2.先見
「叶慧様、着きましたよ」
運転手の声に、叶慧は目を開ける。ほんの十数分の時間だったのに、どうやら微睡んでいたらしい。
目をこすっていると、叶慧が座っていたところから一番近いドアが静かに開いた。
「おかえりなさいませ」
袖と裾の長い黒のワンピースに、シンプルなデザインのエプロンドレスを身に着けた、二十代後半の女性がドアの外で待機していた。
通りがかった学生風の少年がその場面を見て、「メイド……?」と呟く。
「ありがとう」
事務的な調子で叶慧が言葉を返すと、女性が軽く頭を下げる。
そのまま荷物を預かろうとしたのを制して、叶慧は自分で通学鞄を持ち、車を降りた。踏みしめる地面がアスファルトから石畳になったところで、叶慧は足を止め、目の前にそびえ立つ重厚な棟門を眺める。
これが江戸の時代より、呉服に、簪や櫛、帯留めや扇子などの和装小物を販売することで財を築いてきた「みすみ屋」現当主一家の自宅であり、叶慧の実家だ。
一般的な家屋が優に五つは入るであろう広大な土地に、御澄家が歩んできた歴史を体現しているかのような古めかしい佇まいの和風屋敷と庭園。敷地を囲むのは、基礎の部分が石垣で、その上に真っ白な漆喰の瓦塀で構成された立派な塀だ。
(外から中を守っているというより、外部のものは一切受け付けないという意志表明みたいだな)
威圧を放つ高さ四メートルほどの塀を無感動に見やり、叶慧は女性を伴って敷地に足を踏み入れる。
計算された造形美の庭を横目に歩いていると、玄関の前に、人影が二つ見えた。
「……叶慧。帰ったのですか」
そのうちの一人、叶慧の祖母である御澄雪菜が、その名の通り雪のように寒々しい声をかけた。
先月七十三歳を迎えたはずなのに、凛と伸びた背筋と鋭い目つきは老いを全く感じさせない。藤色の着物に身を包んだ姿は、前当主補佐としの威厳を色濃く残している。ちなみに周囲の評価によれば、叶慧は若き日の雪菜に容姿がそっくりらしい。
叶慧は居住まいを正し、無駄のない洗練された動作で礼をする。
「ただいま帰りました。お話の邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
「かまいません。今日いらしていたのは尚之さんですから。裏から入らなくてもいいと、私が家人に伝えたのです」
肉親というより上司と部下のような会話に、若い男の声が入り込んだ。
「父と違い、まだまだ若輩の自分に客扱いは無用ですと、僕からお願いしたのですよ。お久しぶりです、叶慧さん」
爽やかな笑顔と穏やかな口調で叶慧に話しかけた青年の名は、新條尚之。
某一流大学の法学部に在籍する彼は、代々に渡って政府高官を輩出してきた新條家の次男であり、現在大臣職を務める父・新條将道の期待を一身に背負う身の上である。
御澄家と新條家は、縁戚関係はないものの、訳あって古くから家同士の付き合いが密だった。
故に、こうしてしばしば、表向きはご機嫌伺いのために互いの家の者が訪ねるのだが、そうした交流の裏には、ごく内内の者しか知らない別の目的もあった。
「先日は大変助かったと、父が言っていましたよ。これからも力を貸してほしい、とも」
「……いえ。まだまだ未熟なこの身が、微少なりとも新條様のお役に立てたのでしたら、何よりでございます。かつての祖母ほどの働きはまだ出来かねますが、少しでも早く跡を継げるよう、これからも精進いたします」
まるで用意していたかのように、平坦な声で滑らかに口上を述べる。
「そんなに、かしこまらないでください。助けられているのはこちらなのですから」
尚之は困ったように笑う。何も知らない者がこの場にいたら、名家とはいえ、商人に過ぎない一族に、政府要人が助けられているとはどういうことだと、眉をひそめただろう。
なおも低姿勢を崩さない叶慧に、尚之は苦笑して、軽く頭を下げた。
「こちらこそ、あなた方に見捨てられないよう精進して参ります。……これからも頼りにしていますよ。御澄一族の、先見の力を」
好青年然とした面持ちの瞳に、一瞬だけ冥い光が宿った。叶慧は何も言わず、ただ黙って頭を下げた。
「先見の明」という言葉がある。
端的に言ってしまえば、何かの事態が生じる前に、それを見抜く判断力や洞察力のことである。
御澄家には、そういった「先見の明」を持つ者が稀に生まれる。
もっとも、周辺的事実から、実現性の高い予測をたてる一般的なものとは異なり、御澄家の場合は、未来の断片が実際に見えるのだ。単なる予測ではない、確実に起こる事象として。
