第28話「ただ、会いに来ました」
第28話「ただ、会いに来ました」
調印式の前日。
朝から天気がよかった。
森に光が差し込んで、庭の草が光っていた。鳥の声がした。ルナがヴァルの背中の上で、その声を聞いてきょろきょろしていた。
「ぁ?」
「鳥だよ」
「ぁ……!」
「見えた?」
「ぁ!!」
(どこに見えたのかはわからないけど、見えたらしい。)
セリアが洗濯物を干していた。ミアはお茶を飲んでいた。
静かな朝だった。
今日は振動もない。どこかで戦闘がある気配もない。
(こういう朝が、普通になってきた。)
三ヶ月前は戦場の爆発音が遠くから聞こえていた。今は鳥の声しかしない。
(変わったな。)
* * *
昼前。
玄関がノックされた。
開けたら、ライナーが立っていた。
今日は何も持っていなかった。両手が空だった。
「……手ぶらだね」
「はい」
「珍しい」
「……今日は、ただ来ました」
「ただ?」
「明日の調印式の前に、一度顔を見たくて」
ミアは少し黙った。
「……入って」
「失礼します」
ルナがライナーを見て「ぁ!!」と手を振った。ライナーが膝をついた。いつもの流れだ。ルナが指をつかんだ。
「ぁ!!!!」
「……やあ」
ライナーの顔が緩んだ。いつもと同じだ。ルナの前では毎回そうなる。
「今日は何も持ってこなかったんですね」とセリアが言いながらお茶を出した。
「手ぶらで来い、とミア殿に言われていたので」
「ずっと守ってたんだ」
「……一応、礼儀は守る方なので」
「絵本を三軒で買い集めてた人が言う?」
「…………」
ライナーが少し黙った。
「……それとこれとは別です」
* * *
お茶を飲んでいると、また玄関がノックされた。
ガルドだった。
今日も手ぶらだった。
「よう!!来た!!」
「来たね。今日は手ぶら?」
「手ぶらで来い、って言っただろう!!」
「ちゃんと守ってたんだ」
「当然だ!!約束は守る!!」
ガルドが中に入った。ライナーを見た。
「ライナー、お前も来てたのか」
「先に来ていました」
「俺の方が気が早いと思ってたが」
「私の方が早かったです」
「……くっ」
ルナが「ぁ!!」とガルドに向かって飛んだ。ガルドが両手で受け止めた。
「よし!!元気か!!」
「ぁ!!!!」
「よし!!!!」
(毎回同じやりとり。でも毎回、二人とも本気だ。)
* * *
四人でテーブルについた。
今日は特に議題がなかった。会談でも報告でもない。ただ、お茶を飲んでいた。
ルナはライナーの膝とガルドの膝を行き来していた。ライナーの膝に行って、ガルドの膝に行って、またライナーの膝に行って。
「ぁ!ぁ!!」
「……落ち着きがない」
「この子らしい」
「ぁ!!!!」
テーブルの上に、ウサギのぬいぐるみが置いてあった。羊のぬいぐるみも横にいた。最近はよく二つ並べている。
「……ウサギと羊、仲いいのか」
「そうみたい」
「俺のウサギと、ライナーの羊が」
「正確にはガルドは沐浴用のたらいを持ってきた」
「最初はたらいだったな!!でも次にぬいぐるみを!!」
「わかってるよ」
ライナーがウサギのぬいぐるみを見た。
「……仲良く並んでいますね」
「そうですね」とセリアが言った。「帝国王からのウサギと、連邦王からのぬいぐるみが並んでいます」
「……連邦王からのが羊でしたね」
「そうです。ライナー様が選んだ星の絵本と、ガルド様が選んだ熊のぬいぐるみも棚に並んでいます」
「……なんか、みんなのものがここにある」
「ぁ!」とルナが言った。
* * *
「ライナー」
「なんですか」
「明日、緊張する?」
「……しません」
「本当に?」
「……少し」
「正直に言えてえらい」
「……調印式は、多くの人が見ています。何かあってはならない。そういう意味での緊張です」
