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LAST VAULT ―300億の遺産―  作者: asnt2026


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第3話 狭い道

走りながら考えるのは得意ではない。


設備の前では、止まって音を聞く。図面を見る。手順を確認する。


それが理人のやり方だった。


壊れた機械ほど、急かしてくる。


早く直せと音を出す。


だから急がない。


それなのに今は、頭上の数字が一秒ずつ減っていた。


《04:48》


晴斗の靴音が響く。


汐里の呼吸はまだ乱れていない。


理人自身も走れる。


問題は、道の方だった。


また壁が動いた。


目の前の通路が左へ折れる。


その先でさらに右。


一本道なのに、進むたび遠回りさせられている。


「これ、八分で本当に着く?」


晴斗が走りながら言った。


「着くようにはできてるはずです」


汐里が答える。


「その言い方、微妙に怖いな」


「全員がとは言ってません」


晴斗の顔が一瞬だけこちらを向いた。


「看護師ってもうちょっと安心させてくれる仕事じゃないの?」


「安心できない時に安心させる方が怖いでしょう」


理人は二人の会話を半分だけ聞いていた。


隔壁の向こう。


ROUTE 03。


荒巻たちはまだ走っている。


広い。


壁から十分な距離があるため、接触しそうな場面はほとんどない。


なのに遅い。


彼らが一度右へ曲がった。


また右。


さらに左。


理人たちより明らかに長い。


そこでようやく、鶴巻の言葉を知らない理人の中にも同じ疑問が生まれた。


MARGINが大きいほど安全。


それだけだ。


短いとは、どこにも書いていない。


理人は速度を落とした。


「また?」


晴斗が振り返る。


「二人とも先に」


「どうしたんです」


汐里も止まりかける。


「止まらなくていい。ちょっと見る」


「それで時間切れになったら?」


理人は答えなかった。


床の白線を追う。


壁が動く。


白線が移動する。


理人たちは、その線の中央側を走っている。


危険機構から距離を取るための線。


そこまでは合っている。


だが壁が動くたび、彼らは大きく迂回していた。


機械は人間を押し潰そうとしているのではない。


人間と危険部分の間へ、指定された空白を作ろうとしている。


十二という数字。


二十八という数字。


安全な幅。


いや。


余白。


「真鍋さん」


今度は汐里が強く呼んだ。


理人は顔を上げた。


汐里の視線が、残り時間を示している。


三分五十一秒。


「分かった」


「何が」


「たぶん、これ」


理人は近づいてくる壁の前へ歩いた。


「ちょっ」


晴斗が腕を掴む。


「何してんの」


「動く順番を見たい」


「潰されたら笑えないから」


「潰す動きじゃない」


「なんで分かるんだよ」


理人は壁の下を指した。


「人を潰すなら横だけでいい。あのレール、前後にも動かしてる」


晴斗が足元を見る。


分からない顔だった。


理人も説明が下手なのは分かっている。


頭の中では繋がっている。


それを口へ持ってくると途中で形が崩れる。


汐里が壁と理人の顔を交互に見た。


「安全幅を作るために、壁そのものを移動させてる?」


「そう。近づけてるんじゃない。危険な場所を迂回させてる」


壁が動く。


理人は三歩下がった。


ゴウン。


壁が横へ。


次の高い駆動音。


その奥のパネルが前方へ滑る。


カン。


止まる。


その結果、通路が大きく曲がった。


理人は息を吐いた。


やはりそうだ。


「MARGINが大きい方が、安全な場所を広く取る。危険な設備から遠ざけるために、道そのものを迂回させる」


晴斗が荒巻たちのルートを見る。


「じゃあ二十八って」


「一番安全かもしれない」


理人は答えた。


「一番遠いけど」


晴斗の口から乾いた笑いが漏れた。


「性格悪っ」


「ルールは嘘じゃない」


汐里が言った。


二人が彼女を見る。


「九条さんが言ってましたよね。ルールについて嘘はつかないって。MARGINが大きいほど安全。そこは本当だった」


「近いとは言ってない」


理人が続ける。


「そういうことです」


汐里の声は平坦だった。


その方が嫌な感じがした。


*


MAKER ROOMで、二階堂はROUTE 04の映像を拡大していた。


真鍋理人が壁の駆動部を覗いている。


柚原茉莉が言う。


「あの人、何してるの?」


「見つけたんでしょう」


二階堂は答えた。


「何を?」


「私たちが見落としたものを」


鶴巻信也は黙っていた。


「あなたは気づいていましたね」


二階堂が言う。


鶴巻の視線はモニターから動かない。


「さっき、MARGINが高いほど安全とは書いてあるが、それ以外は書いていないと言った」


「言ったな」


