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LAST VAULT ―300億の遺産―  作者: asnt2026


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第6話 最初の死

第四チェックポイントまでの道は、それまでより静かだった。


静かすぎる。


床は平らで、壁も動かない。


安全装置を使う表示さえしばらく出なかった。


重松英嗣は最初こそ何度も腕輪を確認していたが、数字が減らないと分かると歩幅が戻った。


《SAFE TIME : 60》


《DEBT : 66》


羽鳥雅也は少し前を歩いている。


汐里は重松の斜め後ろ。


近すぎず、離れすぎず。


呼吸が変わったら分かる距離。


空気は前の区画より冷たかった。


壁の隙間から地下水の湿った匂いが流れ込み、照明は青白く、三人の影を長く床へ引いている。靴音が重なって返ってくるため、後ろから誰かがついてくるように聞こえた。


「何もねえな」


重松が言った。


羽鳥は振り返らない。


「こういう時の方が怖いですけどね」


「消防士は何でも危険に見えるのか」


「危険じゃないと思った時に事故は起きます」


「看護師と似たようなこと言うな」


汐里は返さなかった。


重松の歩き方を見ている。


右足が少し重い。


呼吸数も上がっている。


ゲームの問題ではない。


単純に疲れている。


「重松さん、一度ペース落としましょう」


「時間減ってないんだろ」


「体力の話です」


「平気」


「平気かどうか聞いてません」


重松が振り向いた。


一瞬だけ、目が合う。


汐里は逸らさなかった。


「顔色、少し悪いです」


「元からこんな顔だ」


「汗の量が増えてる」


「さっきから走ってるんだから当たり前だろ」


「胸は?」


重松の歩みが一拍だけずれた。


ほんの少し。


汐里は見逃さなかった。


「痛いですか」


「痛くねえ」


「圧迫感は」


「ない」


「息苦しさ」


「ないって」


声が大きくなる。


羽鳥が止まった。


重松は手を振る。


「大丈夫だ。行くぞ」


汐里の喉元まで言葉が上がった。


大丈夫ではない。


でも止める権限はない。


身体を診る道具もない。


本人が進むと言えば、腕を掴んで引き倒すわけにもいかない。


救急では、目の前にいる人が助けを求めていることが前提だった。


今は違う。


助けられたくない人間を、どこまで止めていいのか。


答えが出る前に、重松は先へ進んだ。


*


MAKER ROOMの空気も変わっていた。


重松の借入額。


六十六。


理人は何度見ても数字が減らない。


「第四で返すんですよね」


「ええ」


越智が答える。


「六十しか持ってない」


「追加借入は可能です」


「それやったらまた増える」


「そうですね」


「止める方法は?」


越智は何も言わなかった。


代わりに二階堂が答えた。


「ありません」


理人は操作卓へ両手をついた。


冷たいガラス。


「利率十にしたの、俺たちですよね」


「全員で決めた」


「返済第三にしたのも」


「そうです」


「第四に持ち越されるって分かってた?」


「規約を読めば分かる」


越智の言葉。


理人は顔を上げた。


「最初から?」


「借入後に生じた債務は次回チェックポイントで精算されると書いてあります」


「どこに」


越智が表示を開く。


何層か下。


細い文字。


確かにある。


理人の舌が上顎へ張りついた。


読めたのか。


こんなもの。


九十秒の中で。


二階堂が静かに言う。


「今は責任の確認より、重松さんが突破できるかを見るべきです」


「見るだけ?」


「他にできることがありますか」


「……ない」


「なら見ます」


腹が立つほど正しい。


理人はスクリーンへ戻った。


TEAM Bが第四チェックポイントへ近づいている。


重松。


汐里。


羽鳥。


理人の目が汐里で止まった。


彼女は重松のすぐ後ろを歩いている。


*


第四チェックポイント。


今度はゲートの向こうに細長い橋があった。


橋の左右には何もない。


暗い縦穴。


底から冷たい空気が吹き上がってくる。


表示。


《DEBT SETTLEMENT》


重松の腕輪が震える。


《SAFE TIME : 60》


《DEBT : 66》


六十が消える。


ゼロ。


不足六。


《ADDITIONAL BORROW AVAILABLE》


重松の口元が動く。


笑ったのかもしれない。


「六秒だけだろ」


汐里がすぐ言った。


「十秒単位です」


重松の指が止まる。


最小十。


借りる。


十秒。


六秒が返済に消える。


残り四。


新しい債務。


十一。


重松の額に汗が浮く。


「四秒か」


橋の表示。


《STABILIZE BRIDGE : 18 SEC》


三人とも黙った。


羽鳥が腕輪を見る。


自分には三十一秒残っている。


汐里は二十六。


