12.夜話
夜も更け、闇が落ちた廊下を、桂太は一人で歩く。
ようやく一日の業務が終わり、今から自分に割り当てられた部屋に戻るところだ。首元の襟を緩ませながら、ふと、桂太は足を止めて母屋の方角を見た。
「……」
思い浮かべるのは、夕方に見た、叶慧の姿だ。
どうしようもなく寂しげで、哀しそうな少女の顔が、瞼の裏にありありと浮かび上がる。
まだ子供とも言える年齢の叶慧が、強く鋭い表情の下で、他人がおいそれと踏み込めないような何かを抱えていることは、これまでにも折々で感じていた。
けれど、悩みの正体が何なのか、自分ではさっぱりと分からないのが、自分では何の力にもなれていないのが歯がゆくて仕方ない。
(……焦るな)
自分にそっと言い聞かせ、桂太は息を吐く。
顔を上げ、再び歩き出そうとしたその時。不意に、背後から声をかけられた。
「――お疲れ様です。どうです、仕事の方は」
突然の声に驚き、とっさに振り向く。
「須藤さん……!」
視界に入ってきた人物に、桂太は目を見開いた。
黒々とした髪を清潔にまとめあげ、英国紳士のように佇む初老の男が、そこにいた。
桂太は居住まいを正し、静かに口を開く。
「お疲れ様です。皆様のお力添えもあって、何とかやれているという状況です」
向かい合う須藤正樹は桂太の返事を聞き、口元の皺を深くしてほほ笑んだ。
「そうですか、それは何よりです。……ところで、今日はお昼を食べそこなったそうですが、お腹の方は大丈夫ですか?」
「ご存知でしたか……。お気遣いありがとうございます。何ら問題ありません」
内心ぎくりとしつつも、桂太は何気ない風を装う。
「そうですか? 一生懸命なのはいいですが、あまり根をつめすぎては体に毒ですよ。……そうそう、それに今日は叶慧様のご帰宅の後すぐに、学校に遺失物を取りに行っていたと報告を受けましたよ。うっかり落し物なんて、何やら君らしくないですねえ」
「……お恥ずかしい限りです」
「いえいえ、失敗は誰にでもあることですから、それは良いんですよ。ただ、日ごろ抜かりなく、真面目に、几帳面に仕事をこなしている君が落し物とは、ましてそれを業務中にも関わらず取りに戻るなど、実に、らしくないと思っただけなのですよ」
にこやかな表情はそのまま、重々しい威圧を放つ須藤を前にして、桂太は僅かに、顔を引きつらせる。
「本当に情けない失態をしてしまい……以後、十分に気を引き締めます」
冷や汗を流し、頭を下げる桂太を眺め、須藤はくすりと笑った。
「そんなに、委縮しなくても大丈夫ですよ。ただ次回以降は、もっとうまい口実を出しなさい。今回は少しばかりわざとらしかったです」
急に雰囲気を緩めた須藤を見て、桂太は目を丸くする。
その様子を見て須藤はくつくつと笑った。
「君がここに来るまでの間、あの方のお世話を任されていたのは、誰だと思っているのですか?」
「あ、いや……」
「とはいえ確かに、雪菜様は先見の方々が個人的に力を使うのを快しとはされませんし、今後もあまりおおやけにしない方が良いでしょうね。……おっと、雪菜様の付き人である私が、主人に隠し事などもっての外ですね。明槻くん、このことはどうぞご内密に」
おどけた様子で肩をすくませ、須藤は口の前に人差し指を立てた。
(全て、お見通しというわけですか)
桂太は乾いた笑いを漏らした。
はかり知れない人だ、と心の中で呟く。
「……ところで明槻くん、今日一日で、叶慧様をどのような方だと思われましたか」
「え……」
突然投げられた漠然とした質問に、桂太は驚きの声を漏らす。
意図をはかりかねて相手の瞳を見ると、にこやかな相貌に反して鋭い眼光を放っていた。
「……」
桂太はごくりと唾をのむ。
背筋を伸ばして改めて向かい合うと、意を決して口を開いた。
「以前より受けていた印象の通り、非常に誠実で、心根の優れた方だと、お見受けしました。口調はやや素っ気なくて、感情を表に出す方ではありませんが、常に相手のことを思いやる、温かいお心を持ったお方です」
嬉しそうに、誇らしそうに桂太は語る。
まるで我が子を自慢する親のように顔を綻ばせた。
しかし話の途中で、不意に桂太は表情を曇らせる。
