第30話「ただいま」
第30話「ただいま」
夜。
森の家。
戦争が終わった日の夜だった。
セリアはもう眠っていた。ヴァルは庭の隅で丸くなっていた。ミアはテーブルで一人、お茶を飲んでいた。
静かだった。
遠くで虫の声がした。風が木を揺らした。それだけだった。
爆発音はしなかった。怒号もなかった。魔法が炸裂する音もなかった。
(こんなに静かな夜、久しぶりだ。)
いや、三ヶ月前からずっとそうだったかもしれない。でも今日は特別に静かな気がした。
戦争が終わった夜だから。
* * *
ルナは毛布の上に寝かせていた。
眠っているはずだった。
でも、音がした。
もぞ、という音。
「……?」
ミアが振り返った。
ルナが起きていた。
毛布の上で、もぞもぞしていた。眠そうな目で、でもはっきり起きていた。
「ルナ?」
「ぁ……」
「眠れない?」
「ぁ……」
ルナが、ミアを見た。
まっすぐに。
銀色の瞳で。
* * *
ルナが、動いた。
毛布の上で、体をひっくり返した。うつ伏せになった。
それから。
小さな手を、前に出した。
次に、膝を引いた。
「……」
ミアが息を止めた。
ルナが、手を出した。また膝を引いた。
前に、進んだ。
「…………」
ハイハイだった。
ぎこちなかった。ゆっくりだった。でも確かに、前に進んでいた。
一歩。また一歩。
ルナがミアの方に向かって、ハイハイで近づいてきた。
(動いてる。)
(前に進んでる。)
(初めて。)
ミアは動けなかった。
ただ、座ったまま、ルナを見ていた。
* * *
ヴァルが庭から気配を感じたのか、窓から顔を覗かせた。
ルナを見た。
「…………」
何も言わなかった。
ただ見ていた。
ルナはゆっくりゆっくり、ミアの方へ近づいてきた。
転びそうになった。
踏ん張った。
また進んだ。
三ヶ月前、戦場の廃屋で「ふぇふぇ」と泣いていた子が、今、自分の力で前に進んでいる。
(大きくなった。)
そう思ったとき、目がうるんできた。
(大きくなったな、ルナ。)
* * *
ルナがミアの膝の前まで来た。
小さな手が、ミアのズボンの裾をつかんだ。
見上げた。
銀色の瞳で、まっすぐに。
「ルナ」
「ぁ……」
「できたね」
「ぁ……」
「頑張ったね」
「ぁ……!」
ミアが抱き上げた。
ルナがミアの胸にしがみついた。小さな手で、服をぎゅっと握った。
あったかかった。
「……えらかったよ」
「ぁ……」
ルナが、ミアの肩に頭をもたれかけた。
また眠くなったのかもしれない。
でもすぐには眠らなかった。
* * *
窓の外に、月があった。
満月だった。
白く、大きく、森の上に浮かんでいた。
ルナが、ミアの肩の上から、窓の外を見た。
月を見た。
じっと見た。
「ぁ……」
ミアが月を見た。
綺麗な月だった。
ルナがまた月を見た。
少しの間、静かだった。
それから。
「まま」
ルナが言った。
「…………」
ミアが止まった。
「……ルナ?」
「まま」
もう一度言った。
月を見ながら。
ミアを見ながら。
「…………」
ミアは何も言えなかった。
言葉が出なかった。
ただ、ルナをもう少しだけ、強く抱きしめた。
「……ルナ」
「まま」
「……はいはい」
声が少し震えた。
ルナが「ぁ!」と笑った。
* * *
ヴァルが窓の外から、静かに言った。
「……ミア」
「……なに」
「泣いているか」
「……泣いてない」
「そうか」
「…………泣いてない」
「……そうか」
間があった。
「……よかったな」
「……うん」
ルナが「ぁ……」と言いながら、またミアの肩に頭をもたれかけた。
今度は、すぐに眠りそうだった。
ミアはルナの背中をぽんぽんした。
ゆっくり、丁寧に。
ルナの寝息が、聞こえてきた。
満月が、森の家の窓を白く照らしていた。
静かな夜だった。
戦争が終わった夜だった。
ルナが初めて前に進んだ夜だった。
ルナが初めて「まま」と言った夜だった。
* * *
ミアはルナを毛布に寝かせた。
ウサギのぬいぐるみを横に置いた。ルナがすぐつかんだ。眠りながら。
「……おやすみ、ルナ」
「ぁ……」
寝言だった。
ミアはしばらくルナを見ていた。
それから、窓の外の月を見た。
(まま、か。)
月が、変わらず白く光っていた。
(私が、まま。)
なれてるのかどうか、まだわからない。
でも。
(ルナがそう言ったから。)
(そういうことにしよう。)
ミアはお茶を飲み直した。もう少し冷めていた。
でも、おいしかった。
* * *
翌朝。
セリアが台所で朝食を作っていた。
ヴァルが庭で日向ぼっこしていた。
ルナはウサギを抱えて、毛布の上で起きていた。
「ぁ!」
ミアが顔を出したら、声を上げた。
「おはよう」
「ぁ!!!!」
ルナがまた、もぞもぞした。
うつ伏せになった。
手を出した。膝を引いた。
ハイハイで、ミアの方に向かってきた。
(昨日の夜、夢じゃなかった。)
「……来た来た」
「ぁ!!!!!!」
ルナがミアの足元まで来て、裾をつかんだ。見上げた。誇らしそうだった。
「えらい」
「ぁ!!!!!!!!」
「本当にえらい」
セリアが台所から顔を出した。
「……先生、ルナちゃんが」
「ハイハイした。昨日の夜から」
「……!」
「まままって言った」
「……!!!!!」
「セリア、顔が」
「ゆるんでません!!目に何か入っただけです!!」
「ヴァルもゆるんでたよ、昨日の夜」
「……言わなくていい」と窓の外からヴァルが言った。
「ぁ!!!!!!!!!!」
ルナが一番大きな声を出した。
全員分の返事のつもりらしかった。
―― 第一部・完 ――
次回、第二部「戦火の赤ちゃんと世界のおでかけ」へ続く。




