第10話 居場所
残り三分二十一秒。
数字が一つ減るたびに、理人には出口が数センチずつ遠ざかっているように見えた。
実際に動いているわけではない。
遠ざかっているのは道だ。
三本のビーコンで囲まれた青い三角形が進むたび、巨大な安全地帯を避けるために壁が逃げ、その壁を避けるためにさらに奥の構造が動く。床下では複数のモーターが重なって唸り、金属同士が擦れる低い音が足裏から膝へ上ってきた。
安全な場所を大きくした。
その結果、安全な場所が通れる道まで大きくしなければならなくなった。
理屈は分かった。
原因も分かった。
だから次は直せる。
理人は、そう思った。
「止まる?」
ルカが聞いた。
「いや、動いて」
「どっち」
「まだ分からない」
「そこは自信ありげに言ってほしいな」
呼吸を乱しながらも軽口だけは残っている。
杏が後ろのビーコンを押す。
「私、そろそろ腕やばい」
「交代します」
汐里が杏の横へ入った。
「いける?」
「それ、私の台詞です」
「じゃあお願い」
杏が手を離す。
汐里が代わりにビーコンを掴んだ。
重い装置を押しながら、汐里の目は理人ではなく杏の顔色を見ている。
理人は前方へ意識を戻した。
柱。
壁。
床。
EXIT。
その間を青い線が這っている。
三角形の面積は八十から変わらない。
細長くすれば制限に引っ掛かる。
縮められない。
なら、形を変えるのではなく――。
理人は三本のビーコンを見る。
今まで三本とも同じ方向へ動かしていた。
三角形を保ったまま、前へ。
だから施設も、その巨大な形を丸ごと通すために道を作り続ける。
三人で大きな棚を狭い部屋から運び出す時と同じだ。
真正面から持っていけば、扉の幅が必要になる。
けれど棚は真正面に運ぶ必要などない。
「ルカ」
「何」
「大きい物を狭い場所に通す時、どうする?」
ルカが理人を見る。
質問の意図を考えたのは一秒もなかった。
「角から入れる」
すぐ答えた。
理人の中で線がつながる。
「ですよね」
「何が」
「三角形を前へ運ぶのをやめます」
杏が眉を寄せた。
「どういうこと?」
理人は前方の二本の柱を指した。
「一個だけ先に入れる」
三人がそちらを見る。
「ビーコンを?」
汐里。
「一番前の一本を、柱の間に入れる。その一本を軸にして残り二本を回す」
ルカの目が少し細くなる。
すぐに床へ視線を落とした。
指先が空中に三角を描く。
「ドアにテーブル入れるみたいに」
「そう」
「でも面積八十は変わらない」
「変えなくていい。向きを変える」
杏がまだ分からない顔をしている。
ルカが自分の両手で三角形を作った。
「今までこうやって」
両手を前へ平行に動かす。
「全部一緒に進んでた。でもこっちの角だけ先に入れて、残りをぐるっと回す」
片方の指先を固定し、もう片方を弧を描くように回した。
杏の目が動く。
「ああ」
ようやく声が出る。
「横向きにする?」
「近い」
理人は腕輪を見る。
《02:47》
試す時間はある。
失敗して戻す時間は、たぶんない。
「やりましょう」
汐里が言った。
理人は彼女を見る。
「説明、足りてます?」
「大きな物を狭いところへ通すんでしょう」
「かなり雑です」
「時間がある時に詳しく聞きます」
理人は前のビーコンを握った。
「ルカ、俺と前」
「了解」
「有川さんと宮部さん、後ろ二本。ここから動かさないでください」
杏が頷く。
汐里は一度だけEXITまでの距離を見た。
「行って」
理人とルカがビーコンを押す。
青い安全領域が歪む。
前の頂点だけが柱の間へ伸びていく。
《SAFE AREA SHAPE LIMIT》
警告は出ない。
まだ許容範囲。
「もう少し」
理人。
柱が反応した。
左右へ開き始める。
だが今までとは違う。
三角形全体を通す必要がないため、柱の移動距離が小さい。
その奥の壁もほとんど動かない。
「入る」
ルカが言った。
先頭のビーコンが柱の向こうへ抜けた。
理人が振り向く。
「次、右側だけ前へ」
汐里が自分のビーコンを押す。
杏は左を固定。
巨大な三角形が、その場でゆっくり回転した。
青い光が床を撫でる。
理人たち自身も、領域の内側を歩きながら位置を変える。
柱の間を三角形が旋回していく。
一度に通る幅は小さい。
施設は大きく退避しない。
ゴウン。
壁がわずかに動く。
それだけだった。
「通った」
杏の声が上ずる。
最後のビーコンが柱の間を抜ける。
背後で青い三角形が元の形へ戻った。
理人は前を見る。
EXIT。
さっきより、はっきり近い。
「もう一回できる?」
汐里。
「やるしかない」
理人が走る。
ルカも隣へ並ぶ。
「真鍋さん」
「はい」
「こういうの、もっと早く気づいてよ」
「すみません」
「本当に謝るんだ」
「じゃあ謝りません」
「それはそれで腹立つな」
息を切らしながらルカが笑った。
残り一分五十四秒。
*
MAKER ROOMでは、誰も喋っていなかった。
TEAM Bの経路が突然短くなった。
画面上では、八十の巨大な安全領域が細い障害物を一つずつ回転しながら抜けている。
晴斗が操作卓へ両手をついた。
「行ける?」
久保田理玖が数字を見る。
