよう望んだのは、他でもない自分なのだから。
だから、答えは分かり切っているはずなのに。
どうしてか、すぐに言葉を返せない。
「……彼が原因だと、どうして思うんだ」
おそるおそる、聞いてみる。相変わらず目を合わせないまま。
理香が笑ったのは、音で分かった。
「だって、御澄さんって、とてもやさしい人だもの」
「……え?」
脈絡のない、予想もしない答えが返ってきて、叶慧は呆気にとられた。
理香は眦を緩めて、話し出す。
「あの男の人と御澄さんがどんな関係かは知らないけど、あの人が御澄さんのことをすっごく大事に想っていることだけは、二人を見ていれば分かるの」
理香は笑い、「だから」と続ける。
「そんな気持ちを向けられているのに無下にするなんてこと、御澄さんは絶対にしないでしょう? 同じように、相手を大事にしようとするでしょう? 今、御澄さんがそんなに思い詰めた顔をするのも、大切に想っている誰かのためなんじゃないかと思ったの」
どうでもいい人のために、そんなに悩むはずないもの。そう言って、理香は叶慧を見る。
叶慧は言葉につまった。
指をゆっくり折り畳み、強く握りしめる。
やさしい、などとめったに言われたことがないので、どう反応していいか分からない。
理香の言葉は、とてもありがたく感じる。自分にはもったいないと思うほどに。
けれど。
(……買いかぶりすぎだ)
叶慧は密かに苦笑して、目を細めた。脳裏に、桂太の顔を思い浮かべる。
ひどいことを言ってしまった。
あれほど自分を気遣ってくれたのに、それを真っ向から否定するようなことを、頼んでしまった。
そんな自分が理香の言葉を受け取るのは、不相応というものだろう。
「私はそんなに、できた人間じゃないよ」
歪な笑顔で笑って、叶慧は腰を上げる。
先ほどから、ちらちらと自分たちを見ている目がある。
やはり変人の自分といては、不必要に注目を集めてしまう。そろそろ離れなければ。
「御澄さん」
心配そうに、理香が声をかける。叶慧は振り向き、ほほ笑んだ。
「気遣ってくれるのはありがたいが、これ以上一緒にいたら、君まで悪目立ちしてしまう。せっかく楽しい生活を送っているのに、台無しにするのは忍びない。私のことは心配無用だから、今後無闇に近づくのも話しかけるのも、やめた方が身のためだ」
言い残して、理香から離れる。
「……御澄さん!」
ややあって、背後から躊躇うような理香の声が聞こえた。
「私、この間まで勘違いしてたことがあったの。私の幸せとかって、全部、周りの環境が決めるんだって、そう思い込んでたの。自分ではどうにもできないって、諦めてたの」
「……」
「でも、そうじゃないんだって、ちゃんと自分で色んな方法や見方を選んでいけるんだって、御澄さんのおかげで気づけたの。だからね、この先大変なことがあっても、それは私がそうしたいと思った結果なの。だから」
理香は笑う。一点の曇りもない、明るい笑顔だった。
「御澄さんのせいで不幸になるなんてことは、絶対にあり得ないんだよ」
「……!」
叶慧は目を大きく見開く。
何かが、自分の中で弾ける音がした。
正体が分からないままに、その場に立ち尽くす。
「ねえ、御澄さん。御澄さんが本当に望むことって何?」
「私が……?」
問われた内容に戸惑い、考えをめぐらす。
考えても一向に答えは出てこなくて、返答ができない。
そんな様子を見て、理香は困ったように笑った。
「心当たりができたら、教えて欲しいな。私はこれからも御澄さんといっぱい話したいもの。時間はたっぷりあるんだから、少しずつ」
そう言うと、理香は軽く手を振り、友人たちの元へ駆けていった。
叶慧はいつまでも、途方に暮れたように棒立ちになっていた。




