第7話 帰れる
重松英嗣の名前が消えてから、誰もすぐには動かなかった。
《STATUS : DECEASED》
表示だけが残っている。
死んだ。
たったそれだけの意味しかない英単語なのに、理人は何度も目でなぞった。
スクリーンの向こうでは、有川汐里がまだ橋の上に膝をついている。
右手には布切れ。
重松の袖だった。
羽鳥雅也が何か話しかけているが、音声はMAKER ROOMまで届かなかった。
理人は操作卓から手を離した。
掌の下に汗の跡が残る。
それを見てから、シャツの脇で拭いた。
何のために拭いたのか自分でも分からなかった。
「ゲームは」
皆川文乃が口を開いた。
声が少し掠れている。
「止まらないんですか」
誰も答えない。
中央表示では、他の五チームがまだ進行中だった。
SAFE TIMEの数字が減り、足場が動き、照明がつく。
誰か一人が落ちた場所とは別の世界みたいに、システムは普通に仕事を続けている。
二階堂隆雅が画面を確認した。
「他チームは止める必要がない」
理人は顔を向けた。
「人が死んだんですよ」
「分かっています」
「分かってて続ける?」
「今ここで止めれば、残っている人間を途中区画に置いたままにすることになる」
二階堂の声は変わらない。
「停止操作が安全だという保証もありません。感情で触るべきではない」
「じゃあ見るだけか」
「今は、それしかできない」
理人の口の内側に硬いものが残った。
噛みしめた奥歯だった。
言い返したい。
けれど何を言えばいいのか分からない。
止めろ。
どうやって。
助けろ。
誰を。
戻せ。
何を。
機械なら、止める場所を探す。
電源。
元弁。
非常停止。
どこかに必ず原因があって、それを切り分ければ状態は変わる。
ここには操作卓がある。
表示もある。
なのに今の理人には触れる場所がなかった。
それがひどく気持ち悪かった。
「真鍋さん」
片平志乃が呼んだ。
理人は振り返る。
「残りの人、見た方がいいです」
責める声ではなかった。
だから理人はスクリーンへ戻った。
他チームの数字を見る。
ひとつずつ。
今度は前より細かく。
借入額。
残りSAFE TIME。
返済地点。
もし異常が出たら、せめて先に気づく。
それしかできない。
十五分後、最後のチームがゴールした。
重松を除く全員が生還した。
《AREA 02 CLEAR》
その文字が出ても、誰も声を上げなかった。
*
SAFE ROOMに戻った時、理人は最初に汐里を探した。
広い部屋だった。
壁は薄い灰色。
先ほどまでの白一色とは違い、照明も少し黄色い。空調から漂う風にはコーヒーに似た匂いが混じっていたが、部屋の隅に置かれた飲料機のものらしい。
暖かいはずなのに、誰も上着を脱いでいない。
汐里は壁際に座っていた。
椅子ではなく床。
両膝を立て、その上に腕を置いている。
右手にもう布はなかった。
理人が近づくと顔を上げた。
「大丈夫ですか」
言った瞬間、違うと思った。
汐里の眉がわずかに動く。
「その質問、便利ですよね」
「すみません」
「それも」
理人は言葉を止めた。
汐里は少しだけ首を振る。
「ごめんなさい。真鍋さんに言っても仕方ない」
「俺たちが利率を決めました」
「はい」
「返済を第三にしたのも」
「はい」
「重松さんが借り続ける条件を作った」
汐里の目が理人へ上がる。
「だから、真鍋さんが殺したんですか」
喉が詰まった。
「そういう意味じゃ」
「私が十八秒借りろって言ったら、重松さんは助かったかもしれない。羽鳥さんが先に渡れば違ったかもしれない。重松さん自身が安全装置を使えば、少なくとも橋からは落ちなかった」
一つずつ並べてから、汐里は視線を床へ戻した。
「でも、それを全部足して誰か一人の責任にできるほど、私はまだ整理できてません」
理人は隣に座らなかった。
立ったまま聞いた。
「助けられたと思いますか」
少し間が空いた。
「橋だけなら」
汐里の指先が膝の布地をつまむ。
「助けられました」
それ以上は言わなかった。
身体の状態。
胸を押さえたこと。
もし橋を渡れても、その先で何が起きたか。
医療機器も薬もない。
汐里なら考えているはずだった。
理人は、自分が欲しかった言葉が何だったのか分からなくなった。
助けられなかった。
そう言われれば楽だったのかもしれない。
仕方なかった。
誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。
「今は謝らないでください」
汐里が言った。
「誰のための謝罪か分からなくなるから」
理人は口を閉じた。
それから少し離れた場所へ歩いた。
*
二十分ほど経った頃、壁のスクリーンが点いた。
何人かが身構える。
九条玄蔵が映る。
「一名が死亡した」
声に変化はなかった。
それだけで荒巻泰造が立ち上がった。
「ずいぶん簡単に言うな」
「事実を長く言い換える必要はない」
「遺体は」
「回収した。家族への連絡も行う」
「警察には」
一ノ瀬結衣だった。
