16.境界②
密閉した車内で、何とも言えない空気が流れる。
「……お嬢、先見の力をバレないようにするとはいえ、挑発的な態度を取り続けるしか、本当に手はないんですか? このままの状況が続けば、お嬢の身があまりにも危険ですよ」
遠慮がちに発された声を聞き、叶慧は目を瞠った。
しばらくして、眉を寄せると「……須藤か」と小さく呟く。
叶慧は苦く笑った。
「ない。少なくとも、私には思いつかない。今の私が自由に行動できる範囲は、ごく僅かだ。限られた時間の中では、多少の荒業は必要になってくる。ゆっくり時間をかけて、回りくどく動くには、私一人の身では不可能なんだ」
「お一人だけで手が回らないというのなら、その分俺が……」
「その必要はない」
予想していた答えが返ってきたところで、叶慧は最後まで言い切らせることなく、相手の言葉を遮った。
「君にだって決して少なくはない自分の仕事があるだろう。それに君が派手に動いたら、きっとお祖母様の知るところとなる。あの人が、先見の力を個人的に使用するのを好まないのは、知っているだろう?」
「……はい」
渋々ながらも叶慧の言葉を肯定した桂太は、口を閉ざす。
再び車内に静寂が訪れる。
しばらくして、タイヤが道路を走る音に紛れるように、桂太の声が空気を揺らした。
「それでもまだ、諦めるには早いと思います。高校生活も始まったばかりですし、これからいくらでもやりようはあるはずです。……だから、もうちょっとだけ、考えてみませんか」
窓の外を眺めていた叶慧は、そのままの姿勢で息を呑む。
あれだけはっきりと拒んでおいたのに、まだ言い募ってくるとは思わなかった。
だいぶ慣れてきた感じもするが、やはり桂太の執念深さというか、粘り強さは異常だ。
(……なぜ)
なぜこの青年はこんなにも、自分がとうの昔に切り捨ててきたはずのものを、拾いあげようとするのだろう。
理解も、共感も、友人も。
もう求めようとするのは、やめたものばかりだ。
今更下手な未練を持たせるのはやめてくれと、そう思う。
ゆっくりと慎重に息を吐く。
怒っているような泣いているような、形容しがたい表情を叶慧は浮かべた。
「……相変わらず君は、諦めが悪いな」
噛みしめるように言うと、表情は見えないながらも、桂太が笑う気配が叶慧にも伝わってきた。
「はい。お嬢のことに関しては、特に。……大丈夫ですよ。きっと何かうまい考えは思いつきます。二人寄れば何とかの知恵って言うでしょう?」
「それを言うなら、三人寄れば文殊の知恵だろう」
「まあまあ。それでも、一人よりはマシなのは確かです。三人集まって文殊の知恵が出るなら、二人でも悪知恵くらいは出るはずでしょうし」
「……また、妙なことを言う。大体、悪知恵なら出てはいけないだろう」
呆れたように零しながらも、叶慧の口元は本人も気付かないうちに緩んでいた。
息を少し吐いて、窓の外を見る。
いつの間にか、自宅からすぐ近くのところまで来ている。
ゆっくりと、そっと風にのせるように、桂太が言葉を紡ぐ。
「俺はずっと、お嬢のお傍にいます。だから、じっくりしぶとく、一緒に考えていきましょう」
「……!」
穏やかに発された言葉に、叶慧は突如、大きく目を見開いた。
―――俺が、ずっとお傍にいます。貴女の声が届く距離に、必ずお控えしていますから、疲れたり心細くなった時には呼んでください。きっとですよ。
脳内で、温かくて柔らかい声がこだまする。
無意識に、胸のあたりを握りしめる。制服に皺が寄っていくことも、今は気にすることができない。
……忘れかけていた声だ。
そして、絶対に忘れられない声だ。
大好きだった、今でも、泣きたくなるくらい焦がれる音。
思い出し、とっさに押し寄せるのは、懐かしさと切なさ。抱きしめたくなるほど愛しい記憶が、胸をしめつける。
けれど一瞬遅れてついてきた恐ろしさに、喉の奥がつまり、息が満足に出来ない。
両の手で胸のあたりを押さえ、前かがみになる。ぎゅっと目を瞑って、衝動が過ぎ去るのをただひたすらに待つ。
温かなものと、冷たく重いものが心の中でないまぜになり、何が何だか分からない。
「………」
視界がぐらつくのを感じ、叶慧は堪らず座席シートに手をついた。
どれだけそうしていただろう。
時の流れを全く感じさせない空間が、叶慧を包み込む。
意識を呼び戻したのは、焦るような青年の問いかけだった。
「お嬢、どうかしましたか!?」
後部座席のドアを開け、心配そうに自分を見てくる桂太がいた。
うまく回らない頭で、外の景色を見る。
どうやら既に、自宅に着いていたらしい。
大丈夫だと返事をしつつ、叶慧は青年を一瞥する。
(……似てない)
顔も、仕草も、物腰も、立ち居振る舞いも、口調も、何もかも、彼と桂太は似ても似つかない。
それだけは確かだ。
(でも)
一緒にいるだけで温かくなるような、話しているだけで元気が出るような、彼らが纏う、そんな不思議な空気感はそっくりだと、叶慧は心の中で呟く。
思わず瞳を伏せ、唇を噛みしめる。
そこが一番、違って欲しかったのに。
どうしてだが桂太は、かつてのあの人と同じように、精一杯叶慧に身を尽くしてくれようとする。
――だからこそ、恐ろしい。
耳の奥で、警鐘が鳴る。
両の拳をぐっと握りしめ、叶慧は一人で車を降りた。
数歩進んで、立ち止まる。気遣わし気に自分を見つめる青年に、叶慧は押し殺した声で話しかけた。
「……これ以上、踏み込んでくるな」
「え?」
脈絡もなくかけられた言葉に、桂太は目を瞠る。
叶慧は目線を下げたまま、話し続ける。右の手首を、爪が食い込むほど強く、握りしめた。
「私に関わりすぎると、きっと君も、彼らのようになってしまう」
「彼ら……?」
的を射ない言葉に困惑していた桂太は、ややあって目を瞠った。
「お嬢。それは、もしかして……」
桂太の言葉を最後まで聞かず、振り切るように叶慧は歩き始めた。
呼び止める声にも気付かないふりをして、そのまま真っすぐに家へと足を踏み入れる。
これは言い逃げだと、卑怯な行いだと分かっていても、どうしても後ろを振り向くことができなかった。
(……みづき)
心の中に、一人の姿を描き、祈るように名を囁く。
柏谷深月。
桂太から見て前任にあたる、御澄叶慧の付き人の名だった。




