17.光
―――暗闇に、光が見える。
眩いというより、ただ一点のみ白く鋭く光るそれは、ゆっくりと自分に迫って来る。
ここがどこか、自分は何をしているのか、全く分からない。深く考えることもなく、ただ、無感動に白点を見つめる。
(……カッター)
目と鼻の先まで近づいて、ようやく光の正体が分かる。
手の中に収まる刃は、不自然なほどにはっきりと目に映り、嫌らしく存在感を主張している。
「……そうだ。早く、つぶさなきゃ」
熱におかされたように呟き、叶慧は、自分の瞳に刃物の切っ先をつきつける。
ただ、どうしたことか、あと数ミリの距離というところで、手は何かに固定されたかのように動かなくなった。
勢いをつけようが、持ち手を変えようが結果は同じだった。
「なんで、なんで、なんで……?」
壊れたからくり人形のように、同じ言葉を連呼する。
しばらく試していたが、やはり瞳を傷つけることはできなくて、叶慧はだらりと手を下げた。
数秒か、数分か。
それまで身じろぎ一つしなかった叶慧は、唐突に大声を発する。
「……私は、悪くない‼」
誰にともなく声を枯らして叫び続けた叶慧は、背後に人の気配を感じ取る。
(須藤)
幼い頃から身近にいて、叶慧自身、最も信頼寄せてきた人物が、悲しそうに目を伏せて立っていた。
物言わぬ姿は、叶慧の言葉をそのまま、肯定するかのようだった。
その姿を見て、ああやはり自分の言う通りなのだと、叶慧は胸を撫でおろす。
――けれど、叶慧が安堵したのを見計らったかのようなタイミングで、今度は前方に、人の輪郭が浮かび上がる。
叶慧はゆっくりと顔を上げる。
自分の意志に反して、強制的に目線が上がっていく。
厚くて重そうなフレームに支えられた黒メガネ。
必死に整えたのだろうが、それでもところどころはねている黒髪。
緊張感のあるとは言い難い風体ながらも、どこまでも優し気で理知的な眼差しをした、十代後半と思わしき若い男が立っていた。
けれど、叶慧と目が合ったとたん、穏和な青年の目は剣呑に細められていく。
「―――本当は、自分が一番、分かっているのでしょう?」
侮蔑、憎しみ、敵意、怨念……拒絶から来る感情を全て込めたかのような、温度が全く感じられない声で、そう吐き捨てる。
お前のせいだ。
言外に、はっきりとそう告げていた。
「………!」
待って、違う、違うの。
叶慧は必死に叫ぶ。
けれど、口を開けても、何故か空気が喉を通らない。
まるで何者かに声を奪われたように、言葉が空気を震わせることはない。
そのうち、喋るどころか、呼吸さえもままならなくなって、視界は徐々に暗転していく。
青年の姿も、どんどんぼやけて曖昧になって――。
やがて、何も見えなくなった。
「――!」
自らの叫び声と共に、叶慧は目を覚ました。
心臓が早鐘を打ち、滝のような冷や汗をかいている。
瞼を震わせながら周囲を見回した叶慧は、先ほどの記憶は夢の中の出来事だったのだと、ようやく悟った。
(……久しぶりに見た)
定期的に見る内容の夢に、叶慧は顔をひきつらせて笑う。
とは言え、夢を見たのは本当に久方のことだった。
何かきっかけでもあったかと記憶を探れば、心当たりはすぐに見つかった。
(この間、彼にあんなことを言ってしまったからか)
上半身を起こし、10日前のことを思い出す。
元はと言えば桂太の何気ない言葉に、かつての付き人である柏谷深月を思い起こしてしまったのが引き金だった。
動揺して思わず、桂太にとっては当を得ない、曖昧かつ意味深な言葉を放ってしまったのだ。
それだけで、あの妙に鋭い付き人は何かを察したようだった。
(きっと私の言葉が昔の付き人たちのことを示唆しているのだと、気付いただろうな)
叶慧はため息をつく。
「気付いただろう」としか言えないのは、桂太があれから一切、この件に関して詮索してこないからだ。
桂太からは決して聞いてこないばかりか、まるで何事もなかったかのように叶慧の前で振る舞っている。
素があれだけ明朗快活な彼がこれほど慎重になっているのは、それが叶慧にとって最も触れてほしくない話題だということを、感じ取っているからかもしれない。
「……お気楽そうに見えて、よく周囲の状況に目を配っているし推察力もある。付き人としては、当然の資質と言えるが」
けれど、洞察力や観察力に優れているのは、叶慧も同じだ。
未来の一端を覗き、そこから得られる事実を繋ぎ合わせ、それが何の場面なのか、出来得る限り詳細で正確な情報を見出すことを生業としているのだ。
当然、微表情や微動作を読み取る能力は否応なしに身につく。
だからこそ、桂太の動きがどこか不自然なのも、叶慧に対していつも以上に気を配らせているのも、言うまでもなく分かっていた。
「口は災いの門」
思わずそんな文句が頭をよぎる。
本当に余計なことを言ってしまったと、あの時忠告だけに止めておけば良かったのだと、叶慧は心底後悔した。
彼には、彼の生活を一番にしてほしかったのに。
自分のことで、心を煩わせることなどあってほしくないと、そう願っていたのに。
「自分から種をまいてしまっては世話がない」
ぼんやりとそう呟き、時計を見る。
朝の5時だった。土曜日である今日は、枕元に制服は置かれていない。
その代わり、叶慧にしては珍しい、外出用の洋服が置いてあった。
いつもなら7時から稽古事の嵐で、休日とは言え余暇などほとんどないのだが、この日の予定は普段とは大分かけ離れていた。
叶慧は服の横に置かれた、チケットの前売り券を見て息を吐く。
ファンシーな猫と兎が極上の笑顔で踊っている姿がプリントされた紙には、「ミナガワアミューズメントパーク」と印字されていた。
アミューズメントパーク、つまりは遊園地のことだ。
何を隠そう、今日のこれからの予定は桂太と遊園地に赴くことなのである。
昨日まで平常心を保てていたのに、夢のせいか、気まずさが感情の先頭に立つ。何だか釘を刺されたみたいだな、と叶慧はひきつった顔で笑う。
「……自分から言い出したことだしな」
叶慧はぼやいた。その顔は苦渋と覚悟に満ちていた。
行先は遊園地だというのに、叶慧のまとう空気は、戦に臨む武士のそれだった。




