13.火種
「はあ………」
叶慧は、自分の席で深いため息をついた。
丁度三限目が終わったところで、教室では多くの声が飛び交っている。
憂いを帯びた、というよりは今にも舌打ちが出そうな苛立出し気な様子で、叶慧は化学の教科書と実験ノートを取り出し、ゆっくりと机の上に置いた。
昨日も大概な厄日だったが、今日に比べるとなんてことはなかったと、叶慧は遠い目をした。
無意識のうちに、シャーペンを握りしめる手に力が入る。形状維持の限界を超えた哀れな機械式筆記具が、めきっと不穏な音をたてた。
「……」
心を落ち着かせようと、ヒビの入ったペンを置き教科書を開いた叶慧は、後方にいる佐伯智宏にちらりと目をやった。
見られた方は視線に気付くことなく、友人と談笑している。
叶慧が朝から非常に不愉快な思いをしているのは、ひとえにこの生徒が原因なのだ。
昨日のお楽しみに水をさされた仕返しなのか、佐伯を含む男子生徒たちは、今日はいつにも増して叶慧につっかかってきた。
とは言え、直接手を下されたわけでもなく、あからさまに嫌味を言ってきたり、通りすがる度に舌打ちや睨みをきかせてくるなど、それ自体は馬鹿々々しくも実害はなかったのだが。
問題は、佐伯たちが普段から仲良くしているクラスの女子グループにあった。
明らかに通常より険悪な叶慧たちの様子を見て面白がったのか、佐伯少年が何かを吹き込んだのかは分からないが、叶慧への嫌がらせに、その女子たちまで便乗してきたのだ。
その女子たちというのが、クラス内で最も幅をきかせ、主導権を握る立場にあるグループだったからタチが悪い。
彼女らを止めるものは誰もおらず、クラスメイトは皆静観している、といった状況だ。
(元々良い印象は抱かれてなかったし、この機会に鬱憤晴らしをしようとするのは不思議ではない、か。まあ、こちらが関わろうとしなければ問題ないけれど)
と、最初はどこか他人事のように考えていた叶慧も、すぐに無関心ではいられなくなった。
女子たちの嫌がらせが、思った以上に執拗で陰湿だったからだ。
上履きを勝手に捨てるわ、足をひっかけようとするわ、机に落書きをするわ、教師にあることないこと吹きこむわ、誤った伝達を送ってくるわ、意味ありげな目線でこっちを見てはくすくすと忍び笑いをするわで、叶慧は朝から散々な目にあっていた。
(……筆跡鑑定にでも出してやろうか)
机の隅に書かれた「性格ブス」という文言を、消しゴムでこすりながら、叶慧はぼんやりとそんなことを考えた。
そうこうしているうちに、授業開始のチャイムが鳴った。
生徒たちがばらばらと自分の席に戻り始めると同時に、化学の教師が入ってきた。
起立、礼の号令がかかり、生徒たちの声が教室に響く。
最後の生徒が座り終わったのを合図に、教壇に立った教師は口を開いた。
「はい、先週言った通り、まずは前回行った実験の結果を、各班それぞれ黒板に書いてもらいます。実験ノートを各自開いてー……忘れた人は同じ班の人に見せてもらってね、じゃあ班長さん、前に書きに来てください」
その声を皮切りに、数人の生徒が黒板へと進みでる。
記録係だった叶慧は、そのまま自席でしばらく待っているだけ――の、はずだった。
(……ん?)
しかし、いつまでたっても班長である栗橋菜摘は席を立とうとしない。
もう他の班長たちはとっくに書き終えているというのに、叶慧たちの班、三班のところだけ不自然にスペースが空いている。
「はい、お疲れ様……って、あれ? 三班のところだけ書かれてないみたいだけど、班長さんは誰?」
チョークを片手に、教師が訝し気に叶慧たちの方を見る。
すると栗橋は静かに席を立ち、そのまま叶慧の方を見た。
「先生、三班の班長は御澄さんです」
(……はあ?)
女の子らしい可愛らしい声が言い放ったとんでもない内容に、叶慧は無言で、しかし思い切り眉をひそめた。
何言ってんだこいつ、と、心の底から思った瞬間だった。
「え? 御澄さん、そうなの?」
「いえ、ちが……」
とっさに反論しかけた叶慧は、視界の端で栗橋と、佐伯が笑っているのに気付いた。
なるほどそういうわけか、と瞬時に心で納得する。
(まったく、本当にしょうもないことをする)
そう呟くと同時に、叶慧はぎゅっと唇の端を引き結ぶ。
馬鹿々々しさもここまでいくと、つい笑ってしまいそうになったからだ。
「ちょっと三班? 本当に御澄さんが班長なの? もう誰でもいいから、さっさと書きに来なさい」
急に黙り込んだ叶慧に何かを感じ取ったのか、教師が厳しい目で生徒を見る。
腕組みをして睨みを利かせる教師に、叶慧はおもむろに声をかけた。
「すみません先生、私が勘違いしていたみたいです。班長は私なので、今すぐ書きに行きます」
柔らかな笑顔を浮かべて進み出る叶慧に驚き、訝し気な顔をしつつも、「……じゃあ、お願いね」と、教師はチョークを渡す。
「はい」
叶慧はしっかりとした足取りで歩く。
その途中、一瞬だけ栗橋に視線を向けて、
「……」
艶やかに、微笑んだ。
「……っ」
笑いかけられたはずの少女は、とっさに身をすくませ、顔色を青くした。
薄く開かれた唇が小刻みに震えている。
口元に微笑みを浮かべているというのに、叶慧の目は氷河のごとく冷えきり、欠片も笑っていなかった。
やってくれたな、という思いを込めた鋭い眼光で栗橋を射抜くと、さっさと視線を逸らす。
うっかり未来など見てしまっては堪らない。
(敵意を受け止める覚悟もないのなら、最初から喧嘩など売ってくるな)
そんなことを思いながら、黒板にさらさらとノートの内容を書き記していく。
普段であれば、たとえ言いがかりをつけられたとしても、濡れ衣を着せられたとしても、叶慧から譲歩することはあまり無い。
それは、やられたらやり返す、という主義の表れではなく、身に覚えやいわれのないことは、極力無視し続けるというのが叶慧のスタイルだからだ。
(……今回だけだ)
苛立ちは勿論感じるが、自分にも責がないわけではないからと、叶慧は嘆息した。
目的がなかったわけではない。
けれど、目的が手段を正当化するわけでもない。
佐伯少年に挑発的な言葉を放ち、神経を逆撫でしまったのは自分の言葉が原因。
だからこそ、嫌味だろうが多少の嫌がらせだろうが、今回は甘んじて受けようと、最初から決めていた。
正しい、正しくないの話ではない。
ただ、そうせずにはいられなかったというだけのことだ。
――過去にも何度か、報復として嫌がらせをされることはあった。
しかし相手があまりも無反応だと興が削がれるのか、そのほとんどは数日で終わっていた。
だから今回も少しの辛抱だと心でため息をつき、叶慧は着席する。
栗橋少女は、まだ青ざめていた。