しかし安全時間は譲渡できない。


重松だけ四。


「行けるか」


重松が橋を見る。


橋はわずかに揺れている。


渡れなくはない。


だが幅が狭い。


「俺が先に行きます」


羽鳥が言った。


「揺れ方見るんで」


「いい」


重松が手を出した。


「俺が行く」


「重松さん」


「俺の問題だ」


汐里が一歩前へ出た。


「身体の状態も良くない。十八秒使って安定させてください」


「四秒しかねえ」


「借りればいい」


重松が彼女を見る。


先ほどまで借りるなと言っていた人間の言葉だった。


汐里は続ける。


「十八秒分だけ借りる。渡る。それ以上は使わない」


「次また返済だぞ」


「そうです」


「また増える」


「分かってます」


重松の眉間に皺が寄る。


汐里は手を伸ばさない。


声も上げない。


「でも今ここで落ちたら、次はありません」


時間だけが減る。


ゲームの制限時間ではない。


重松の腕輪の四秒も、まだ減らない。


決めるまで動かない。


それがかえって残酷だった。


好きなだけ考えられる。


正解があるように見える。


重松は橋を見る。


汐里を見る。


羽鳥を見る。


最後に腕輪。


「いや」


小さかった。


「行ける」


羽鳥が息を吐く。


「無理しないでください」


「店十軒回してた頃は、こんな橋より面倒なもん毎日渡ってた」


誰も笑わない。


重松は橋へ足を乗せた。


一歩。


橋が揺れる。


重松の両腕が少し開く。


二歩。


三歩。


中央まで三分の一。


汐里は重松の背中しか見ていない。


右肩が少し下がった。


次の一歩が遅い。


「重松さん、止まって」


返事がない。


「一回止まってください」


重松が足を止めた。


それで初めて、橋全体の揺れが身体へ返ってきた。


左右。


ゆっくり。


重松の身体も同じ方向へ揺れる。


「戻って」


汐里の声が低くなる。


「今なら戻れます」


重松が振り返ろうとした。


左足を軸にする。


その瞬間だった。


身体が一度だけ大きく沈んだ。


膝ではない。


胸から力が抜けたように見えた。


右手が胸元へ行く。


指がシャツを掴む。


「重松さん!」


汐里が走り出した。


橋へ乗る。


羽鳥も続く。


重松はしゃがもうとした。


できなかった。


腰が落ちる前に身体が右へ傾く。


時間が伸びたようだった。


手が空を掴む。


橋の縁。


指先が触れる。


滑る。


汐里が腕を伸ばす。


あと少し。


重松の袖。


指先に布の感触。


掴んだ。


一瞬だけ。


重松の体重が汐里の肩へ全部かかる。


腕が伸びる。


汐里の靴底が橋の上で滑った。


羽鳥が背後から汐里の腰を掴む。


「離すな!」


離していない。


離したくない。


重松の腕が下へ引かれる。


布が伸びる。


縫い目が音を立てた。


ぶつっ。


小さな音だった。


重松の身体が落ちた。


汐里の手には、袖の一部だけが残った。


「重松さん!」


声が縦穴へ落ちる。


返らない。


身体も見えない。


ただ少し遅れて、どこか遠くで金属に何かが触れたような音がした。


一度。


それきりだった。


汐里は橋へ両手をついた。


指が震える。


息を吸おうとして、うまく入らない。


羽鳥が肩を掴む。


「有川さん」


返事ができない。


手の中に布がある。


汗と、少しだけ体温が残っている。


さっきまで人間の袖だったもの。


「有川さん、こっち見て」


羽鳥の声。


汐里は顔を上げた。


その瞬間、橋の上に赤い光が走った。


腕輪が一斉に振動する。


*


MAKER ROOM。


理人は画面を見ていた。


何もできなかった。


汐里の手が重松の袖へ届いたところまで見えた。


羽鳥が支えた。


布が切れた。


画面から重松の姿が消えた。


その後も理人は同じ場所を見ていた。


何か表示が出るはずだと思った。


救助。


緊急停止。


医療班。


何でもいい。


出なかった。


代わりに参加者一覧が開く。


二十四人から始まった名前。


すでに辞退や脱落でいくつか表示が薄くなっている。


その中で、


《SHIGEMATSU EIJI》


だけが赤く変わった。


数秒。


赤が消える。


名前そのものが一覧から消えた。


誰も声を出さない。


新海の指からコインが落ちた。


床へ当たる。


一度跳ねる。


転がる。


その音だけが部屋の端まで行った。


理人の掌は操作卓へついたままだった。


力を入れていないのに、指先が白くなっている。


玄蔵は言った。


殺す気はない。


安全を保証する気もない。


嘘ではなかった。


そこが、いちばん腹立たしかった。


正面のスクリーンに一行だけ表示された。


《SHIGEMATSU EIJI――STATUS : DECEASED》


理人はその英単語を読み終えるまで、意味を理解したくなかった。

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