第37話 優先順位
《ARIKAWA SHIORI》
《LIABILITY : 4》
汐里は自分の腕輪を見たまま動かなかった。
その数字は、少し前までなかった。
四。
四十センチ。
今までゼロだったはずの安全線に、それだけの遊びが生まれたことになる。
「何で有川さんに?」
晴斗が最初に声を出した。
理人も上を見る。
MAKER ROOMのガラス。
二階堂たちも同じ表示を見ているらしく、皆川文乃が操作卓へ顔を近づけていた。
答えは中央モニターに出た。
《PHASE 1 LIABILITY TRACE》
表示されたのは羽鳥雅也の名前。
《HATORI MASAYA : 10》
その下から細い線が二本へ分かれる。
《RETAINED : 6》
《RESCUE LINK : 4》
矢印の先。
《ARIKAWA SHIORI》
汐里の目がわずかに動いた。
続けて新しい表示。
《PHASE 1で最大LIABILITY保持者の救助に直接介入したPRIMARY RESCUERは》
《PHASE 2開始時に一部LIABILITYを承継する》
杏が眉を寄せた。
「そんなの聞いてない」
越智の声がMAKER ROOM側のスピーカーから届く。
「PHASE 1には適用されていません。PHASE 2開始条件として今開示された規則です」
「だからって」
晴斗が言いかけて止まる。
ルール違反ではない。
気に入らないことと、
書かれていないことは違う。
それをここまで何度も思い知らされている。
理人は羽鳥を見る。
羽鳥の腕輪。
《6》
十から四減っている。
合計は変わらない。
荒巻九。
芹沢六。
理人五。
羽鳥六。
汐里四。
三十。
きっちり残っている。
「俺のが移ったのか」
羽鳥が言った。
汐里は腕輪を閉じようとした。
数字は消えない。
「そうみたいですね」
羽鳥は自分の胸へ手を当てた。
落下時に強く締めつけられた右胸。
さっきより呼吸は整っている。
ただ深く吸えばまだ痛む。
汐里はそれを見逃さなかった。
「ちょうどいいです」
羽鳥が顔を上げる。
「何がです」
「六まで下がった。次はその方がいい」
「有川さんは四になった」
「私は落下の受け方を知りませんが、四十センチなら一メートルよりはましです」
「そういう話じゃ」
「そういう話です」
言葉を切ったのは汐里だった。
羽鳥が黙る。
理人は二人を見ながら、嫌な感覚を覚えていた。
汐里の言うことは正しい。
羽鳥はすでに胸を痛めている。
十のままより六の方がいい。
四を別の人間が持てば、危険は分かれる。
二階堂が最初から拒んだ、
均等に近づく。
それでも羽鳥の顔を見ると、
このまま終わらないことだけは分かった。
中央表示が変わる。
《PHASE 2 RULE》
三行。
《LIABILITY HOLDERは他者へ任意の量をTRANSFER可能》
《TRANSFERには双方の承認を必要とする》
《TOTAL LIABILITY 30は常に維持される》
その下。
《TRANSFER WINDOW : 180 SEC》
三分。
橋の先に新しい床がせり出した。
十三本あった細い橋は一度合流し、幅の広い中継デッキへつながっている。その向こうには再び十三本の経路が見えるが、今度は床ではなく、何本もの横棒が宙へ吊られ、その間を渡っていく構造になっていた。
天井のレールから冷たい風が流れ込み、汗で湿った服を冷やしていく。機械油の匂いに、さっき擦れたワイヤーの金属臭が混じり、誰かが動くたびハーネスの金具が小さく鳴った。
羽鳥が汐里へ歩いた。
「戻してください」
汐里の眉が寄る。
「何を」
「四」
「戻しません」
「まだ最後まで言ってません」
「分かります」
羽鳥は汐里の前で止まった。
腕輪を上げる。
《TRANSFER》
数字を入力。
4。
送り先ではない。
受取。
《REQUEST LIABILITY : 4 FROM ARIKAWA SHIORI》
汐里の腕輪が振動した。
《TRANSFER REQUEST》
《4 → HATORI MASAYA》
《ARIKAWA : 4 → 0》
《HATORI : 6 → 10》
汐里は画面を閉じた。
「却下します」
羽鳥が息を吐く。
「早いですね」
「あなた、胸を痛めてるでしょう」
「動けます」
「歩けることと次の落下に耐えられることは別です」
荒巻が少し離れた場所で、その言葉を聞いていた。
右肩をほとんど動かさずに立っている。
以前、自分が言われた言葉と同じだった。
羽鳥は自分の胸を指で押す。
「骨は?」
「今ここでは確定できません」
「呼吸できてる」
「できます。だから安全とは言ってません」
「でも、あなたが四持つより俺が十の方がいい」
汐里の顔が止まった。
「何を根拠に」
羽鳥は理人を見る。
次に荒巻。
それから十三人全体。
「真鍋さんの足」
理人の右足首。
「荒巻さんの肩」
荒巻は何も言わない。
「芹沢さんも六十センチ落ちてる。俺の胸もある」
最後に汐里を見る。
「次に誰か怪我した時、見るの誰です」
汐里の指先が腕輪の縁で止まった。
「それは」
「有川さんでしょう」
「だから私だけ安全でいろって?」
「そうじゃない」
羽鳥の声は強くならなかった。
「俺が持つ方がいいって言ってる」
「同じです」
「違います」
汐里の目が上がる。
羽鳥は少しだけ間を置いた。
「救助する人間を、救助される側と同じ危険に置かない方がいい」
その言葉で理人の中に何かが引っ掛かった。