「……ただ、時折、ご自分のことを蔑ろにするような言動をなさるのが、少し気にかかります。他人のことは当然のように心を砕くのに、それと同じものを自分に向けようとは決してなさらない。そして、そのことをごく当たり前のようにとらえていらっしゃるような……」
ずっと静かに聞いていた須藤は、そこで急に目を瞠った。
眉が動き、口元がぴくりと反応し、須藤の心の揺れを露わにする。
己の考えに没頭していた桂太はその些細な変化に気付くことはなかった。
「投げやり……いや、違うな。あの様子は……」
ぶつぶつと呟いていた桂太は、何事かに思い至ったのか、「そうだ」と声をあげる。
「まるで、全部諦めてしまっているかのような……」
そこまで言って、桂太は須藤の目を見る。
神妙な顔つきをする須藤を、桂太も静かに見つめ返して、音にしない感情を放つ。
「……」
「……」
やがて相手が何かを言うつもりはないと判断した桂太は、静かに頭を下げた。
「……申し訳ありません、主人に対して不遜な発言を致しました」
数秒の後、須藤は苦笑した。
「頭をあげなさい。聞いたのはこちらなのだから、君が謝ることなどありませんよ。今は私しかいませんしね」
そう言って男は、一つ息を吐いた。
そのまま視線を窓の外にやり、遠くを見つめるような眼差しをする。
「……君は、叶慧様がご学友に憎まれ口をたたく理由を、知っていますか」
「……いいえ」
昼間の、佐伯少年を始めとする同級生たちに、挑発的な口調で話をする叶慧を脳裏に浮かべ、桂太は首を振った。
「都合がいいから、だそうですよ」
「え?」
桂太は胡乱な声を漏らす。
言葉の意味を探るように眉を寄せる桂太に、須藤は困ったような微笑を浮かべる。
「叶慧様が、先見の力で見てしまった未来を……特に、誰かの身に危機が及ぶものに関して、見過ごすことができないお方なのは、君もお傍にいてよく分かったでしょう。ですが、その身に迫る危機を、当人に直接伝えられない場合は、どうします?」
言葉を受けて、桂太は考え込む。
例えば今日のことで言えば、如何にして佐伯少年たちに交通事故の危険性を伝えればよかったのか、ということだろうか。
それも、先見の力の存在を知らせずに、だ。
(仮にストレートに、「危ない目に遭うから、今日は出かけない方がいい」と言ったとして……不審に思われるか、気味悪がらせるかが関の山だな。それでは到底、忠告に従おうという気にはならない)
けれど、やんわりとした物言いと遠回しな言葉遣いでは、相手に緊迫感や重要性までは伝わらないだろう。
語気の強さと、妥当性の高い動機。
どちらも、人を動かすには不可欠な要素だ。
けれど肝心な理由を、「先見」という何よりの根拠を伏せたままでは、どちらも実現には程遠い。
難色を示す桂太の顔色を見て察したのか、須藤は静かに頷いた。
「明確で腑に落ちる理由もなしに、人を誘導するのは難しい。これは叶慧様のお言葉ですが、事実、その通りだと言わざるを得ません。……あのお優しく不器用な方には、とにかくご自身の言動を少しでも効果的に作用させる理由づけが、もっともらしく周囲に示すための動機が、必要だったのですよ」
先見の事実を隠したまま、誰かに危機を伝えるのには限界がある。
そう気づいた叶慧が選んだのは、「嫌がらせ」というシンプルかつ乱暴な動機を作ることだった。
――ごく普通の人間が、突然不自然な行動をしたら、周りの人間は「なぜだろう」と理由を探し、「何か事情があるのだろう」と勘繰り出す。
けれど、嫌われ者が少々おかしな行動を取ったとて、まして憎らしい態度を取られた上で、わざわざ目障りな相手のことを理解しようという、余計な労力を払う者は少なくなるだろう。
詮索も受けず、強引に相手を誘導できる。
絶対に明かせない秘密を抱える叶慧にとって、憎まれ役を演じるということは、非常に都合が良かったのだ。
「愛想のない性格は元からで、時折素で挑発的な行動をしてしまうこともあるし、遠巻きにされていたのは最初からだったし丁度いい……そう、おっしゃっていましたよ」
「…………」
桂太は、険しい顔で黙り込む。
叶慧が行っていることは、効率性だけの面を見れば、とても優れているのかもしれない。
誰に押し付けられるでもなく、自分からその方法を選んでいるのだから、他人が口出しできるものでもないのかもしれない。
