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先見のお嬢は、未来を憂う  作者: 和広奈子
24/44

24.幸せ

 新條隆明が御澄家に押し掛けてから、瞬く間に一週間が過ぎた。


 一度新條将道と尚之からそれぞれ謝罪の言葉が届いたきり、隆明の名が叶慧の耳に入ってくることはなく、いつも通りの日々の中で、青年の存在は叶慧の中で確実に薄れていった。


 桂太との距離感も変わらぬまま、いつも通りの日々が続いていく。


 朝起きて、必要最小限の人と言葉を交わし、一人で学校での時間を過ごし、夜遅くまで稽古事に勤しみ、床に就く。


(まるで、彼が来る前の日常に、戻ったみたいだな)


 時間というのはこれほど早く流れるものだったかと、叶慧はぼーっと目の前の光景を眺める。



「一点!」


 張りのある声がした方を向くと、審判役の女子が、得点表をめくるところだった。


「いくよー!」


 その声を合図に、試合が再開する。コートに入っていない生徒たちから、たちまち応援の声が上がっていく。


(バレーの授業は、こうやって休める時間が多いのがいい所だな)


 壁にもたれて座っていた叶慧は、少し腰を持ち上げて体勢を変えた。

 濃紺の体操服が体のラインに合わせて皺をつくる。


「……」


 壁にかかっている時計をちらりと見る。叶慧の出番は先ほど終わったばかりだから、今日はもうコートに入らないまま終わるかもしれない。


 そんなことを考えてると、頭上から声が降り注いだ。


「隣、座ってもいい?」


「……」


「やだなあ、そんな露骨に顔をしかめないでよ」


 苦笑して、それでも叶慧のそばに腰を下ろしてきたのは、原田理香だった。

 数週間前、木の上で泣き言を言っていた姿を思い出し、叶慧はじっと理香を見た。


「どうしたの?」


「いや、別に」


 短く言って、再び目を逸らす。


(あの時からは考えられないほど、明るくなったな)


 以前は何かに遠慮するような気弱な雰囲気をまとっていたのに、今の理香はどこか吹っ切れたような笑顔を浮かべている。やはり本来は明るい性格だったのだと、一目で分かるほどに。


 以前は友達がつくれないと悩んでいたが、この様子を見るに、解決したのだろう。


「……友人たちのところに行かなくていいのか?」


「うん、今は皆試合中だし」


 そう言って理香は、友人たちの名を大声で呼び、エールを送る。


 心から楽しそうな姿に、ああ本当に良かったと、叶慧は思う。


 彼女に遠からず友人ができることは知っていたけれど、思っていたよりその時が早く訪れたのは、嬉しい誤算だった。


 理香は叶慧に目を向ける。


「それに、御澄さんとも話したかったしね」


「……君は」


 叶慧は半眼になる。


 初めて話をしてから、理香は時たまこうして、叶慧に声をかけてくるのだ。


 最初は何か用事があるのかと思いきや、毎回「ただ話したかっただけ」だとか「目に入ったから、声をかけようと思って」だとか、特に目的はないようなのである。


 だったら律義に声などかけなくていいと、何度言っても彼女はこうして自分に近づいてくる。


 はみ出し者の自分にそんなことをしていては、せっかくできた友人とうまくいかなくなってしまうではないか。そう思うのに。


 叶慧はため息をついた。


「何か、悩み事?」


「…………いや」


(原因は君だ)


