15.境界①
叶慧は隣に立つパンダを見上げる。
「……君はいつから、絶滅危惧種に転職したんだ?」
問えばパンダから、くぐもった呻き声が聞こえた。
「いや、さすがに素顔で出ていったら何かとマズイかと思ってですね……ちょうど物置みたいなところでコレを見つけて……よっと、少し拝借したんですよ」
両手を使い、頭からずぼっと着ぐるみをはずした桂太は、汗ばんだ顔を2、3回横に振った。
額の水滴を拭うと、切れ長の黒い瞳をついと叶慧に向ける。
「駆けつけるのが遅れてしまい申し訳ありません。お嬢、どこも怪我してないですか?」
「ああ。おかげで大事ない。……まさか来てくれるとは、思わなかったが」
「そりゃ、いつも決まった時間にピッタリ来られるお嬢が10分以上も遅れたら、不審に思わない方が無理って話です。それよりお嬢、何であの時、抵抗しようとしなかったんですか?」
「……何のことだ?」
不意に厳しさを帯びた面差しから目を逸らし、叶慧は白を切る。
桂太は狼狽えることなく、冷静な声音のまま、淡々と問い詰めた。
「分かっているでしょう、さっきの佐伯智宏という少年から殴られかけた時のことです。お嬢が護身術の心得があることは知っています。完全に避けることはできなくとも、いなすくらいのことは出来たはずですよ」
「………」
状況証拠を目の前で並べられた叶慧は、居心地悪そうに顔をしかめる。
「お嬢」
「……つい。一発、殴られるくらいで相手の気が済むのならそれもいいかと、とっさに思ってしまったんだ。多少の痛みに耐えるだけで明日からの煩わしさがなくなるのなら、それでもいいか、と」
追及の手を緩めない桂太を前に、観念した叶慧は、ため息と共に言葉を吐き出した。
桂太から漂う空気が、みるみる険しさを増していく。
ちらりと横目で青年の顔を見た叶慧は、ひそかに息を呑んだ。
(……どうして)
どうして、桂太の方が痛みをこらえるような目をしているのだろう。
そう思っても、面と向かって問うこともできず、ただ気まずげに口を噤む。
張り詰めた空気が肌を刺す。
「そういう捨て身な考え方は、賛同しかねます。お嬢に危害が及ぶのは勿論ですが、相手のためにもなりませんよ」
重々しい声音に、叶慧は、桂太に拳を止められて唖然としていた佐伯の様子を思い出す。
その顔に広がっていたのは驚きと、戸惑いの色。
そして、どこか安心したような、幼子のように頼りなげな表情。
あのまま自分に怪我をさせてしまったら、彼はどうなっていただろう。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
きっと、自分に負い目を感じるだろう。
無意識的なこととはいえ、仮にも女である叶慧に手を出してしまったことを、責めるだろう。
それでもこんなことを繰り返していたら、いつか、誰かを傷つけることに後ろめたさすら、感じなくなってしまうかもしれない。
――正しくないことにはその場で、その時に、ちゃんと抵抗しなければいけないのに。
それを省こうとした自分は、怠惰以外のなにものでもなかった。
ようやくそのことに思い至り、叶慧は内省する。
その様子を見て、桂太は少しばかり表情を和らげた。
「――とにかく、どこも傷つかれずにすんで何よりです。殴られそうになったお嬢を見た時は心臓がつぶれるかと思いましたし、怒りのままに、危うく彼の腕をへし折るところでしたよ」
「……」
冗談か本気か分からない言葉に、叶慧は返答に窮する。
笑っているのに目がこの上なく鋭いところを見るに、本気で言っているかもしれない。
何事もなくて、本当に良かった。色んな意味で。
「それにしても」
不意に桂太は声を低め、眉を下げて話し出した。
「……仕方のないこととはいえ、ああいう形で恨まれてしまうのは、傍で見ている身として何とも歯がゆいです。本来であれば、お礼の一つくらいもらったって、罰は当たらないでしょうに」
桂太の何気ない言葉に、叶慧はぴくりと肩を震わせる。
つい苦笑を漏らして、叶慧は顔を上げた。
