20.昔話
――最初に与えられた付き人は、叶慧が五歳の時につけられた。
うろ覚えだがおそらく三十代の体躯逞しい男性で、笑うと真夏の太陽のようだった。
子供が好きだったのか、礼儀はとりながらも、幼かった叶慧の話にもよく付き合ってくれた。
爽やかで嫌味の無い、良い人だった。
その頃は先見の力もまだ十分に使いこなせておらず、当時の付き人の役目は、先見の力の練習台になることも含まれていた。
だから叶慧は、毎日のように彼に告げていた。
雨に濡れている姿が見えた。外出するなら、傘を持って出た方がいい。
家を出てすぐにある大きな道路、横から急に飛び出してくる車が見えた。運転には充分に気をつけて。
貴方がとても喜んでいる姿が見えた。おそらく数日以内のことだから、楽しみにしていて。
ぼやけていてよく分からないけど、ギプスをつけて病院から出て来る姿が見えた。怪我には十分気を付けてほしい。
彼の幸福も不幸も、喜びも嘆きも、高揚も落胆も、叶慧が全て事前に言い当てた。
稀に外れることもあったし、特に何も見えない日は告げないこともあったが、叶慧は必ず毎日先見を行っていた。
だって、彼は決まって、教えてくれてありがとうと、叶慧に言っていたから。
それまで、冷酷な祖母につきっきりで先見の訓練をされていた叶慧にとって、初めて自分の目が感謝される体験だった。
陽光の笑みでお礼を言ってくれるのが、嬉しくて嬉しくてたまらなくて。
毎日欠かさず、彼の未来を見通した。
だから、気付かなかった。彼の笑みが、少しずつ陰っていくのを。
叶慧を見る目つきに、少しずつ怯えが混ざっていくのを。
『――なんかさ、俺もう限界かもしれない。例えば今日良くないことがあるって分かってても、それがいつ起きるか分からないんだぜ。それだけで一日怯えて、億劫な気分になるのに、また明日は同じことが待っているのかと思うと、ぞっとする。……親父に推薦されてここに来たし、叶慧様のことは娘みたいに可愛く思っているけど、さすがにもう限界だ。あんまりにもあの方の先見が当たるもんだから、最近はあの方自身が俺の未来を操っているみたいな感覚になるんだよ』
彼が、同僚の使用人にこっそりそう言っているのを、ある日聞いてしまった。
挙げきれないほど多くの感情のうねりが、音をあげて押し寄せてくる感覚を、叶慧は初めて味わった。
悲鳴が漏れないように、とっさに手で口を押さえたのを、はっきりと覚えている。
あんなひどい姿を彼に見つけられなくて良かったと、今でも思う。
偶然彼の話を立ち聞きしてから、叶慧はぷっつりと、彼の先見をするのをやめた。
それは、彼に対する申し訳なさからではない。
これ以上疎まれてしまうのが恐ろしくて、とても出来なかったのだ。
叶慧の付き人に対する態度は必然的によそよそしくなり、付き人は付き人で、それでも良好な関係を築こうとしてくれたようだったが、どうしてもわだかまりが消えなかった。
やがて、限界がきた。
けれどその直前まで、付き人は叶慧に歩み寄ろうとする努力をし続けていた。
顔を恐怖で強張らせながらも、必死に笑顔を取り繕う様が痛ましく、切なく憤ろしく、やるせなかった。
間違いなく彼は最後まで良い人だったと、叶慧は思う。
最初の付き人は、一年と少しで辞めた。
二人目の付き人は、叶慧が八歳になってつけられた。本当は付き人などもうつけて欲しくなかったのだが、周囲の強引な手引きがあったのと、叶慧自身の先見の力も多少は制御でき始めていたので、しぶしぶ引き受けた。
推定二十代後半の、穏やかだが少しなよなよとした影の薄い青年で、一人目の付き人とは正反対の印象を受けていた。
叶慧は、彼に対しては頑として先見を行わなかった。
勿論彼の職務に先見の練習台も含まれていたので、周囲には必死に誤魔化し、彼にもそう言い含めると、特に異論は言わなかった。
遠くはないが、決して近くはない。
そんな距離感で一か月ほど彼と過ごしていたある日、祖母から、きちんと付き人で先見の鍛錬をするようにと告げられた。
どうやら祖母には最初から見破られていたようで、誰を欺こうとも、やはり祖母の目だけは誤魔化せないと、叶慧は悟った。
嫌々、それでも必死に付き人相手に先見を行い始めた。
見えた未来は彼に言う事はなかったが、何故か彼は残念そうな顔を見せた。
何日か経過すると、はっきりと「見えた未来を教えて欲しい」と言ってきた。
勿論断った。
けれど、すぐに引き下がると思っていた彼は、普段の彼からは予想できないほどの粘りを見せた。
