第26話「兵士たちが、守りました」
第26話「兵士たちが、守りました」
停戦協定の草案が現場に通達されて、十日が経った。
小競り合いは、ほとんどなくなった。
ほとんど、だ。完全には止まっていない。長年戦ってきた現場は、書類一枚で止まるほど単純ではない。でも確実に、減っていた。
ライナーからの手紙にそう書いてあった。
「『現場の変化は想定より早いです。特に、ルナ様が複数回来訪した地域の兵士たちの間で、顕著な変化が見られます』」
「ぁ!」とルナが言った。
「……自分のことだと思ってる?」
「ぁ!!」
(思ってるのかもしれない。)
(思ってないかもしれない。)
ヴァルが静かに言った。
「……この子が来た場所から、変わっていくのだろう」
「そうなのかな」
「人間は、目で見たものを忘れない。特に、予想外のものは」
(戦場に赤ちゃんが降りてきて、手を振った。)
(それを見た兵士は、たぶん一生忘れない。)
* * *
昼。
今日は振動がなかった。
静かな一日だった。ルナはヴァルの背中の上でウサギのぬいぐるみと格闘していた。ぎゅっと抱えて、放して、また抱えて。
「ぁ……ぁ……」
「楽しい?」
「ぁ!」
セリアが洗濯物を干しながら言った。
「……今日は飛ばなさそうですね」
「そうだね」
「平和です」
「平和だ」
ミアは育児書を読んでいた。最近は離乳食のページを中心に読んでいる。ルナの食べる量が少しずつ増えてきた。好きなものと嫌いなものも出てきた。
人参は好き。豆腐は微妙。南瓜は大好き。
(この子の好みが分かってきた。)
(二ヶ月前は何もわからなかったのに。)
「ぁ!!」
ルナがウサギを放り投げた。ヴァルの頭の上に乗った。
「ぁ!!!!」
喜んだ。自分で投げたのに喜んでいた。
(何が楽しいのか、まだ全部はわからない。)
(でも、楽しそうなのはわかる。)
(それで十分だ。)
* * *
翌日。
小さな振動が来た。
東ではなく、今日は南だった。
「……南?」
「新しい方向だ」とヴァルが言った。
「今まで南はなかった」
「そうだ」
ルナが窓の方を向いた。今日は東の窓ではなく、南の窓を見た。
「ぁ……」
「ルナ、だめだよ」
「ぁ……」
「南も同じだよ」
「ぁ……」
ヴァルがルナの前に立った。ウサギのぬいぐるみをルナの目の前に置いた。
「ぁ……」
ウサギを見た。窓を見た。ウサギを見た。窓を見た。
三秒考えた。
「ぁ!」
ウサギを取った。
「……止まった?」とミアが言った。
「止まった」とヴァルが言った。
「……ヴァル、やり方覚えたね」
「この子の気を逸らすには、好きなものを目の前に置けばいい」
「学習してる」
「当然だ」
(世界滅亡級の竜王が、赤ちゃんの気を逸らす方法を学習している。)
ルナはウサギをぎゅっと抱えて、もう窓を見なかった。
* * *
でも夕方にまた振動が来た。
今度は大きかった。
「ぁ!!!!」
ルナが浮いた。ウサギを持ったまま浮いた。
「ヴァル!!」
「わかっている!!」
今日はヴァルが先に動いていた。尻尾でルナの胴体をぐるりと巻いた。
ルナが「ぅ!!!!」と抗議した。
光が強くなった。
「ぅ!!!!!!」
「ルナ、落ち着け」
「ぅ!!!!!!!!」
ヴァルの尻尾が引っ張られた。ヴァルが踏ん張った。
五秒。
十秒。
ルナの光が少し収まった。
「ぁ……」
「落ち着いたか」
「ぁ……ぁ……」
(落ち着いた……!?)
(止まった……!?)
ミアは固まっていた。
「……止まった」
「止まった」とヴァルが言った。
「今まで止まったことなかったのに」
「……この子も、少し慣れてきたのかもしれない」
ルナがヴァルの尻尾の中でもぞもぞした。不満そうだった。でも泣かなかった。
「ぁ……」
「えらいよ、ルナ」
「ぁ……」
「頑張ったね」
「ぁ!」
ちょっと誇らしそうだった。
* * *
でも振動は続いた。
南の方向。さっきより大きくなっている。
「……ヴァル、これ大丈夫?」
「規模が大きくなっている。小競り合いではないかもしれない」
「どういうこと」
「停戦協定が届いていない部隊が、本格的に動いた可能性がある」
「……それは」
「行った方がいいかもしれない」
ミアは少し考えた。
(行く?行かない?ルナを連れて行く?)