それは妄想でも何でもなく、まぎれもない事実として御澄家内部と新條家の一部に認知されている。いわゆる、未来予知というやつに近い。「先」が「見える」ので「先見」の力と、事情を知る者には呼ばれている。
何故、そんな力を持つ者が御澄家に生まれるのか。確かなところは、御澄家の人間でも分からない。
ただ、御澄家の蔵には、江戸の明和に書かれたものと思われる資料が残っており、その中の一つには、時の当主が先見の力を持っていたとはっきり記されている。故に、少なくともその頃から力の保持者がいたことだけは確かだ。
漠然とした超常的な事実は畏怖と崇拝の対象となるらしく、はっきりとした原因が分からないままに、先見の素質を秘めた者は神の寵愛を受けているのだと、崇められていた時代も過去にはあったようだ。
さすがに現代でそこまで極端な捉え方をする者はいないが、壊れ物を扱うかのように丁重に遇されることは、依然、変わっていない。
御澄本家の中で先見の力を持つ雪菜と叶慧も、そのうちの一人である。
「……」
叶慧は、目の前で座する雪菜を真正面から見つめる。
相変わらず、感情を持たない機械人形のようだと思った。実の祖母を相手にこんなことを思うのは薄情かもしれないが、それが雪菜に対する率直な印象だ。
それにしても、なぜ雪菜の居室に通されているのだろう。叶慧は内心首を傾げた。いつもなら帰宅の挨拶をした後、すぐに自室へと向かわされるのに。
そんなことを思っていると、雪菜が徐に口を開いた。
「――叶慧。あなたの付き人候補が、ようやく決まりました。ついては、週が明けた月曜日から面倒を見ておあげなさい」
「……そうですか」
叶慧はピクリと眉を動かしつつも平静を装って答えたが、心の中では盛大なため息をついていた。
「本来、御澄の次代当主、そしてあなたのような先見役には物心つく頃には付き人を与えて然るべきだったのですが、あなたには色々と事情がありましたからね。少々遅くなってしまいましたが、ようやく候補を選定しました」
「先見役」とは、先見の力を持つ者のことを指す。
「役」とついているからには専門の仕事があるわけで、これは御澄家と新條家の付き合いにも、大いに関係している。
(この時代に付き人なんて、大統領じゃあるまいし)
そうぼやきつつ、かつての付き人たちを、叶慧は脳裏に浮かべた。
これまで、付き人が与えられなかったわけではない。
それこそしきたり通り、六歳の時から合計で三人の付き人が、定期的に割り当てられていた。ただ、そのどれともそりがあわず、最長で二年の関係しか続かなかったのだ。もっとも、叶慧からクビにしたことは一度もない。全て付き人側からの依願退職だ。
付き人、特に先見役の付き人の仕事は高給だが非常に大変なものだ。と言っても、肉体的にという意味だけではない。それよりも問題なのは、束縛される時間の長さだ。
先見役の付き人は、問答無用で住み込みで働かされる。そして一日のほとんどを御澄家での労働か、主の護衛、送迎、補佐にあてられ、自由時間はほとんど与えられない。たまに与えられる休日も、一年で数日しかない。
勤務上状況はこのご時世なのに真っ黒もいいところ。
まるで囚人のような待遇だが、それはひとえに、秘密保持のためだった。
先見の力は、絶対に外に知られてはいけない。それが数百年も前からの、御澄家の鉄の掟だった。
故に、先見役の最も傍にいるであろう存在、付き人には監視と牽制の意味をこめて、万が一にも先見の情報を漏らさせないように行動の自由が制限される。勿論、先見役の護衛という目的も込みで。
そもそも選定の段階から、御澄家に奉仕する使用人の中から素養があり、出自が確かな者を任命するという念の入りようだ。
(付き人というか、奴隷の間違いじゃないか)
元々付き人制度に良い感情を抱いてなかった叶慧は、僅かに眉根を寄せた。
「……まだ高校生の私に、付き人は手に余ると思われますが」
やんわりと抗議した叶慧に、雪菜は鋭い視線を向けた。
「今必要なくとも、もう数年したらあなたにも実践的なお役目がまわってくることくらい、分かっているでしょう。その時になってからでは遅いのですよ。次代当主ほどは、特別な教育も綿密なスケジュール管理も貴女には必要ありませんから、今までの状態には目を瞑ってきました。が、そろそろ聞き入れなさい。いつまでも須藤を貸すわけにもいきませんからね」
「……はい」
取り付く島もない物言いに、叶慧は頷くしかなかった。
「よろしい。付き人は奥の間に待たせてあります。今日の稽古の予定は取りやめておきましたから、必ず寄ってから自分の部屋へ行くように」
叶慧はしおらしく頭を下げ、静かに立ち上がると襖を開けた。雪菜の目は、既に机の書類に向かっていた。