もはやそれは執着に近いものだった。
あんまりにもしつこいので、叶慧は些細な、本当に何てことのない未来を告げた。
――そんな、取るに足らない内容だったのに。
叶慧の先見の力が本物だと知った彼が浮かべた表情は、狂喜だった。
普段あまり表情を変えない彼の変貌に、驚きより恐ろしさを叶慧は感じた。
『話には聞いていましたが、こっ、こんなことが本当に現実にあるなんて……! 貴女様の力は、神にも並びうる崇高なものです! どうかこの先も、私にその力のご威光をお示しください……っ!』
大人しく、粛々と業務はこなすが決して人より前に出ようとしない。
そんな気性の彼が、先見一つでここまで変わる様は、異常以外の何ものでもなかった。
それでもどうせ付き人が与えられるのならば、多少恐ろしくても、先見の力で傷つかない相手がいいのかもしれない。そう思った叶慧は、そのまま彼と過ごしてみることにした。
それが、綻びの始まりだった。
表面上は何も問題ない、けれどどこかが綻び続けている、そんな関係が続いた。
時が刻めば刻むほど、彼は、ますます先見の力に依存するようになった。
もっと詳細で、もっと重大な未来の出来事を知りたがった。
先見の力を独占したいのか、周囲の使用人にも距離を置き始めた。
先見なくしては、反応や仕事の始まりが鈍くなるようになった。
勤務態度だけを見ればいたって真面目な彼を、何がそんなに歪ませるのか、当時の叶慧にはさっぱり分からなかった。
分からないまでも、もう限界だと思った。
叶慧から辞めさせることは出来ない。
彼も元々は御澄家の一介の使用人だ、本家の一員たる自分が不適合者としての烙印を押せば、彼の今後の立ち位置に悪影響が出るかもしれない。
こっそり須藤に頼んで、彼の依願退職扱いの手続きを行ってもらった。
……彼は、髪を振り乱して固辞したけれど。
『もう、決まったことだ』
そう告げれば、彼は、魂の抜け殻のような顔をして、それきり言葉に感情をのせなくなった。
――そしてやがて、また一介の御澄家の使用人に戻っていった。
真面目でもの静かで優秀で、常に心細げな人だった。
二人目の付き人は、半年で辞めた。
二人目の付き人が去ってすぐあと、叶慧は体調を崩した。
命の危機があるようなものではなかったが、高熱と吐き気、それに伴う倦怠感が、何日も身を蝕んだ。
原因は疲労とストレスによるものだと思われた。
それを見て、当時の大人たちが何を思ったのかは知らない。
ただ、それからしばらくは叶慧に新しい付き人の話は来なかった。
単に候補がいなかったせいかもしれないが、叶慧は心の底から安堵していた。
三人目の付き人は、叶慧が十二歳の頃につけられた。
言うまでもなく叶慧は気が進まなかったが、その頃にはほぼ先見の制御はできており、付き人の職務から先見の練習相手という役目は消えていたので、覚悟を決めて受け入れた。
新しい付き人はこれまでの誰よりも若々しくにこやかな青年で、年を聞けば十八歳だと言っていた。
ところどころはねたくせ毛の髪にがっしりとした黒メガネをかけた風貌は、一見頼りなく、初見の印象はそれほど良くはなかった。
しかし数日一緒に過ごせば、知能面においても体力面においても、彼が極めて優秀な人材であることはすぐに分かった。
集中すれば普段の雰囲気から様変わりする、柏谷深月と名乗る青年に、叶慧は少しばかり興味を抱いた。
そんなある日、雪菜から叶慧に、新しい付き人に先見の力を見せておけという指示がきた。
いくら能力的に優秀でも、先見の力に狼狽えたり魅入ったりするようでは使い物にならない、だから今のうちに見極めておけと、そう言っていたと思う。
――祖母の言うことはいつだって、一寸の隙もないほどに理にかなっていた。
叶慧は震える拳を押さえて、さも何でもないことのように先見を行ったのだ。
向けられるものは、驚愕だろうか、それとも恐怖だろうか。
あるいは、その両方かもしれない。そんなことを思いながら顔を上げた先には、予想だにしない光景が待っていた。
『話には聞いていましたが、実際目の当たりにすると、さすがにびっくりしました』
にこりと笑った付き人の反応は実にあっさりとしたもので、淡々と叶慧に、先見の力の発動条件や効果範囲について、いくつかの質問をしてきた。
面食らいながらも、答えられる範囲で叶慧が回答すると、彼は驚くべきことを言ってきた。
『なんだ。案外、使い勝手が悪い力なんですね――』
「飄々と、そう言ってのけたよ」
叶慧は愉快そうに笑いながら、桂太に言った。
