第30話 排水弁
残り三分四十秒。
水位。
ROOM A。
《43.2》
ROOM B。
《39.8》
ROOM C。
《51.4》
三部屋とも、腰より下。
まだ百には遠い。
それでも増える速度が早い。
水は靴の中だけでなく服へ入り始め、動くたび重さが増す。空気は冷え切っているのに、理人の額には汗が浮いていた。水の匂いより金属と湿ったコンクリートの臭いの方が強く、天井から落ちる白い光が揺れる水面で砕け、壁へ細かな反射を投げ続けている。
理人は床へ指で線を描いた。
A。
B。
C。
水ですぐ消える。
「Aを開ける」
八田。
「Cが増える」
「Bを開ける」
葉月。
「Aが増える」
汐里が続ける。
「Cを開ければB」
三角形。
一周。
羽鳥がDRAINを見る。
「じゃあ全部閉めたら?」
理人は天井を見た。
ノズルから水は流れ続けている。
「そのまま全室上がる」
「全部開けたら」
「移すだけです。上から入る分は増え続ける」
葉月が腕を組む。
水が肘へ近づいている。
「なら無理じゃない」
八田が首を振る。
「制限時間まで百未満ならいい。水をなくす必要はありません」
理人は壁の表示を見る。
残り三分十一。
総水量。
三部屋合計。
約百三十五センチ相当。
最終的に合計が三百を超えなければ、理屈上は全部屋百未満へ置ける。
問題は偏り。
一つでも百へ届けば終わる。
「水を均す」
理人が言った。
「一番高い部屋だけ開けて、低い部屋へ送る」
八田。
「移送先が固定なので自由には送れません」
「だから順番を作る」
A→C。
C→B。
B→A。
理人は指で三角を描く。
「一番高いのがCなら、Cを開ける。Bが上がる。BがAより高くなったらBを開ける。Aが高くなったらA」
葉月。
「回す?」
「水位差を小さくする」
汐里が壁を見る。
「それを三部屋で共有できれば」
音しかない。
理人は壁へ拳を置く。
三回。
開ける。
一回。
閉じる。
これだけは伝わった。
問題は、
いつ開けるか。
互いの水位は正確には分からない。
理人は壁へ耳をつける。
反対側から、
三回。
Cか。
いや、こちらの左はB。
Bが開ける。
ROOM Aの流入口。
水が増える。
《46.1》
《49.8》
《53.4》
「Bが開けた」
羽鳥。
理人はすぐAのDRAINへ手を掛ける。
「待って」
汐里。
「何で」
「今Aを開けたらCへ送る」
「そうです」
「Cが今、一番高い可能性がある」
理人の手が止まる。
そうだった。
さっき確認できた時点で、
Cが五十一。
一番高い。
BがAへ送った。
つまりBは下がっている。
Aは上がる。
Cは変わらない。
今Aを開けば、
一番高いCへさらに送る。
「じゃあ閉めたまま」
葉月。
「Aが増える」
《56.2》
Bからの移送が続く。
「Bに止めてもらう」
八田が壁を叩く。
一回。
一回。
一回。
伝わらない。
三回と一回しか共有できていない。
理人も壁を叩く。
一回。
止めろ。
そういう意味になればいい。
向こうから返事。
三回。
まだ開いている。
水位。
《61.0》
汐里の腰まで水が来た。
「もうAも開けるしかない」
羽鳥。
理人はC側の壁を見る。
C。
今どうなっている。
分からない。
*
ROOM C。
水位。
《67.8》
三部屋で最も高かった。
荒巻が赤いハンドルを握っている。
「開けるぞ」
芹沢が止めた。
「待て」
「六十八だ」
「開けりゃBへ行く」
「だから何だ。このままならこっちが先に百だ」
仁科が荒巻の横へ来る。
「開けろよ!」
苑子は壁の音を聞いていた。
A側。