視線の先には、驚いた表情を浮かべる付き人の顔があった。
「それは、違う」
瞳に鋭い光を宿して叶慧は口を開いた。
「昨日のことは、彼らに依頼されてやったことか? 手を貸してくれと、懇願されたことが発端か?」
そんなことはない。あり得るはずもない。
「……いえ」と答えた桂太に、叶慧は頷く。
「そうだ。あくまで私が、私の意志に基づいて余計なお節介をやいただけにすぎない。内実がどうであれ、彼らからしたら、こちらの勝手な思惑を押し付けられた挙句、一方的に不愉快な思いをさせられたという事実があるのみだ。……こちらが詫びることこそあれ、恩義を着せることなど、もっての外なんだ」
淀みなく迷いなく語る、凛然とした姿は、他の者に口を挟むことを許さない。
叶慧はふと、冴え冴えと輝く瞳を伏せた。
吐き出すように、言葉を放つ。
「……常人より少し違ったものが見えるからといって……いや、見えるからこそ、ただの自己満足を正義か何かに置き換えることだけは、絶対にしてはいけないんだ」
そこまで話して、ぷっつりと語るのをやめてしまった叶慧に、桂太はかけるべき言葉を見失う。
「……だから、恨まれようとも危害を加えられようとも、やむなしと思われたんですか?」
叶慧は答えない。
沈黙は是と見なした桂太は、唇を噛みしめる。
「……お嬢の考えはよく分かりました。けど、それでも俺は、もっと貴女に自分を大切にして頂きたいです。自分が傷つくことに、躊躇いや拒否や嫌悪を、ちゃんと感じてほしいんです」
まっすぐに自分へと向けられる言葉を受け、叶慧は神妙に頷いた。
「そうだな……。今日のことは、私も短慮がすぎたとは思っている。危うく彼らに負い目を感じさせるところだったし、御澄家の先見役が怪我をしたとなれば、家の者も黙ってはいまい。そうなれば、多方面に迷惑をかけることになってしまう」
「ええ、ですから……って、はい?」
頷きかけた桂太は、反転、ぎょっとした表情をする。
それに気づくことなく、叶慧は一人語りを続ける。
「それに、場所が学校というのもまずかったな。今日は通行人がいなかったから良かったものの、もし見られていたら今後の生活に差し支える」
「いや、お嬢、ちょっと……」
「御澄家次代先見役の名を背負っているということを、もっと意識しなければ……。どうやら私は、まだまだ自覚が足りない」
「だから、そう意味で言ったわけでは……」
「私に何かあったら付き人である君の評価にも関わるし、今後はもっと慎重な行いを……」
「じゃなくて‼」
突然、声を大にして叫んだ桂太に驚いて、叶慧はぴたりと静止した。
目を丸くしたままにしている叶慧に、怒涛のような勢いで桂太は話しかけた。
「体裁がどうとか評価がどうとかいうんじゃなくて! 俺が、お嬢が理不尽に傷つく姿を見たくないんです! もっと自分を労わって、幸せになってほしいんです!」
魂の叫びとも言えるような熱弁に、叶慧はただ呆気にとられて聞き入る。
「お分かりですか⁉ 今後、もしお嬢が今日のような目に遭うことになったら、誰よりも先に俺の心が傷つくと思って下さい。俺を付き人にした時点で、ご自分の不幸も幸せも、一人だけのものではなくなったと自覚してください、良いですね!」
「え、わ、分かった」
自分の胸に手を当て鬼気迫る様子で詰め寄る桂太にのまれ、叶慧は狼狽えながらも頷いた。
「…………」
「…………」
互いに一言も発せず、ただ向かい合う。
時と共に、桂太の上気した顔がいつもの冷静さを取り戻していく。
「…………すみません、取り乱しました」
その場を占める沈黙を、桂太の声が破った。
「え、いや、全然……」
叶慧が狼狽えた声で答えると、桂太は頷いて踵を返した。
珍しく感情を暴走させたことが気まずかったのか、少し顔が赤い付き人を、叶慧は見上げながら後ろを歩く。
そのまま何事もなかったかのように桂太は駐車場まで叶慧を誘い、車に乗せた。
自身はパンダの着ぐるみを抱えて足早にその場を去る。
大して間も空けずに戻ってくると、いつものように、静かに車を発進させた。