「先見の力を目の当たりにしておいて、しかもお嬢相手に面と向かって、ですか?」
桂太が驚きを多分に含んだ声で聞くと、叶慧は頷いた。
「ああ、正真正銘、次代先見役として目される私の真ん前で、だ。中々変わった反応だろう? まあ、確実性が高いという点以外では、ただの占いと変わらないし、言われてみればそうなのかもしれないが」
そもそも、こんな不完全な力をあそこまで重要視している御澄家の方がおかしいのかもしれないなと、叶慧は笑う。
「言われて、お嬢は腹が立ったりしなかったんですか?」
桂太の問いに、叶慧はふと過去を振り返る。
「そうだな。腹が立つというより驚きの方が大きかったし、何よりそれ以上に……」
嬉しかったのだ。自分の目をさもちっぽけなもののように言ってくれた、その言葉が。
敬意でも畏怖でもなく、自分はずっと、ただその言葉を待ち望んでいたのだと、その時になって初めて気が付いた。
嬉しくて堪らなくて、涙が零れ落ちそうだった。
それから、深月との関係は比較的良好に続いた。
けれど安心しそうになる度、それまでの付き人の面影が頭をよぎって、いつか彼もそうなってしまうのかと、自分がそんな風にしてしまうのかと、心はどこか不安に揺れていた。
叶慧はある時、思い切ってこれまでの付き人の話をしてみた。
丁度今、桂太に打ち明けたように。
話し終えた時の彼の反応は、これまた予想の範疇を超えていた。
『俺は基本的に、自分への執着がないので。自分の身に何が起きようが起きると予言されようが、ある一点を除いて大して心を動かしませんので、大丈夫だと思いますよ』
「……と、まあ、そういうことを言われたわけだ」
肩をすくめて、叶慧は話す。
「変わった人ですね……」
桂太が感慨深げに漏らすと、叶慧は大きく首肯する。
「彼には妹が一人いてな、彼女が彼にとっては唯一の肉親だった。彼曰く、自分の執着や関心の全ては、たった一人の妹に注がれていたらしい」
「たった一人の肉親……ってことは、つまり」
叶慧の言わんことを察した桂太は、息をのんだ。
叶慧は是とも否とも言わず、静かに睫を伏せた。
柏谷深月とその妹である柏谷志穂は、幼少時から児童養護施設で過ごしていた。
詳しい背景は聞いていないが、元より母親一人しか家にはいなかったのだと、それだけを語っていた。
そんな彼が何故御澄家で働いているのかと言えば、早い時期から彼の優秀さに目をつけていた御澄の者が、彼の援助と、将来の御澄家での従事を持ちかけたらしい。
自分と妹の生活が保障された提案に二つ返事で了承した彼は、あれよあれよという間にめでたく御澄家内部で勤務することが決まった、というわけだ。
「付き人の職務は、中身はともかく給金は良いからな」
叶慧はぽつりと呟いた。
後ろめたいことを打ち明け、それでも叶慧の付き人でいると請け負ってくれた深月との日々は、かつてないほど穏やかに過ぎていった。
義務感でも金銭目的でも親愛でも、彼が叶慧の傍にいてくれる理由は、さほど重要ではなかった。
先見の力を知っても、当たり前のようにそこにいてくれることが、当時の叶慧にとってどれだけ救いになったか。それはきっと、誰にも分からないだろう。
月日と共に情は深まっていき、いつしか互いに、無くてはならない存在になっていた。
周囲の誰もが、叶慧の付き人は深月で決まりだろうと信じて疑わない状況が一年と少し続いた頃、叶慧は深月の未来に、見えてはいけないものを見えてしまった。
――深月の妹が、フードを目深に被った男に、刃物で刺される光景だった。
「……!」
桂太は絶句した。大きく開かれた双眸は、首を垂らした主人に縫い付けになっている。
「……思い当たる節はあった。深月の妹は当時私と同じ中学生だったが大層な美人だった。男好きされる容姿だったし、実際、異性に強引に迫られる経験も何度かあったらしい。当時も深月から、妹が妙な男にストーカーのような被害受けていると、話を聞いていたんだ」
叶慧は一言一言を、絞り出すように話す。
「柏谷さんには、そのことを……?」
桂太の問いに、叶慧は力なく首を振った。
「言えなかった。とてもじゃないが易々と口にできる内容でもなかったし、人の生死に直結する未来を伝えること自体が怖くて、深月がどうなってしまうかが恐ろしくて、結局最後まで言う事はできなかった」
叶慧は皮肉じみた笑い声をあげる。
「それでも、もっと詳しい先見をすれば、事前に手のうちようはあったのだろうが、当時の私は怖気づいてしまって、それすらもできなかった。……私にできたことは、あれだけ反感を持っていたお祖母様に泣きつくことだけだった」
