第2話「浮きました」
第2話「浮きました」
翌朝。
ミアは死んでいた。
正確には生きていたが、限りなく死に近い顔でテーブルに突っ伏していた。目の下に濃い隈。髪はぼさぼさ。昨夜から一睡もしていない。
(夜泣きってこんなに激しいの……?)
ルナは三時間おきに泣いた。泣くたびにミアが抱き上げ、ゆらゆらして、ようやく寝たと思ったら置いた瞬間また泣いた。その繰り返し。
魔女歴八年。大陸最強クラスの破壊魔法使い。それが今、赤ちゃん一人に完全敗北している。
「……先生、顔色が死んでます」
セリアが朝食をテーブルに置きながら言った。
「知ってる」
「少し寝てください」
「寝たら誰がルナを見るの」
「私が見ます」
「……セリアは家の修理があるじゃん」
「昨日の魔法で壊れた壁は、先生が直してください」
ミアは無言でそっぽを向いた。
(壁のことは忘れてた。あと扉も壊した。たぶん窓も。)
ルナは今、毛布の上でご機嫌にころころしていた。夜があれだけ大変だったのに、朝になると嘘みたいに穏やかだ。銀色の瞳でミアをじっと見ている。
「……なんで朝はそんなにかわいいの」
思わず近づいてつついた。ルナが「ぁ」と笑った。
(あーもう。かわいい。全部許す。夜泣きも許す。壁も許す。)
(でも育児書は絶対今日買いに行く。)
* * *
街まで歩いて三十分。
ミアはルナを布で体に巻きつけて、抱っこひも代わりにして歩いた。育児書に書いてありそうな方法をなんとなく真似したつもりだったが、セリアに「先生、それ赤ちゃんが逆さになってます」と指摘され、やり直した。
「……こう?」
「もう少し高く」
「こう?」
「頭がぐらぐらしてます」
「こう!?」
「……まあ、大丈夫そうです」
結局セリアに直してもらって、ようやく出発した。
ルナは布の中でぼんやりと空を見ていた。雲が流れるたびに目で追っている。
(この子、空が好きなのかな)
そういえば戦場でも、爆発より空を見ていた気がする。
(不思議な子だ)
ミアは少しだけ歩幅を広げた。ルナの頭が揺れないように、丁寧に。
* * *
街の本屋は小さかった。
棚を端から端まで見て回って、ミアはようやく一冊見つけた。
『はじめての育児 完全版』
分厚い。辞書みたいに分厚い。
(こんなに覚えることがあるの……?)
パラパラめくると、「授乳のタイミング」「沐浴の方法」「月齢別の発達目安」「夜泣きの対処法」などが細かく書いてある。ミアは三秒で頭が痛くなった。
「……全部知らなかった」
「当然です」とセリアが横で言った。「でも買っておいてよかったですね」
「そうだね」
ミアはもう一冊、『離乳食の基本』も手に取った。今すぐは使わないが、いずれ必要になる。
(この子のために、ちゃんと勉強する。)
珍しく真剣な顔でそう思ったとき、布の中のルナが「ぁ」と声を上げた。
「どうした?」
見ると、ルナは本棚の上の方をじっと見ていた。
(何かある?)
ミアが棚の上を確認しようとしたとき。
ふわ、と。
ルナが浮いた。
* * *
一瞬、何が起きたかわからなかった。
布がゆるんで、ルナの体がすうっと上に引き寄せられるように浮き上がった。重力を無視して、本棚の高さまで、ふわふわと。
「…………」
ミアは固まった。
「…………え」
セリアも固まった。
本屋の店主も固まった。
ルナだけが、棚の上に並んだ本をきょろきょろと眺めて、楽しそうにしていた。
「ぁ」
「ルナ!?」
ミアが飛びついた。両手を伸ばして、宙に浮いたルナをそっと抱きとめる。
「なんで浮いてるの!?なんで!?」
「ぁ」
(返事になってない!でも無事!よかった!)
(でもなんで浮いた!?魔力!?生後数ヶ月で魔力が発現してる!?)
ミアは混乱しながらも、ルナをしっかり胸に抱いた。ルナはもうすっかり落ち着いていて、またミアの指を握った。
「……先生」
セリアが静かな声で言った。
「なに」
「あの本、取りたかったんだと思います」
指さした先。棚の一番上。
色鮮やかな表紙の絵本が一冊、背表紙を向けて並んでいた。
タイトルは『お月さまとウサギのおはなし』。
「…………」
(この子、絵本が欲しくて浮いたの?)
(自分で取りに行こうとしたの?)
ミアはもう一度ルナを見た。銀色の瞳が、まっすぐに絵本を見ている。
「……はあ」
ため息。でも口元がゆるんでいた。
ミアは背伸びして、絵本を取った。ルナの前に差し出す。
「これ?」
「ぁ!」
今日一番大きな声だった。
(かわいい。もう全部かわいい。)
(それはそれとして、魔力の暴発については真剣に考えないといけないけど。)
育児書と離乳食の本と絵本をまとめて抱えて、ミアは本屋を出た。店主はまだ固まっていた。
* * *
帰り道。
ルナは絵本を胸に抱えたまま、布の中でうとうとしていた。
「……先生」
「なに」
「ルナちゃん、普通じゃないですね」
「知ってた」
「いつから?」
「戦場でも全然泣かなかったから、そのときから」
「……それ、普通じゃないどころじゃないですよ」
ミアは空を見上げた。青い。雲が少し。
「でも元気だし、かわいいし、私の指握るし」
「それは赤ちゃん全員そうでは」
「うるさい」
ルナがうとうとしながら「ぁ……」と声を出した。夢の中でも何か言っている。
「……まあ」
ミアは小さく言った。
「何があっても、私が守るから」
返事はなかった。ルナは気持ちよさそうに眠っていた。
森への道を、三人で歩いた。
<続きます>
【次回予告】
育児書を読み始めたミア。しかし読む前に魔力が暴発した。
森の家、半壊。