「なぜ分かったんです」


「分かったとは言ってない」


「では予想していた」


鶴巻が二階堂を見る。


「質問が多いな」


「答えない人間がいると増えます」


二人の間へ、別のモニターの警告音が割り込んだ。


ROUTE 03。


荒巻たちの残り時間。


《02:42》


最も大きなMARGINを与えたルートが、最も出口から遠い。


茉莉の顔から先ほどまでの軽さが消えた。


「待って。これ私たちのせい?」


誰も答えない。


《DECISION ACCEPTED》


その文字はもう消えていた。


決めた後で戻せるとは、どこにも書かれていない。


*


理人は走った。


道が曲がる前に壁の動きを読む。


最初の低い駆動音が来たら、まだ壁は横方向。


次の高い音が始まるまで数秒ある。


その間だけ、白線が一時的に直線になる。


「次、右じゃない」


理人が叫ぶ。


晴斗が前で振り返る。


「でも線は右!」


「まだ完成してない。まっすぐ行ける」


「大丈夫?」


汐里の問いに、理人は一瞬だけ詰まった。


大丈夫。


その言葉を使うには根拠が足りない。


「ルール上は」


「それ一番嫌な答えです」


それでも汐里は止まらなかった。


三人が壁の手前まで走る。


ゴウン。


壁が横へ動く。


白線が揺れながら書き換えられる。


前方に、人一人が通れる程度の隙間が生まれた。


完成すれば閉じる。


だが今なら通れる。


「行って!」


晴斗が最初に身体を滑り込ませた。


続いて汐里。


理人が最後。


横を通過した瞬間、高い駆動音が始まる。


壁が前へ動いた。


背中のすぐ後ろで空気が押された。


理人は振り返らなかった。


三人で走る。


正規の白線なら大きく右へ迂回するはずだった。


その内側を一直線に抜けた。


警告音は鳴らない。


失格表示もない。


晴斗が走りながら笑った。


「これありなんだ!」


「禁止されてない」


「その言い方、二階堂みたいになってるよ」


「やめてくれ」


初めて理人も少しだけ笑った。


息が切れていた。


笑った分だけ余計に苦しくなる。


それでも足は軽くなった。


出口が見えた。


残り一分三十三秒。


最後の可動壁。


理人は音を待つ。


ゴウン。


まだ。


高い音。


今。


「左!」


三人が駆ける。


壁の内側を抜ける。


出口ゲートまで十メートル。


五メートル。


汐里が先に抜けた。


晴斗。


最後に理人。


背後でゲートが閉じる。


《ROUTE 04 CLEAR》


《01:07 REMAINING》


晴斗が床へ両手をついた。


「一分残し。余裕じゃん」


息を切らしながら言うので説得力がない。


汐里は壁に背を預けず、すぐに二人の顔を見た。


「気分悪くないですか。めまいは」


「ない」


「俺も平気」


「なら座らないで。急に座ると立てなくなるから」


自分も肩で息をしているのに、もう人の状態を見ている。


理人は返事をしてから、閉じたゲートを振り返った。


ほかのルートはまだ終わっていない。


透明な隔壁の向こうで荒巻たちが走っている。


二十八。


最も安全な道。


残り四十秒。


荒巻が後ろの参加者を先に行かせた。


自分は最後尾。


「間に合うか」


晴斗が小さく言った。


理人の指が無意識に壁の端を探った。


こちらからできることはない。


原因が分かっても直せない。


それが思っていた以上に落ち着かなかった。


二十三秒。


荒巻たちが最後の角を曲がる。


十五。


一人が出口へ。


十。


二人目。


荒巻がまだ来ない。


五。


巨大な身体が角から現れた。


三。


荒巻が飛び込む。


ゲートが閉じる。


《ROUTE 03 CLEAR》


残り表示。


《00:01》


晴斗が声を上げた。


「うそだろ!」


隔壁の向こうで荒巻が片膝をついている。


生きている。


その事実が確認できてから、ようやく部屋全体の張り詰めたものが少しだけ緩んだ。


六ルート。


十八人。


全員突破。


死亡者なし。


理人は息を吐いた。


その時だった。


先ほど通過した可動壁が、初期位置へ戻り始めた。


白い化粧パネルが横へ滑る。


普段なら壁の内側に隠れている鋼製フレームが一瞬だけ露出した。


理人は何となくそちらを見る。


設備点検をしていると、隠れていた場所の方が気になる。


表から見える部分より、普段見えないところに故障の跡が残る。


黒いフレーム。


ボルト。


配線。


その奥に古い金属プレートがあった。


今の設備とは明らかに年代が違う。


油と錆で半分汚れている。


英数字が刻まれていた。


理人は目を細める。


壁が閉じるまで数秒しかない。


それでも読めた。


《K-13》


次の瞬間、鋼板が重なり、その文字は見えなくなった。

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