第9話 広すぎる
最初の百メートルは、本当に楽だった。
三本のビーコンを三人が担当し、残る一人が周囲を見る。
理人。
汐里。
ルカ。
杏。
順番を変えながら進む。
三角形の内側には十分な余裕があるため、障害物が出ても避けやすい。
床が一部せり上がれば、ビーコン同士の距離を少し変える。
壁が迫れば、その反対へ面積を伸ばす。
SAFE AREAは八十。
数値の単位は分からない。
ただ、他チームの四十と比べれば違いは見ただけで分かる。
「やっぱ広い方が当たりじゃん」
杏が言った。
さっきまで帰ると言っていた人間とは思えないほど足が動いている。
ルカがビーコンを押しながら答える。
「晴斗くん、あとで褒めとこ」
「好きなの?」
「五分しか喋ってない人を?」
「さっきからそればっか」
「五分って大事だよ。第一印象のほとんどはもっと短い」
「マジシャンってそういう心理学もやるの?」
「やる人もいる」
「ルカは?」
「雰囲気」
杏が呆れた顔をする。
その二人の横で、汐里が呼吸を整えながら歩く。
前のゲームから休憩はあった。
それでも疲れは残っている。
理人はビーコンの車輪音を聞いていた。
床との摩擦。
その奥。
壁の駆動音。
さっきから妙に多い。
「止まって」
理人が言った。
ルカが振り返る。
「何?」
「一回止めよう」
「時間ある?」
腕輪。
《06:42》
十分ではない。
でも今見ない方がまずい。
三人がビーコンを固定する。
青い三角が止まる。
理人は前方を見る。
EXIT。
緑の光。
距離は目測で百五十メートルほど。
そこまでの間に壁が何枚も立っている。
最初に見た時は、あんなに多かったか。
「何か変ですか」
汐里が聞く。
「出口、遠くなってないですか」
杏が笑いかけて、途中で止めた。
「動いてるってこと?」
「出口自体は動いてないと思う」
理人は床を見る。
安全地帯の外。
赤く沈んだ床。
そのさらに外側で、巨大な壁がゆっくり横へ滑っている。
青い三角形が近づくと、壁は接触しないように逃げる。
ただし真横へ逃げるだけではない。
別の壁とぶつからないよう、さらに奥の壁も動く。
結果として通路そのものが曲がる。
前に。
横に。
また前に。
「MARGINと同じ?」
汐里が言った。
理人はすぐには頷かなかった。
似ている。
でも同じではない。
MARGINは危険物との距離を確保するために道が伸びた。
今回は安全地帯そのものが広い。
その広い三角形を通すために、施設が空間を作り替えている。
「広いから」
理人が言った。
「俺たちを通すために、壁が全部避けてる」
杏が前を見る。
「それの何が悪いの?」
「避けた壁の行き先が必要になる」
理人は右側を指した。
透明壁の向こうに別チームが見える。
SAFE AREA四十。
彼らの安全地帯は小さい。
壁の間を縫うように進んでいる。
ほぼ一直線。
距離だけなら明らかに短い。
「私たちだけ」
汐里が呟く。
「道を作ってもらってる」
「たぶん」
ルカが出口を見る。
さっきまであった軽い笑いが消えた。
「晴斗くん、善意でやったな」
理人がルカを見る。
「分かるんですか」
「分かるよ」
「映像も見えないのに?」
「だったらもっと悪い」
ルカは肩をすくめた。
「嫌がらせで八十くれたなら、見る目なかったってことになる」
杏が少し笑った。
理人は腕輪を見る。
残り六分十九秒。
「進もう」
三人がビーコンを持つ。
安全地帯が動き始める。
今度は速く。
四人が走る。
青い線が床を滑り、外側の赤い床が沈み込む。
壁が退く。
その奥から別の壁。
さらに退く。
「左!」
理人の声で汐里がビーコンを寄せる。
三角形が歪む。
面積は変わらない。
形だけが細長くなる。
「これなら?」
ルカが聞く。
「幅を狭くして前へ伸ばす」
杏が後方のビーコンを押す。
青い領域が槍のように細くなる。
一瞬、進みやすくなった。