けれどどうしても、それを正しいと言う気も、応援する気にもなれなかった。
「……叶慧様は、誰かご友人はおられるのですか?」
感情を押し殺して放った言葉に、須藤はゆっくりと首を横に振った。
「私が把握している限りでは、いらっしゃいません」
そうして、須藤は口を閉ざした。
心に浮かぶのは、今、桂太が自分に問いかけた内容と、全く同じ質問をした時の、叶慧の表情だ。
――友人? 必要ない。
そう言って、叶慧は冷たく固い表情で、笑った。
――つくったとて、何になる。目も合わさない、休日に会うことも本音で語り合うこともできない。そんな人間を友人に持つなんて、相手を傷つけるだけだ。
彼の人は、淡々とした口調で、そう言い放った。
悲観的になっているわけでも、己を卑下しているわけでもなく、ただの事実として何の感慨もなく語る姿に、心が痛んだのを、鮮明に覚えている。
叶慧が今の状況に、孤独も不満も感じていないことが、寂しく、そしてどうしようもなく無念だった。
幼い頃から傍にいたのに、年端もいかぬ少女にそう思わせてしまったことが悔しく、己の無力を恨んだ。
「……あの方は、ご自分と関わる者全てが、不幸になってしまうとでも勘違いなさっているのかもしれません」
表情を固くし、声に苦さを滲ませて零した須藤に、桂太は真っすぐな目を向ける。
「俺は、幸せです」
「……明槻君」
須藤は、桂太に視線を注ぐ。
大きく開いた視界の先には、強い光を瞳に宿し、真摯な目を自分に向ける青年の姿があった。
桂太は言葉を続ける。
「俺は、叶慧様の傍にいられて、日々同じものを見て言葉を交わせることが、とても嬉しいんです。あの方のお役に立てること、それだけで、張り合いのある毎日を過ごせるんです。不幸の要素なんて、影も形もありません」
揺るぎのない目で、力強く言い切った。
正面から向けられるその視線に、須藤は釘付けになり、しばらく一言も言葉を発さずに相手を見つめる。
しばしの後、須藤はふわりと頬を緩めた。
「それでこそ、君を雪菜様に推したかいがあるというものです」
須藤の言葉に、桂太はぴたりと動きを止め、深々と頭を下げた。
「その節は、本当にありがとうございました。おかげさまで、叶慧様のお傍にあがることができました」
「礼には及びません。総合的に見て、君が適任だと思っただけのことです。それに今、自分の見立ては間違っていなかったと、確信しましたよ」
私では、もうあの方を真にお支えする資格は、ありませんから。
ごく小さな声でそう呟き、須藤は、一度言葉を切る。
もう一度、ひたと桂太を見据えた。
「……君なら、誰よりもあの方のお力になれると思ったのです。君の経歴も含めて、そう判断しました」
「……」
「経歴」の二文字を言われた桂太は、ほろ苦く笑う。
その目は、切なげに細められていた。
須藤は、後ろで組んでいた手をほどき、前に組みなおした。
「……先見の方々は、我々には見えないものが見えてしまう。それ故に、私たちのあずかり知らないところで、早々に色々なことに見切りをつけられてしまうことが、多々あります。うっかりしていると、たったお一人で、声の届かないところに心を置いてしまわれることも」
声を静めて、熟練の男は言葉を紡ぐ。
「だから、君には何があってもあの方の隣に居続けて欲しいと、身勝手ながら願っています。これ以上心を固く閉ざしてしまわれる前に、あの方が溺れそうになった時、手をのばせるところにどうかいて差し上げて欲しい。君だからこそ見える今を、信じる未来を、大切にしながらね」
「……」
皺の刻まれた顔に影を落とし、須藤は桂太を見つめる。
真摯な目でしばらく桂太を見据えていた須藤は、ふと表情を緩めた。
「……私の話は、これで終わりです。お疲れのところ、長話に付き合わせてしまい申し訳ありませんでした。今後も頑張ってください、期待していますよ」
そう言い残して踵を返す相手の後ろ姿に、桂太は声をかける。
「……この先何があろうとも、俺は絶対に叶慧様のお傍を離れません。全身全霊で、付き人の職務にあたらせて頂く所存です」
須藤はぴたりと足を止め、振り向いた。
穏やかな微笑が、その顔にたたえられていた。
「よろしくお願いします」
桂太は、ただ深く頭を下げた。




