第5話「竜王、しゃべりました」
第5話「竜王、しゃべりました」
ヴァルが定住して三日が経った。
庭の隅に座って、ルナを見ている。ルナが寝ると、周りを一周して、また座る。ルナが泣きそうになると、ルナの前に移動して、じっと見る。なぜかそれでルナが泣き止む。
完全にベビーシッターだった。
「ヴァル、ご飯どうしてるの」
「……」
「食べなくて大丈夫?」
「……」
「そう」
返事はないが、困っている様子もない。竜王なので、たぶん何日食べなくても平気なのだろう。ミアはそういうことにした。
問題は別にあった。
「先生、ヴァルが昨夜また少し大きくなりました」
セリアが朝から渋い顔で言った。
「どのくらい?」
「犬くらい」
「昨日は猫くらいだったのに」
「壁に穴が開いてます」
「……また?」
「また」
ミアはため息をついた。ヴァルを見る。ヴァルはルナの隣で澄ました顔をしていた。
「ヴァル、夜は小さくしてて」
「……」
「聞いてる?」
「……」
(聞いてない。というか通じてない。)
ミアは頭を抱えた。
(竜王と意思疎通できたら苦労しない。)
* * *
その日の昼。
ルナがヴァルの背中によじ登ろうとしていた。
ヴァルは動かなかった。ルナが滑り落ちそうになると、尻尾でさりげなく支えた。ルナが「ぁ!」と喜ぶと、また尻尾を引いた。
(保護者じゃん完全に)
ミアが微笑ましく眺めていたとき、ルナがヴァルの顔をぺたりと両手で挟んだ。
「ぁ」
ヴァルがルナを見た。
ルナがヴァルを見た。
二人の視線が、正面からぶつかった。
そのとき、ルナの手がほんのりと光った。
銀色の、やわらかい光。
「……っ」
ミアが立ち上がりかけた。また暴発か、と思った。
でも違った。
光は弾けなかった。ルナの手からヴァルへ、ゆっくりと、川が流れるみたいに流れ込んで、消えた。
静寂。
ルナが「ぁ」と笑った。
ヴァルが、口を開いた。
* * *
「……小さい」
低い声だった。
地の底から響いてくるみたいな、重くて静かな声だった。それが「小さい」という間の抜けた単語を発したので、ミアはしばらく状況が飲み込めなかった。
「…………え」
「小さい。この体は小さい」
ヴァルが自分の前足を見ていた。猫サイズの前足。
「……しゃべった」
「ぁ!」とルナが言った。
「しゃべれるなら最初からしゃべってよ!」
「必要がなかった」
「あったよ!壁の穴の話とか!ご飯どうするかとか!」
「壁はそちらが直せばいい。食事は不要だ」
「いや問題の話をしてるんじゃなくて——」
「ミア」
名前を呼ばれた。
ヴァルの赤い目がまっすぐミアを見ていた。
「……なに」
「この子は、何者だ」
* * *
ミアは少し黙った。
「……わからない。戦場で拾った」
「どこの戦場だ」
「帝国と連邦の境界線近く。廃屋の中にいた」
「一人で?」
「一人で。布にくるまれて、ふぇふぇ言ってた」
ヴァルはルナを見た。ルナはヴァルの尻尾をつかんで遊んでいた。
「この子の魔力は、私が今まで感じたどの人間のものとも違う」
「……どう違うの」
「人間のものではない」
静かな言葉だった。
「……どういう意味」
「そのままの意味だ。人間の魔力に近いが、根が違う。もっと古い。もっと大きい」
ミアはルナを見た。ルナは尻尾で遊ぶのに飽きて、今度はヴァルの耳をつまんでいた。
「……でも、見た目は普通の赤ちゃんだよ」
「見た目の話をしていない」
「じゃあ、何者なの」
「わからない」
ヴァルが視線をルナに戻した。
「だが、私がこの子に従うのは、そういうことだ」
「従う……」
「命令されたわけでも、力で負けたわけでもない。ただ——この子のそばにいなければならないと思った。生まれて初めて」
「…………」
ルナが「ぁ」とヴァルの耳を引っ張った。ヴァルは微動だにしなかった。
「痛くないの」
「痛い」
「じゃあ言ってあげて」
「言わなくていい」
(甘やかしすぎでは?)
(でもそれはお互い様か。)
セリアが台所から顔を出した。
「……ヴァルがしゃべってますね」
「うん」
「いつから」
「さっきから。ルナの魔力が流れ込んだら急に」
「……そうですか」
セリアは少し考えてから言った。
「ヴァル、壁に穴を開けないでください。修理が大変です」
「……善処する」
「善処じゃなくて開けないでください」
「……」
ヴァルが黙った。肯定とも否定ともとれない沈黙だった。
「先生、この竜王、話が通じてるのかよくわかりません」
「私もわかってない」
「ぁ」とルナが言った。
(ルナだけが全部わかってそうなのが一番謎だよ。)
* * *
夜。
ルナが眠った後、ミアはヴァルと二人で庭に出た。
星が多い夜だった。
「ヴァル、一個だけ聞いていい」
「なんだ」
「ルナのこと、守ってくれる?」
ヴァルは空を見ていた。赤い目に星が映っていた。
「……聞くまでもない」
「でも一応」
「私がこの子のそばにいる。それだけで十分だろう」
「十分だけど、口で言ってほしかった」
「……」
ヴァルが、ミアを一瞥した。
「守る」
短い言葉だった。
でもミアには、それで十分だった。
「ありがとう」
「礼は不要だ」
「不要でも言う」
「……好きにしろ」
窓から、ルナの寝息が聞こえた。穏やかな、小さな音。
ミアとヴァルは、しばらく並んで星を見ていた。
<続きます>
【次回予告】
ミルクが切れた。
買いに行こうとしたら、ルナがついてきた。
ヴァルもついてきた。
街が少しざわついた。




