第43話 前例
苑子が出たあと、
玄蔵は何も言わなかった。
外部送信を止めなかった。
怒りもしない。
許したとも言わない。
その沈黙が、
理人には妙だった。
知らなかったとは思えない。
この施設を作った男が、
監査回線の存在だけ知らないとは考えにくい。
なら、
送れるようにしていた。
なぜ。
答えを考える前に、
床の白線が点いた。
《AREA 12》
《PRECEDENT》
その下。
《前例》
晴斗が乾いた声を出す。
「十二個の次に、前例か」
画面。
三行。
《過去にACCEPTされた判断を、新たな対象へ適用する》
《ORIGINAL DECIDERはPRECEDENTを変更できない》
《OVERRIDEは一度のみ。過去判断の誤りを認め、現在のCOSTを引き受けた場合に限る》
理人は最後の一行を見る。
過去判断の誤り。
認める。
その言葉が、
普通のゲームより重く感じられた。
正しかった判断でも、
今の状況に合わなければ。
それを「間違いだった」と言わなければ変更できない。
二階堂が画面を読む。
眉は動かない。
葉月が横を見る。
「嫌なルール」
「ええ」
二階堂が答えた。
珍しく同意が早い。
《PRECEDENT 01》
画面が切り替わる。
映像。
三角形。
三つのBEACON。
理人はすぐ分かった。
ZONING。
東雲地区の話が出たゲーム。
表示。
《ORIGINAL DECIDER : KASHIWAGI HARUTO》
晴斗の顔が止まった。
「俺?」
《PAST DECISION》
《SAFE AREA : 80》
《RATIONALE : GREATER SAFETY MARGIN》
ルカが晴斗を見る。
あの時、
晴斗はルカたちのチームへ最も広いSAFE AREAを与えた。
助けるつもりだった。
結果として、
広すぎる区域がルートを遠くした。
それでも全員生き残った。
新しい対象。
《CURRENT SUBJECT : MIKUMO HAZUKI》
葉月の前に、
三つの小型BEACONが床から上がる。
周囲の壁が動く。
三角形の範囲が広がる。
《PRECEDENT APPLIED : SAFE AREA 80》
葉月の出口は遠ざかった。
通路が大きく迂回する。
晴斗の口が開く。
「またこれかよ」
ルール。
葉月は広い安全区域の内側を歩ける。
ただし、
出口まで百二十メートル。
制限時間。
《90 SEC》
葉月が表示を見る。
「無理じゃない?」
久保田。
「走れば不可能ではありません」
「私、そんな速くない」
晴斗の前に、
《OVERRIDE》
その下。
《REQUIREMENT》
《PRIOR DECISION : WRONG》
《CURRENT COST : DISTANCE TRANSFER》
葉月の距離を減らした分だけ、
晴斗自身の次ルートが長くなる。
ルカが画面を見る。
「晴斗」
晴斗は動かない。
自分の過去の選択。
あの時、
ルカたちを助けようとして80を与えた。
ルカ本人に、
「聞けないなら、自分が助けたいだけかもしれない」
と言われた。
その言葉が戻ってくる。
葉月のタイマー。
《82》
「行くよ」
葉月が走り出した。
広い。
安全だ。
足元には危険がない。
でも遠い。
晴斗はその背中を見る。
「これ、間違いだったのか?」
誰に聞いたわけでもない。
ルカが答えた。
「前は?」
晴斗を見る。
「前の80」
「助けようとした」
「それは知ってる」
「じゃあ」
「正しかったか聞いてる」
晴斗の口が止まる。
正しかった。
そう言いたい。
全員生き残った。
あの時も。
けれど、
理人たちは広い区域のせいで遠回りした。
BEACONを回転させなければ間に合わなかった。
葉月は今、
一人で同じ長さを走っている。
《67》
晴斗がOVERRIDEへ手を置いた。
表示。
《PRIOR DECISION : WRONG》
承認。
晴斗の指が止まる。
「これ押したら、あの時の俺まで間違いになるの?」
九条の声はない。
二階堂が言った。
「システム上は」
「二階堂さんなら押す?」