だがすぐに警告音。
《SAFE AREA SHAPE LIMIT》
ビーコンの先端が赤く点滅する。
「形まで制限あるの」
杏の声。
理人は舌打ちしそうになる。
できると思った。
正解を見つけたと思った。
だが施設の方が先に塞いでくる。
「少し戻して」
形を広げる。
警告解除。
その間にも時計は進む。
《05:31》
*
MAKER ROOM。
晴斗はTEAM Bを見ていた。
最初は余裕だった。
ルカがこちらへ手を振った時、少しだけ胸の奥が軽くなった。
選択は間違っていない。
そう思った。
今は違う。
TEAM Bのルートだけ、異様に蛇行している。
晴斗が操作卓へ近づく。
「変更できないの?」
久保田がすぐ答える。
「決定後は固定です」
「半分にするとか」
「できません」
「じゃあ、八十のまま?」
「そうです」
「安全にしたんだぞ」
誰に言ったのか自分でも分からなかった。
芹沢が隣から画面を見る。
「安全だろ」
「でも遠い」
「安全と近いは別だ」
聞いたことがあるような言葉だった。
前のエリア。
広い道。
長い道。
晴斗は唇の内側を噛んだ。
「またこれかよ」
久保田が画面を見たまま言う。
「正確には違います。今回は大きな安全領域を維持するために、設備側が可動障害物を退避させている。その退避先との干渉を避けるため、さらに隣接構造が」
「分かってる!」
晴斗の声が大きくなった。
久保田が初めて黙る。
晴斗はすぐに目を伏せた。
「ごめん」
それからTEAM Bを見る。
ルカたちが走っている。
八十。
自分が入れた数字。
消せない。
《DECISION ACCEPTED》
あの表示が今さら目の裏へ戻ってくる。
決めた瞬間は一秒だった。
その一秒が、あちらでは何分にも伸びている。
*
残り四分。
理人たちは出口からまだ百メートル近く離れていた。
他チームの一つはすでにゴールしている。
《TEAM C CLEAR》
続いて、
《TEAM A CLEAR》
杏が表示を見て息を吐く。
「早すぎない?」
「向こうは四十です」
汐里が答えた。
「半分しか安全じゃないのに」
「半分だから通れる場所もある」
理人は前を見た。
巨大な柱が二本。
間隔は狭い。
SAFE AREA八十ではそのまま通れない。
近づけば柱が動くはずだ。
案の定、低い音。
二本の柱が左右へ開く。
その分、奥の壁が押される。
さらに奥で別の壁が動く。
出口が見えなくなった。
杏が足を止めた。
「消えた」
「出口はある」
理人が言う。
「壁の向こうに回っただけ」
「それ、もっと遠くなったってことじゃないの?」
答えられない。
ルカが息を切らしながら笑った。
「優しさって重いね」
晴斗に聞かせるつもりなのか、それとも自分へ言っているのか分からない。
「まだ終わってない」
理人は前へ進む。
「別の抜け方探す」
「ある?」
杏。
「探す」
即答した。
汐里が理人を見る。
その視線に何か言われた気がした。
まだ助けられる。
まだ直せる。
原因が分かれば。
道が長くなっているなら、短くすればいい。
設備が動く条件を読めばいい。
必ず何かある。
理人は柱の駆動部を見る。
床のレール。
壁の移動方向。
ビーコンとの距離。
頭の中で線を引く。
その間にも時計は減る。
《03:21》
ルカがビーコンへ体重を掛けながら、透明壁の向こうを見た。
四十の安全地帯が、小さな三角形のまま細い隙間を抜けていく。
まっすぐ出口へ。
こちらは広い。
安全だ。
誰もまだ傷ついていない。
それなのに。
ルカは遠くの緑色を見た。
最初より小さくなっていた。
いや、違う。
出口が小さくなったのではない。
自分たちとの間に、余計な距離が増えた。
晴斗が与えた八十という安全が、壁を押し退け、道を曲げ、空間そのものを遠回りへ作り替えている。
ルカは息を整えながら小さく言った。
「広くなった分だけ、出口が遠ざかってる」