「何かあるとしたら、ルナが飛ぶこと?」
「……それが最大の懸念です」
「腕輪があるから、飛んでも追いかけられる」
「そうですが……調印式の最中に、という状況は」
「ぁ!」とルナが言った。
「……聞いてる?」
「ぁ!!」
「飛ばないでね」
「ぁ!!!!」
(元気に返事してるのが一番怖い。)
ガルドが言った。
「俺が抱えておく!!飛びそうになったら!!」
「ガルドが抱えても飛ぶよ、あの子」
「むっ」
「止めたいなら、ウサギを目の前に置く方が効く」
「……なるほど!!学んだ!!」
「ヴァルが編み出した方法だよ」
「ヴァル、天才だな!!」
「……当然だ」とヴァルが隅から言った。
* * *
午後。
ルナがうとうとし始めた。
ライナーが自然に絵本を取った。星の絵本。定位置に置いてあるやつ。
「『むかし、空の一番高いところに——』」
「ぁ……」
ガルドが積み木を静かに片付け始めた。
セリアがお茶を入れ直した。
ヴァルがルナの近くに移動した。
ミアはそれを見ていた。
(みんな、ルナが眠るときの動き方を知ってる。)
(いつの間にか、そうなってた。)
「ぁ……ぁ……」
ルナの声が小さくなった。
しばらくして、寝息が聞こえた。
ライナーが絵本をそっと閉じた。
静かになった。
「……」
「……」
「……先生」とセリアが小声で言った。
「なに」
「なんか、いい空気ですね」
「そうだね」
「明日で、少し変わりますか」
「……どう変わるの」
「戦争が終わったら、騎士団長のお二人も忙しくなりそうで」
「……そうかもね」
ライナーが小声で言った。
「……来なくなることは、ないですよ」
「そう?」
「ルナ様が呼ぶので」
「ぁ……」
ルナが寝言を言った。
「……呼んでます」とガルドが小声で言った。
「寝言だよ」
「でも呼んでます!!」
「しっ」
「……すまん」
* * *
夕方。
二人が帰る時間になった。
玄関に並んで立った。もう慣れた光景だった。
「明日、よろしくお願いします」とライナーが言った。
「こっちのセリフだよ。お膳立てしてくれたのはライナーたちだから」
「……そんなことは」
「そんなことあるよ。ありがとう」
ライナーが少し黙った。
「……こちらこそ」
「なんで?」
「……色々と、変えてもらいました」
「私じゃなくてルナが」
「ミア殿がルナ様を連れてきたから、です」
ガルドが続けた。
「俺も同じだ。ミアが戦場で拾わなかったら、俺はルナに会えなかった」
「……会えなくてもよかったんじゃない?騎士団長が赤ちゃんに懐くことないし」
「よくない!!」
「……よくないんだ」
「よくない!!絶対よくない!!」
ルナがまた寝言を言った。
「ぁ……」
三人が同時に振り返った。
また寝言だった。
三人が同時に笑った。声を立てずに。
「……じゃあ、明日」
「明日」
「明日だ!!」
二人が森の道を歩いていった。今日は同じ方向に少し歩いてから、別れた。
ミアは玄関を閉めた。
「……セリア」
「なんですか」
「明日で、戦争が終わるんだね」
「そうですね」
「実感がないな」
「……私もです」
「ぁ……」
ルナがまた寝言を言った。
ミアはルナの頭を見た。ふわふわの銀色の産毛。
(三ヶ月前、戦場で拾った。)
(それだけのことだったのに。)
「……明日、よく晴れるといいね」
「ぁ……!」
(同意してくれた。たぶん。)
森の家に、夕暮れの光が差し込んでいた。
<続きます>
【次回予告】
調印式当日。
晴れた。
ルナは新しい服を着た。
ウサギのぬいぐるみを持ってきた。
調印式が始まった。
帝国王と連邦王が、ペンを持った。
その瞬間、ルナが静かにしていた。
珍しく、ずっと静かにしていた。