「状況が違うなら、前例をそのまま適用するべきではありません」
「質問に答えてない」
「前の判断が間違いだったとは思わないなら、私は押しません」
晴斗が顔を向ける。
二階堂は続ける。
「その代わり、現在の結果を引き受けます」
葉月。
《55》
息が上がっている。
まだ半分。
晴斗は画面を見る。
WRONG。
「めんどくせえな」
ルカが少し笑う。
「今さら?」
晴斗が押した。
《PRIOR DECISION : WRONG》
一瞬、
顔が歪んだ。
「間違いでいい」
承認。
《OVERRIDE ACCEPTED》
葉月の通路が縮む。
壁が動く。
出口が近づく。
同時に晴斗の腕輪。
《DISTANCE COST : +55m》
晴斗が画面を見る。
「五十五?」
ルカ。
「いっぱい走れるね」
「お前ほんと」
葉月が残り二十秒で出口へ入る。
《CURRENT SUBJECT CLEAR》
肩で呼吸。
晴斗を見る。
「ありがとう」
晴斗は自分の+55を見る。
「前は、ありがとうって言われるつもりで80にしたんだけどな」
ルカが横から言う。
「そこまで言ってないでしょ」
「今なら分かる」
晴斗は笑わなかった。
「聞く前に決めると、こうなる」
*
PRECEDENTは続いた。
過去のゲーム内判断。
時間を借りる。
負荷を集中する。
情報を偏らせる。
救助基準を切る。
同じ構造が、
別の人間へ適用されていく。
そのたび、
ORIGINAL DECIDERの名前が出る。
同じ判断なのに、
対象が変わると見え方まで変わる。
二階堂のLOAD SHAREも出た。
《PRECEDENT : RISK CONCENTRATION》
今回の対象は久保田。
一人だけ大きな負荷を持たされ、
残り三人が安全になる。
二階堂はOVERRIDE表示を見る。
《PRIOR DECISION : WRONG》
指を置かない。
葉月が言う。
「押さないの?」
「前の判断は間違っていません」
「久保田さんが危なくても?」
「今回の配分は前回と条件が違う」
「だから変えるんでしょう」
「そのために、過去を間違いにする必要はない」
葉月が眉を寄せる。
「じゃあどうするの」
二階堂は久保田を見る。
「本人に攻略してもらいます」
久保田。
「私ですか」
「あなたならできます」
「根拠は」
「今まで見ていました」
久保田の親指が爪へ触れる。
しばらくして、
「分かりました」
答えた。
二階堂はOVERRIDEを使わない。
久保田は大きな負荷を抱えながら、
順序と床の揺れを読み、
一つずつ進む。
最後の足場。
傾く。
一瞬遅れれば落ちる。
久保田は前ではなく、
一歩戻った。
床が戻る。
次の周期。
進む。
出口。
《CLEAR》
葉月が二階堂を見る。
「結果、正しかったって言う?」
「いいえ」
「じゃあ」
「久保田さんが対応しただけです」
久保田が遠くから言う。
「それ、褒めてます?」
二階堂。
「評価です」
理人は少しだけ笑った。
以前にも聞いた。
その言い方。
笑ったあと、
自分の名前が表示された。
《PRECEDENT 06》
《ORIGINAL DECIDER : MANABE RIHITO》
理人の呼吸が止まる。
画面。
《SOURCE DECISION : THRESHOLD》
四項目。
SPEED。
COOPERATION。
COMPLIANCE。
PRECISION。
理人は操作卓へ最後に指を置いた時を思い出す。
自分たち六人で、
何を評価するか決めた。
その数字で、
新海と仁科が出た。
表示が追加される。
《STRUCTURAL MATCH FOUND》
《HISTORICAL PRECEDENT : DECISION 01》
理人の目が動く。
DECISION 01。
十二個の一番上。
項目名。
《再建支援撤回》
その下。
会社名。
黒塗りが少しずつ消える。
一文字。
二文字。
理人は読む前に分かった。
それでも、
最後まで見た。
《真鍋精工株式会社》
呼吸の音だけが、
自分の耳の近くで大きくなった。