正しい。
たぶん。
だから嫌だった。
理人が口を開く。
「羽鳥さん、もう一回落ちたら」
「分かってます」
「一メートルですよ」
「前も一メートルだった」
「前に耐えたから次も耐えるとは」
「真鍋さん」
羽鳥が理人を見る。
「あなたなら、四を有川さんに残します?」
理人の言葉が止まった。
汐里がすぐ言う。
「真鍋さんに決めさせないでください」
羽鳥。
「決めさせてないです」
「なら聞かないで」
「分かりました」
羽鳥は引いた。
本当に一歩下がった。
それがかえって汐里には厄介だった。
押しつけられているなら拒める。
頼まれているなら、
断るのも自分の判断になる。
《TRANSFER WINDOW : 126 SEC》
時間が減っていく。
MAKER ROOM。
葉月が画面を見ていた。
「止められないの?」
越智。
「PHASE 2のTRANSFERはBREAKERS権限です」
一ノ瀬が汐里を見る。
「これ、本人に決めさせるんだ」
二階堂は答えない。
由良の指が操作卓を叩く。
一回。
二回。
「合理性だけなら羽鳥さんへ戻す」
葉月が振り向く。
「二階堂さんじゃなくて由良さんが言うんだ」
「数字ではそうなります」
二階堂は画面の十三人を見る。
「ただし羽鳥さんが次に行動不能になれば、その合理性は崩れます」
皆川。
「判断材料が足りない」
「ええ」
「じゃあどっち」
葉月。
二階堂は汐里を見る。
「有川さんが決めることです」
*
汐里はしゃがんだ。
羽鳥の前。
「もう一度見せて」
羽鳥も膝を曲げる。
右胸。
汐里の指が触れる。
場所を変える。
「ここ」
「少し」
「ここ」
羽鳥の呼吸が一瞬止まった。
汐里は指を離す。
「今のは」
「ちょっと」
「そういうの要らないです」
羽鳥が苦笑する。
汐里は耳を近づける。
呼吸音。
左右差。
速さ。
胸郭の動き。
ここには聴診器も画像もない。
できることは少ない。
少ないからこそ、
判断をしない理由にはできなかった。
「深く吸って」
羽鳥が吸う。
途中で眉が動く。
それでも最後まで吸える。
吐く。
「もう一回」
繰り返す。
汐里は立った。
次に荒巻を見る。
右肩。
理人。
足首。
芹沢。
六十センチの衝撃。
晴斗たち。
ほぼ無傷。
杏。
茉莉。
苑子。
久保田。
八田。
片平。
この先で、
誰が何をすることになるかは分からない。
ただ一つ分かる。
自分が動けなくなれば、
この中に同じ判断をできる者はいない。
その考えが浮かんだ瞬間、
汐里は嫌になった。
自分だけが必要だと思っているように聞こえる。
けれど、
必要かどうかは好き嫌いとは別だった。
誰かを優先する時、
理由がきれいである必要はない。
救急では、
先に見る人を決める。
後へ回す人も決める。
それをしたあと、
理由を抱えて次へ行く。
汐里は羽鳥を見る。
「条件があります」
理人の顔が動く。
羽鳥。
「何です」
「次に胸の痛みが強くなったら、あなた自身の判断で進まない」
「分かりました」
「呼吸が浅くなっても」
「はい」
「私が止まれと言ったら」
羽鳥が少しだけ笑う。
「止まります」
「今までの感じだと信用できない」
「有川さんに言われたくない気もします」
汐里は笑わなかった。
腕輪を開く。
さっき閉じたREQUEST。
まだ残っている。
《4 → HATORI MASAYA》
承認欄。
親指を置く。
理人が一歩出た。
「有川さん」
汐里は画面から目を上げない。
「真鍋さん」
「羽鳥さんは」
「分かってます」
「でも」
「分かってるから決めます」
理人の口が止まった。
汐里はようやく顔を上げる。
「全員を同じように守るのは無理です」
理人が何か言いかける。
「今は」
汐里が続けた。
「私が動ける方を選びます」
誰かを助けるため。
そんな言葉にはしなかった。
羽鳥へ押しつける。
それも事実だった。
汐里は承認した。
《TRANSFER ACCEPTED》
《ARIKAWA SHIORI : 4 → 0》
《HATORI MASAYA : 6 → 10》
合計。
《TOTAL LIABILITY : 30》
数字は一つも減っていない。
ただ、
持つ人間が変わっただけだった。
羽鳥が腕輪の10を見る。
「戻りましたね」
汐里は言う。
「お願いがあります」
「はい」
「耐えてください」
羽鳥の表情が少し止まった。
命令でも、
診断でもなかった。
自分から四を渡した人間の言葉だった。
羽鳥はゆっくり頷く。
「分かりました」
《TRANSFER WINDOW : 00》
表示が消える。
前方の吊り橋が動き始めた。
横棒が一つずつずれ、
足場の間隔を変える。
第二PHASE。
理人は汐里を見る。
汐里の腕輪はゼロ。
安全になった。
そう呼んでいいのか分からなかった。
羽鳥には再び十。
一メートル。
理人は何か言いたかった。
けれど、
「それは間違っている」と言えば、
汐里が自分で選んだことまで否定する気がした。
汐里が先に言う。
「真鍋さん」
「はい」
「全員助かる方法、探すのはやめなくていいです」
理人を見る。
「でも、見つかるまで決めないわけにはいかない時があります」
前方。
《PHASE 2 START》
羽鳥が最初の足場へ向かった。
汐里はその背中を見ていた。
自分がゼロになった数字ではなく、
自分で十へ戻した男の背中を。
そして理人は初めて、
汐里が誰かを救う人ではなく、
誰を先に残すかを決める人でもあることを知った。




