第7話「オムツ、替えました」
第7話「オムツ、替えました」
朝。
異臭がした。
「……」
ミアは育児書から顔を上げた。セリアが台所から顔を出した。ヴァルがルナから少し距離を置いた。
ルナはご機嫌だった。
「ぁ!」
「……ルナ」
「ぁ!!」
(笑ってる。笑ってるけど、においが。)
ミアは育児書を開いた。「オムツ替えの手順」のページ。昨夜読んだ。頭に入っている。入っているはずだ。
「……セリア」
「私はやりません」
即答だった。
「早い」
「先生がやってください」
「一回もやったことない」
「私もないです」
「……」
ルナが「ぁ!」と手を伸ばしてきた。笑顔だ。天使だ。においさえなければ完全に天使だ。
(やるしかない。)
* * *
作業台の上にルナを寝かせた。
育児書を横に開いた。新しいオムツを用意した。お湯で湿らせた布も用意した。準備は万端だ。
「……よし」
古いオムツを開けた。
「…………」
「先生、顔色が」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してます」
「大丈夫」
(大丈夫じゃない。でも大丈夫と言い続けることで大丈夫になる。たぶん。)
ルナは作業台の上で手足をばたばたさせていた。楽しそうだ。この状況を楽しんでいる。
「……ルナ、じっとして」
「ぁ!」
ばたばた。
「じっとして」
「ぁ!!」
ばたばたばた。
(なんでこんなに元気なの。)
ミアは片手でルナの足を持ち上げながら、もう片手で布を使った。育児書の手順通りだ。たぶん。
「……こう、で」
「先生、逆です」
「どっちが逆?」
「前と後ろが」
「……」
やり直した。
「……こう?」
「もう少し上です」
「こう?」
「ずれてます」
「こう!?」
「……まあ、大丈夫そうです」
ルナが「ぁ……」と落ち着いた声を出した。どうやら正解らしい。
ミアはその場にへたり込んだ。
「……疲れた」
「オムツ一枚で」
「うるさい。慣れてないんだから」
ヴァルがそろそろと近づいてきた。ルナの様子を確認して、また離れた。
「ヴァル、さっき距離置いたよね」
「……気のせいだ」
「置いたよね絶対」
「……竜は嗅覚が鋭い」
「正直に言えてえらい」
「えらくない」
ルナが「ぁ!」と言いながらヴァルに手を伸ばした。ヴァルは観念したように近づいて、ルナの手が届く位置に頭を下げた。
(世界滅亡級が観念している。)
* * *
昼。
ミアはまた育児書を読んでいた。
「……『生後五ヶ月ごろから、離乳食を始める目安』」
「まだ先ですね」とセリアが言った。
「でも準備しておかないと」
「何を作るつもりですか」
「おかゆ。一番最初はおかゆらしい」
「先生が作るんですか」
「……セリアに教えてもらいながら」
「料理できない人に離乳食は難しいと思います」
「失礼だな」
「事実です」
ルナはヴァルの背中の上にいた。ヴァルが歩くたびにゆらゆら揺れて、それが楽しいのか「ぁ、ぁ」と声を出している。
「……ヴァル、遅く歩いてあげてるの?」
「……知らない」
「絶対合わせてるじゃん」
「……」
ヴァルが黙った。肯定だった。
(世界滅亡級が赤ちゃんのために歩幅を調整している。)
ミアは微笑ましくなって、また育児書に目を落とした。離乳食のページ。食材の一覧。アレルギーの注意事項。進め方の目安。
(覚えることが多い。でも、やる。)
ルナのために、ちゃんとやる。
「ぁ!」
ルナがミアの方を見て声を上げた。ヴァルの背中の上から、手を伸ばしている。
「なに?」
「ぁ!!」
「呼んでるの?」
「ぁ!!!」
(呼んでる。絶対呼んでる。)
ミアは育児書を置いて立ち上がった。ヴァルのそばに寄って、ルナを抱き上げた。
ルナがミアの服にしがみついた。
「……なんか用だった?」
「ぁ……」
もう満足そうだった。ただ呼んだだけらしい。
(この子、ちゃんと私のこと認識してる。)
当たり前のことかもしれない。でもなんだか、じんわりした。
「……先生、顔がゆるんでます」
「ゆるんでない」
「ゆるんでます」
「…………うるさい」
* * *
夕方。
ルナが眠った後、ミアは庭で一人、空を見ていた。
オレンジ色の空。雲が流れている。
(この子、今日で何日目だろう。)
指を折って数えた。もう二週間近くになる。最初の夜が遠い昔みたいだ。
戦場の廃屋。「ふぇふぇ」という声。布をめくったら銀色の瞳があった。
(あのとき拾ったのは正解だったと思う。)
思うというか、確信だ。
「ミア」
ヴァルが隣に来た。
「なに」
「今夜はよく眠れそうか」
「……なんで」
「昨夜は三回起きていた」
「見てたの」
「見ていた」
「……番犬みたいだね、ほんとに」
「番犬ではない」
「でも見ててくれてるじゃん」
ヴァルが黙った。
「今夜はルナが起きたら私が対応する」
「……いいの?」
「ルナは私が見ても泣き止む。お前は寝ろ」
ミアは少し考えた。
「……ありがとう」
「礼は不要だ」
「不要でも言う」
「……好きにしろ」
また同じやりとりだった。でもミアは、それが少し好きだった。
空が暗くなってきた。星が一つ、また一つと出てくる。
しばらくして、窓の中からルナの「ぁ……」という声が聞こえた。夢の中で何か言っているらしい。
ミアとヴァルは、しばらくそのまま並んで立っていた。
<続きます>
【次回予告】
近くの村から煙が上がった。
またどこかで戦がある。
ルナが窓の外を見ていた。
ミアが窓を閉めようとしたとき、ルナが浮いた。