「現在速度を維持すれば、計算上は」
「その言い方嫌いだな」
「聞いたから答えたんですが」
「分かってる」
晴斗の目はルカから離れない。
八十。
自分が与えた。
助けたかった。
結果的に追い詰めた。
それでも向こう側で、四人はまだ走っている。
自分が何かできるわけではない。
晴斗は親指の爪を押した。
自分の癖ではない。
誰かがやっているのを見た気がした。
気づいて手を離す。
「頑張れよ」
誰にも聞こえない声だった。
芹沢洋平だけが横から一度見た。
何も言わない。
その方が助かった。
*
残り四十八秒。
最後の障害は壁ではなかった。
床。
EXITの前、二十メートルほどの床が三分割されている。
中央の一枚だけが細く、左右には大きな機械設備がせり出していた。
八十の安全領域をそのまま置く空間はない。
理人の足が止まりそうになる。
《00:45》
「また回す?」
杏が言う。
理人は首を振った。
回転できる空間も足りない。
左右。
設備。
中央の通路。
幅。
三本のビーコン。
「一個ずつ送る」
ルカが言った。
理人が見る。
「何?」
「人じゃない。ビーコン」
ルカは中央の細い床を見る。
「先頭一本だけ向こうへ押して、その次、二本目。最後まで三角形の中に俺たちが残ればいい」
「途中で面積が崩れる」
「面積は変わらない。頂点の位置が変わるだけ」
理人は床を見る。
できる。
たぶん。
またその言葉だ。
たぶん。
以前なら嫌いだった。
機械を直す時に「たぶん動きます」は使わない。
原因を確認して、直して、試運転してから渡す。
ここには試運転がない。
杏が腕輪を見る。
《00:34》
「考えるなら走りながらにして」
理人は息を吐いた。
「やります」
ルカが笑う。
「そうこなくちゃ」
先頭ビーコン。
理人とルカが押す。
細い通路を通す。
青い三角形が鋭く伸びる。
警告音。
《SHAPE LIMIT》
「もう少しだけ!」
汐里が後ろから言う。
理人が先頭を左へわずかにずらす。
警告が消える。
そのまま向こう側へ。
一個。
次。
汐里が持つビーコンを理人へ渡す。
受け取る瞬間、青い境界線が足元を掠めた。
杏の靴のつま先が赤い床へ出る。
「杏!」
汐里が腕を掴む。
杏の身体が内側へ戻る。
外側の床が一瞬だけ沈んだ。
靴底が金属の端を擦る。
ざり、と乾いた音。
杏の口から息だけが漏れる。
「大丈夫」
汐里が顔を見る。
「足」
「ある」
「痛み」
「ない。行って」
残り十五秒。
二本目。
通過。
最後の一本をルカが押す。
「これで終わり」
「まだ出口」
理人。
「細かいなあ」
四人が走る。
十。
九。
八。
EXITが開く。
六。
杏。
汐里。
ルカ。
理人。
三。
二。
理人の肩がゲートを抜けた。
背後で扉が閉まる。
《TEAM B CLEAR》
表示。
《00:01》
誰もすぐには喋らなかった。
杏が床へ座り込む。
今度は汐里も止めなかった。
ルカが壁へ背を預け、そのままずるずると腰を落とした。
「一秒」
「余裕でしたね」
理人が言う。
三人が一斉に理人を見る。
「それ、今言う?」
杏。
「冗談です」
「分かりにくい」
ルカが笑った。
汐里だけが、少し遅れて息を吐いた。
「真鍋さんも冗談言うんですね」
「言いますよ」
「設備の話以外で初めて聞きました」
理人は言い返そうとしてやめた。
壁の向こうで、
《AREA 03 CLEAR》
が点灯した。
今回は誰も死んでいない。
誰も脱落していない。
それだけで、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
*
SAFE ROOMへ戻ると、晴斗が真っ先にルカのところへ来た。
「ごめん」
ルカはペットボトルの蓋を開けながら見る。
「何が?」
「八十」
「ああ」
「助けるつもりだった」
「知ってる」
「でも」
「落ちなかったからいいよ」
晴斗の顔から力が抜けない。
ルカは一口飲む。
それからボトルを下ろした。
「ただ、次から助ける前に聞いて」
晴斗が少し眉を寄せる。
「聞けるなら」
「そう。聞けないなら、自分が助けたいだけかもしれないから」
晴斗は何も言わなかった。
数秒してから笑う。
「マジシャンってそんな面倒なこと考えるの?」
「雰囲気」
「またそれかよ」
今度は二人とも少しだけ笑った。
晴斗がルカの名前表示を見て、ふと思い出したように言った。
「そういや東雲って、本名?」
「そうだけど」
「俺の実家、東雲地区で店やってたんだよ。名字見た時、ちょっと気になってた」
ルカの手が止まる。
「何の店?」
「時計と家電。もうないけど」
「再開発?」
晴斗が目を上げる。
「何で知ってんの」
ルカはボトルを持ったまま少し黙った。
「俺がいた劇場も、東雲地区にあった」
二人の間から、さっきまでの軽さが薄くなる。
晴斗が何か言おうとして、やめた。
同じ地区。
同じ再開発。
理人は少し離れた場所で、その会話を聞いていた。
ただの偶然かもしれない。
そう思った。
けれど《K-13》という文字を見た時と同じように、その小さな一致だけが妙に頭へ残った。