壁際からまっすぐ玄蔵を見る。
「死亡事故です。施設を出たら私は通報します」
「そうすればいい」
数人が顔を上げた。
一ノ瀬も一瞬だけ言葉を止める。
「止めないんですか」
「私はゲームのルールについて嘘をつかないと言った。外へ出た者の行動を制限するとも言っていない」
「なら、今すぐ出ます」
別の場所から声が上がった。
宮部杏だった。
小柄な身体を椅子から起こし、腕を胸の前で抱えている。
「こんなの聞いてない。死ぬかもって言われたけど、本当に死ぬなんて」
「杏ちゃん」
柚原茉莉が少し離れた場所から呼ぶ。
杏は振り向かない。
「帰ります。私」
その言葉をきっかけに、何人もの参加者が口を開いた。
「俺もだ」
「もう十分だろ」
「金なんかいらない」
声が重なる。
理人は黙っていた。
玄蔵も黙っている。
やがてスクリーンの下に新しい表示が現れた。
《WITHDRAWAL AVAILABLE》
《EXIT BANK》
二十二人分の名前と金額。
理人は自分を探した。
《MANABE RIHITO ¥2,840,000》
二百八十四万円。
思っていたより多かった。
数字を見た途端、父の工場跡地近くにある古い倉庫の賃料や、未整理の債務の一部が頭へ浮かぶ。
二百八十四万円で全部は終わらない。
それでも金だ。
生きて持ち帰れる。
汐里。
三百十二万円。
晴斗。
二百四十八万円。
人によって違う。
「辞退した者には表示額を支払う」
玄蔵が言った。
「出口は開く。再参加はできない」
宮部杏が画面を見る。
彼女の額は百九十六万円。
唇が動く。
さっきまで立っていたのに、足が床へ縫われたように止まっている。
柚原茉莉が近づいた。
「帰っていいんだよ」
「分かってる」
「なら」
「分かってるって」
杏が少し強く返した。
すぐに顔を伏せる。
「これじゃ足りない」
声は小さかった。
茉莉は何も言わなかった。
部屋の空気が変わった。
帰れる。
本当に。
それでも帰れない理由が、それぞれの数字の向こうにある。
理人は自分の二百八十四万円を見た。
父が最後まで置いていた旋盤。
廃業後に売られた。
買い戻す必要なんてない。
そんなものを取り戻したところで、会社が戻るわけでもない。
分かっている。
なのに、金額を見た瞬間に中古機械の相場まで思い出した。
「辞退する」
鶴巻信也だった。
部屋が静かになる。
鶴巻は誰とも目を合わせず、中央へ歩いた。
《TSURUMAKI SHINYA ¥3,060,000》
三百六万円。
「確認する」
玄蔵。
「ここで終了すれば、三百六万円を受け取り施設を退出する。いいな」
「ああ」
「理由は聞かない」
「聞かれても答えない」
鶴巻らしい返しだった。
壁の一部が開く。
その向こうには明るい通路。
罠らしいものはない。
鶴巻が歩き出す。
理人は気づいた時には呼び止めていた。
「鶴巻さん」
足が止まる。
振り向かない。
理人は一度迷ってから口にした。
「K-13って、何ですか」
何人かが理人を見る。
鶴巻の肩だけがわずかに動いた。
ゆっくり振り向く。
「どこで見た」
質問で返された。
理人の背中に細いものが走った。
「壁の中です。最初のエリアで」
鶴巻はしばらく理人を見た。
「設備番号だ」
「何の」
「知らない」
答えが早い。
玄蔵はゲームのルールについて嘘をつかない。
鶴巻はそんな約束をしていない。
理人がもう一歩踏み込もうとした時、鶴巻の視線が別の場所へ動いた。
荒巻泰造。
ほんの一瞬だった。
「荒巻さん」
「何だ」
「あんたは残るのか」
荒巻は椅子に座ったまま答えた。
「ああ」
「そうか」
それだけ。
鶴巻は出口へ向かった。
通路の光が細身の背中を白く切り取り、やがて扉が閉まる。
表示。
《TSURUMAKI SHINYA――WITHDRAWN》
二十一人。
理人は閉じた扉を見続けた。
K-13。
知らないと言った男は、
どこで見たのかと先に聞いた。
*
辞退受付は十分間続いた。
ボタンへ手を伸ばした者は何人もいた。
実際に押したのは鶴巻だけだった。
宮部杏も最後には椅子へ戻った。
汐里は最初からボタンの近くへ行かなかった。
理人は自分の表示を消した。
二百八十四万円。
画面から消えただけで、金がなくなったわけではない。
なのに戻れない線を一つ越えた気がした。
九条玄蔵の映像が消える直前、理人はスクリーンへ言った。
「今からでも、全員が辞退したら終わるんですか」
玄蔵がこちらを見る。
「終わる」
「三百億は」
「誰にも渡らない」
「それだけ?」
「それだけだ」
即答だった。
理人は何も言えなくなる。
止められる。
全員で帰れば。
それでも二十一人が残っている。
玄蔵に閉じ込められたわけではない。
その事実の方が、鍵を掛けられるよりずっと気味が悪かった。
スクリーンが暗くなる。
最後に理人の腕輪へ一行だけ表示された。
《NEXT AREA WILL BEGIN IN 30 MINUTES》
帰れる。
それでも理人は、出口の扉から離れた。