自分の何を犠牲にしたっていい、だからどうか、深月たちを助けてくれ。
そう懇願した叶慧の声は、結果として雪菜に響くことはなかった。
「何で……」
二の句が継げないといった様子の桂太に、叶慧は努めて冷静に答える。
「先見の力を外部の者に漏らしてはいけない、偽りの未来を告げてはいけない。……人の生死に関わる未来を、口にしてはならない」
これが、御澄家先見役に課された、決して背いてはならない約定だ。
そして雪菜は誰よりも、古くからの定めに忠実だった。
「頬を、思い切りはたかれたよ。寝言を言うんじゃないと、怒鳴られながら。後にも先にも、お祖母様があんなに激昂した姿を見たのはあれっきりだ」
何が起きているのか、しばらくは理解できなかった。
茫然と床に手をつく叶慧は、それ以上の発言をすることも許されず、そのまま本家の最奥にある部屋に連れていかれた。
古臭い櫃や箪笥が所狭しと置かれた薄暗い空間は、物置とも言えるような場所で、部屋の鍵は雪菜が管理し、須藤が監視に立った。
「そんなの、軟禁じゃないですか!」
桂太が思わず叫ぶと、叶慧は「かもな」と答える。
「そうだとしても、周囲の目にどう映ろうと、お祖母様にとってあの措置は仕置きであり教育だったし、それがあの家の正義なんだ」
家の者全員が見て見ぬふりをする中、ただ一人、須藤だけは常に叶慧のことを気遣ってくれた。
出してくれと叫ぶ声に「申し訳ありません」と、苦渋の顔で謝った。
所詮使用人にすぎない彼にどうにかできる範囲を超えていたのだと、叶慧は零した。
暗闇の中で、叶慧は己の愚かさを恨んだ。
何故、真っ先に祖母に相談した。あの人の人となりは重々知っていたはずだ、こうなることは目に見えていただろう。
答えは明白だった。
結局自分は、怖気づいたのだ。
人の生死に関わることが恐ろしくて、誰かに丸投げしたかっただけなのだ。
他でもない、恩人の大切な人の、命がかかっていたのに。
皮肉にも、冷静になって考える時間だけはたっぷりあった。
冷えた頭で、考えて考えて、自分の過ちを何度も苛んだ。
何日たったか分からない。
ようやく狭く湿っぽく、息苦しい部屋を出された時には、全てが終わった後だった。
――深月の妹は暴漢に腹部を刺され、入院している。
手に入った情報は、それだけだった。
事態を聞かされた叶慧はなりふり構わず、真っ先に病院に駆け付けた。
そして、やつれ果て憔悴した深月に会った。
一命は取り留めたものの、柏谷志穂は意識不明の重体で、この先目が覚める保証もない。
それが、医師の下した判断だった。
患者の前で立ち尽くす叶慧に、深月はぽつりと問いかけた。
『一つだけ、聞かせてください。……叶慧様はこうなることを、もう随分と前から、知っていたのですか』
瞬間、息がつまった。
心臓が鷲掴みにされる感覚に陥りながら、叶慧は唇を戦慄かせた。
知らなかったと、言え。
その真意を知る者は本家の一部だけだ、彼にバレることはない。
何もできなかった。何か、できたはずなのに。
だからせめて、これ以上彼の心を抉ることを言うな。
うまく働かない頭でそう考え、唇を開きかけた時、祖母の声が脳裏によみがえった。
――先見の力で見たものを、絶対に偽ってはいけませんよ。
『………っ!』
それは、物心つく前から心に刻み込まれ続けた掟。何度振り払おうとも決して消えない、意識の奥深くに根付いた呪い。
『しっ……………て、た……』
熱におかされた頭を抱える中、叶慧は、気が付けばそう口にしていた。
なぜ。
なんで。
どうして。
自分自身の口から出た言葉なのに、言ってしまった事実を、すぐには受け止められなかった。
ただただ、自分を問いただすことしかできなくて。そうすることで、現実から目を逸らすことしかできなくて。
――吐いた言葉が、全ての水分を奪っていったみたいに、口内はカラカラに乾いていた。
『そう、ですか……』
深月は恐ろしいほど静かな声で、それだけを零した。
唯一見えた口許は笑っている風だったのに、彼から漂う空気はどこまでも哀し気で、それ以上は声をかけられなかった。
それから数日たったある日、須藤から深月の退職願を渡された。
書状につづられた流麗な字は紛れもなく彼のもので、叶慧は封も開けずに許可を出した。
優しく穏やかだがどこか変わっていて。
とても、大好きな人だった。
三人目の付き人は、二年に届く直前で辞めた。