 目を眇めて、返答はごく短く呟く。


 理香は眉を下げると、しばらくして「あ」と呟いた。


「もしかして、いつも一緒にいる男の人のこと?」


「は?」


 叶慧は思わず振り向く。

 理香が示唆しているのは、十中八九桂太のことだろう。


 視線の先には、至極真面目な顔をした理香がいた。


「だって、ここのところ御澄さん、ずっと浮かない顔をしてるでしょ。だからきっと、誰かと喧嘩でもしたんじゃないかと思ってたんだけど」


 当たり? と首を傾げる理香に、叶慧はぶんぶんと首を振った。


「まさか」


「えー……そうなの? てっきりそうだと思ったんだけどなあ」


「と言うか、別に落ち込んでなどいない。君の気のせいだろう。私は表情が乏しい方だし」


 胡乱げに叶慧が言うと、理香は眉を寄せた。


「そりゃ、分かりやすい方ではないけど。でも雰囲気とかで何となく分かるよ。元気か、そうでないかぐらいは」


 叶慧は返答に困って視線をさまよわせる。


 落ち込んでなどいない。


 まして桂太のことで、落ち込む理由などあろうはずがない。


 だってここ数日、彼とはろくに話もしていないのだから。

 そうするよう望んだのは、他でもない自分なのだから。


 だから、答えは分かり切っているはずなのに。


 どうしてか、すぐに言葉を返せない。


「……彼が原因だと、どうして思うんだ」


 おそるおそる、聞いてみる。相変わらず目を合わせないまま。

 理香が笑ったのは、音で分かった。


「だって、御澄さんって、とてもやさしい人だもの」


「……え?」


 脈絡のない、予想もしない答えが返ってきて、叶慧は呆気にとられた。


 理香は眦を緩めて、話し出す。


「あの男の人と御澄さんがどんな関係かは知らないけど、あの人が御澄さんのことをすっごく大事に想っていることだけは、二人を見ていれば分かるの」


 理香は笑い、「だから」と続ける。


「そんな気持ちを向けられているのに無下にするなんてこと、御澄さんは絶対にしないでしょう? 同じように、相手を大事にしようとするでしょう? 今、御澄さんがそんなに思い詰めた顔をするのも、大切に想っている誰かのためなんじゃないかと思ったの」


 どうでもいい人のために、そんなに悩むはずないもの。そう言って、理香は叶慧を見る。


 叶慧は言葉につまった。


 指をゆっくり折り畳み、強く握りしめる。


 やさしい、などとめったに言われたことがないので、どう反応していいか分からない。



 理香の言葉は、とてもありがたく感じる。自分にはもったいないと思うほどに。


 けれど。


(……買いかぶりすぎだ)


 叶慧は密かに苦笑して、目を細めた。脳裏に、桂太の顔を思い浮かべる。


 ひどいことを言ってしまった。

 あれほど自分を気遣ってくれたのに、それを真っ向から否定するようなことを、頼んでしまった。


 そんな自分が理香の言葉を受け取るのは、不相応というものだろう。


「私はそんなに、できた人間じゃないよ」


 歪な笑顔で笑って、叶慧は腰を上げる。


 先ほどから、ちらちらと自分たちを見ている目がある。

 やはり変人の自分といては、不必要に注目を集めてしまう。そろそろ離れなければ。


「御澄さん」


 心配そうに、理香が声をかける。叶慧は振り向き、ほほ笑んだ。


「気遣ってくれるのはありがたいが、これ以上一緒にいたら、君まで悪目立ちしてしまう。せっかく楽しい生活を送っているのに、台無しにするのは忍びない。私のことは心配無用だから、今後無闇に近づくのも話しかけるのも、やめた方が身のためだ」


 言い残して、理香から離れる。



「……御澄さん!」


 ややあって、背後から躊躇うような理香の声が聞こえた。


「私、この間まで勘違いしてたことがあったの。私の幸せとかって、全部、周りの環境が決めるんだって、そう思い込んでたの。自分ではどうにもできないって、諦めてたの」


「……」


「でも、そうじゃないんだって、ちゃんと自分で色んな方法や見方を選んでいけるんだって、御澄さんのおかげで気づけたの。だからね、この先大変なことがあっても、それは私がそうしたいと思った結果なの。だから」


 理香は笑う。一点の曇りもない、明るい笑顔だった。



「御澄さんのせいで不幸になるなんてことは、絶対にあり得ないんだよ」



「……!」


 叶慧は目を大きく見開く。

 何かが、自分の中で弾ける音がした。


 正体が分からないままに、その場に立ち尽くす。


「ねえ、御澄さん。御澄さんが本当に望むことって何?」


「私が……?」


 問われた内容に戸惑い、考えをめぐらす。


 考えても一向に答えは出てこなくて、返答ができない。


 そんな様子を見て、理香は困ったように笑った。


「心当たりができたら、教えて欲しいな。私はこれからも御澄さんといっぱい話したいもの。時間はたっぷりあるんだから、少しずつ」


 そう言うと、理香は軽く手を振り、友人たちの元へ駆けていった。

 叶慧はいつまでも、途方に暮れたように棒立ちになっていた。




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