何度も一回の音。
「止めろって言ってるのかも」
仁科。
「そんなルール決めてねえだろ!」
「でもさっきまで三回が開ける、一回が閉めるだった」
「一回連打が何の意味かなんて分かんねえ!」
水位。
《70.4》
志摩の指が水面を叩いている。
一。
二。
三。
一定。
「BがAへ送ってる」
芹沢が言った。
全員が見る。
「何で分かる」
荒巻。
「A側の壁音が多い。止めろって叩いてるなら、Aが増えてる」
苑子が頷く。
「Bが開いてる」
「ならこっちは?」
「今Cを開けたらBへ行く」
芹沢。
「Bの水を下げるんじゃなくて、上げる」
仁科が腕を広げる。
「だから何だよ! Bが開けてAへ送れば一周するだろ!」
「その間にAが上がる」
「じゃあどうする!」
芹沢は答えない。
水が太腿の上へ来る。
冷たい。
古い事故現場を思い出しかけて、やめた。
水に沈んだ車。
窓。
指示。
救助順。
あの時も数字を見た。
何分。
何人。
何台。
でも最後に残るのは数字ではなかった。
誰を先に引いたか。
誰を待たせたか。
そういうものだけだ。
苑子が壁を叩く。
一回。
一回。
Aへ。
何を伝えたいのか、自分でも分かっていない。
荒巻がDRAINへ手を掛けた。
「俺は開ける」
芹沢がその腕を掴んだ。
荒巻の目が変わる。
「離せ」
「もう少し待て」
「何を」
「Bが閉めるか」
「閉めなかったら?」
「その時は」
「その時には七十五だ」
仁科がハンドルへ手を伸ばす。
芹沢が今度は自分からDRAINの前へ立った。
「どけよ」
「待て」
「元刑事だからって指図すんな」
「元だから言ってねえ」
水位。
《73.6》
苑子が声を上げる。
「壁!」
全員が止まる。
B側。
一回。
一回。
一回。
そのあと、
排水管の音が弱くなった。
「閉めた?」
志摩。
数秒。
ROOM Cへの変化はない。
Cが受け取るのはAから。
Bが閉めても直接は変わらない。
ただ、
一周の流れが止まる。
芹沢はハンドルを見る。
「今だ」
荒巻。
「開ける?」
「違う」
芹沢は赤いハンドルを両手で掴んだ。
今は半開きだった。
いつの間にか仁科が少し開けていたらしい。
水位はわずかに下がり始めている。
《73.2》
自分たちには都合がいい。
その分、
Bへ水が行く。
芹沢はハンドルを逆へ回した。
仁科が目を見開く。
「おい!」
一周。
二周。
排水音が弱くなる。
「何してんだ!」
荒巻も動く。
芹沢は止めない。
三周。
四周。
《DRAIN CLOSING》
ROOM C。
水位。
《74.1》
上がる。
「閉めたらこっちが!」
仁科が芹沢の肩を掴む。
芹沢は振り返らない。
「Bへ送るのを止める」
「向こうより自分だろ!」
「向こうも自分だ」
「意味分かんねえよ!」
最後まで回す。
ガコン。
ハンドルが止まった。
《DRAIN CLOSED》
水位。
《75.6》
上昇。
荒巻が芹沢を見る。
「本気か」
「こっちが一番高い」
「だから開けるんだろ」
「一番高い部屋が、自分を下げるために他を上げ続けたら終わらん」
苑子の目が動く。
理人たちが探していた答えと、
ほとんど同じところへ芹沢も来ていた。
自分たちの水位を下げることだけをやめる。
どこかで誰かが先に。
芹沢はA側の壁へ近づいた。
拳を握る。
一回。
止める。
もう一回。
止める。
三回目。
強く叩く。
向こうから返事があるかは分からない。
水はもう、
芹沢の腹へ近づいていた。
それでも彼が閉じたのは、
他人の部屋の弁ではない。
自分たちを助けていた、
ROOM Cの排水弁だった。