(でも置いていったら飛ぶかもしれない。連れて行ったら戦場に降りるかもしれない。)
(どっちもリスクがある。)
「ライナーに連絡する方法が——」
玄関がノックされた。
開けたら、ライナーの部下が立っていた。息が上がっていた。
「ミア殿に至急の連絡が……南の平野で大きな戦闘が発生しました。停戦協定の通達が届いていない部隊でした。ライナー様とガルド様が現場に向かっています」
「……わかった」
「ルナ様が飛ばないよう、くれぐれも——」
「ぁ!!!!!!」
ルナが浮いた。
「「あ」」
* * *
止められなかった。
ウサギを持ったまま飛んだ。南へ、まっすぐ。
「セリア!!」
「わかりました!!ルナちゃんを追いかけてください!!」
「ヴァル!!」
「もう大きくなっている!!」
飛んだ。南の空。魔石が強く光っている。
ルナが見えた。今日も速い。でも今日は少し違った。
ウサギを抱えたまま飛んでいた。
(ウサギ、持ってるじゃないか。)
(そんなことを思いながら追いかける自分が少し面白い。)
「追いつける?」
「追いつく」
「絶対?」
「絶対だ」
ヴァルが加速した。ルナが近づいてきた。
もう少し、もう少し——
* * *
南の平野に着いた。
大きかった。前回の大規模戦闘ほどではないが、兵士の数が多い。煙が上がっている。魔法が飛んでいる。
その真ん中に、ルナが降りていた。
でも今日は違った。
ルナの周りに、兵士たちがいた。
帝国側の兵士が三人。連邦側の兵士が二人。ルナを囲むように立っていた。
剣は抜いていなかった。
ルナの方を向いていた。外側に背を向けて、ルナを中心に立っていた。
(守ってる。)
ミアは目を疑った。
(帝国と連邦の兵士が、一緒にルナを守ってる。)
「ぁ!」
ルナが兵士たちに向かって手を振った。
「……また来たな」
「ああ」
「今回は落ちてきた場所が悪かった。魔法が飛ぶぞ」
「だから囲んでる」
「竜王も来るか」
「来るだろう。でももう慣れた」
「俺たちもずいぶん変わったな」
「……そうだな」
* * *
ミアが着地した。兵士たちがミアを見た。
「……魔女か。あの子の」
「そう。守ってくれてたの?」
「降りてきたから。放っておけない」
「帝国と連邦、一緒に?」
「……気づいたら一緒になってた」
連邦の兵士が言った。
「なんか、この子が来ると戦う気がなくなるんだよな」
「俺もだ」と帝国の兵士が言った。
「なんでだろうな」
「わからん。でも、そうなる」
「ぁ!!」
ルナが二人の方を向いて手を伸ばした。
「……これもいつもの流れか」
「そうだ」
「慣れてきたな、俺たちも」
「慣れていいのかはわからんが」
「慣れていい」
ヴァルが着地した。兵士たちがびくりとした。でも逃げなかった。
「……あの竜、本当に竜王か」
「そうだ」
「竜王に慣れていいのか」
「……慣れていい。たぶん」
* * *
遅れてライナーが馬で来た。ガルドが走ってきた。
今日もガルドは全力疾走だった。
「ルナ!!無事か!!」
「ぁ!!」
「よし!!……って、兵士たちが守ってるのか」
「そう」
「帝国と連邦が一緒に!!」
「そう」
ガルドが兵士たちを見渡した。
「……お前ら、いい奴らだな!!」
「……そんなことを騎士団長に言われると、どう反応すればいいか」
「素直に受け取っていい!!」
ライナーが静かに兵士たちを見た。
「……ありがとうございます。両軍の皆さん」
「礼はいい」と帝国の兵士が言った。「ただ、早く停戦を正式にしてくれ。現場が混乱する」
「……そうですね」
「上の人間が決めることだから何も言えないが。でも早い方がいい」
「……必ず」
ライナーが、珍しくはっきりと言った。
「必ず、正式にします」
* * *
帰り道。
ヴァルの背中。夕暮れの空。
「……ヴァル」
「なんだ」
「今日、兵士たちが守ってくれた」
「見ていた」
「帝国と連邦が一緒に」
「そうだ」
「……変わったね」
「変わった」
「ルナが来るたびに、少しずつ」
「そうだ」
ミアはルナを見た。ウサギをまだ持っていた。飛ぶときも手放さなかった。
「ぁ……」
風が気持ちいいのか、目を細めていた。
「……この子、今日は止まりかけたんだよ。ヴァルが尻尾で掴んだとき」
「そうだ」
「成長してるのかな」
「……少しずつ、だろう」
「飛ぶのをやめる日が来るといいな」
「来るだろう。ただ」
「ただ?」
「その前に戦争が終わる方が早いかもしれない」
(ルナが飛ぶより先に、戦争が終わる。)
(そういう順番でも、いい。)
「……そうだね」
森が見えてきた。家の明かりが小さく見えた。
「ただいま」とミアが小さく言った。
「ぁ!!」とルナが言った。
<続きます>
【次回予告】
停戦協定の正式調印まで、あと五日。
ライナーが「最後にもう一度、会談を」と言った。
今度は国王だけではなく、現場の兵士代表も呼ぶらしい。
ルナも来ることになった。
当然のように。




