床下保守層
7月21日は、朝から暑かった。梅雨が明けたのが前の日で、空に雲がない。8時の時点で、仮囲いの鉄板が触れないくらいになっている。
管理区域の外に、テントが一つ立っていた。長机が二つと、折りたたみの椅子が六脚。机の上に、飲み物の入ったクーラーボックスと、紙コップの束が置いてある。
テントの影はまだ敷地の端まで伸びていたが、風がない。立っているだけで、背中にシャツが張りつく。仮囲いの向こうでは、作業員が道具を運ぶたび金属の音が短く響いた。
美里は7時40分に着いた。瀬尾は先に来ていた。井沢は8時前に来た。今日はジャケットを着ていない。先週こちらへ来て、いったん戻って、また来ている。環は8時ちょうどに、自分で呼んだタクシーで着いた。
「おはようございます」環は言った。
四人とも、それ以上のことを言わなかった。
作業の準備は、こちらからは断片しか見えない。仮囲いの中に、白いシートで囲った箱のようなものができていて、そこから太い管が二本出ている。管の先は、車輪のついた機械につながっていた。白いシートは朝の光を反して、内側が見えない。
8時10分に、大浦が来た。今日はヘルメットを人数ぶん抱えている。
「これから、前室を作ります」大浦は言った。「作業する人が出入りするところです。着替えて、掃除機をかけて、出てくる。三つ部屋があります」
「開口はいつからですか」
「前室ができてからです。9時前後になると思います」大浦は言った。「機械が回りはじめたら、音で分かります」
美里は図面を持っていた。昨日、代理人へ渡したものと同じものである。渡してあるので、今日はもう説明することがない。
それでも持ってきた。持ってこないという選択が、うまくできなかった。
図面の筒を膝に置くと、汗で手のひらが少し滑った。この三週間、必要なものは紙にして持っていけばよかった。今日は紙を持っていても、中で行われることには何も足せない。
9時05分に、機械が回りはじめた。
低い音である。空調に近いが、それより重い。耳で聞くより先に、長机の脚から細かい振動が伝わった。紙コップの束が、触れていないのにわずかに震えた。
音の高さは変わらない。回りはじめてから、一定のまま続いた。
美里は自分が音を聞いていることに気づいて、聞くのをやめようとした。やめられなかった。
音は何も伝えない。開口がどこまで進んだかも、中に何があるかも、この音からは出ない。出ないのに、耳のほうが勝手に拾っている。
「見えませんね」瀬尾が言った。
「見えません」
「昨日まで、僕は、見えないものを見えるようにする仕事をしていました」瀬尾は言った。「今日は、何もできません」
美里は白いシートのほうを見た。中で人が動いているらしく、シートが時々ふくらむ。
あの中に、家があった。二階建てで、廊下があって、雨が降っていて、笠のぶんだけ暗い居間があった。畳は八畳で、一枚が88センチ掛ける176センチだった。障子の向こうに廊下があって、廊下の突き当たりに階段があった。
階段の裏は、75センチである。
いま、そこに家の形はない。セットの周辺部は1999年のうちに撤去されたが、焼損材の残る中心部は封じ込められた。養生の外から見えるのは、コンクリートの床と壁だけだった。美里が二週間かけて線を引いたのは、もう形を失った家の平面である。
その平面の上の一点だけが、現実の床とつながっている。
*
10時を過ぎて、大浦が別室を用意した。東側の倉庫の一角である。
窓はないが、扇風機が一台ある。折りたたみの長机と、椅子が並べてあった。扇風機は首を振るたびに軸が鳴り、風が来る数秒だけ汗が冷えた。そのあとは、温くなった空気がまた戻った。
四人と大浦が入って、扉を開けたままにした。閉めると音が聞こえなくなる。誰も閉めてくれとは言わなかった。
紙コップを配ったのは瀬尾である。水を入れて、四つ配った。
美里は自分のコップを、机の右上に置いた。環は膝の上に持ったまま、置かなかった。井沢は机の左端、手が届かないほうへ置いた。瀬尾は自分の前に置いて、二回動かした。
四つとも、違うところにあった。誰も、他の三つに合わせようとしなかった。
機械の振動は、この部屋まで薄く届いていた。水面が見て分かるほど揺れるわけではない。ただ、コップを机へ置くと、底から低い震えが指へ戻ってくる。
「小峰さん」井沢が言った。「一つ、お伝えしておきます」
「はい」
「弊社の本件の企画は、八月から私の担当を外れます」井沢は言った。「配信企画としては閉じて、後処理だけを別に残すことになります」
「いつからですか」
「八月からです」井沢は言った。「後処理そのものは、私がやります。担当が外れるというのは、配信を進める立場ではなくなるという意味です」
「それは」
「順番の話です」井沢は言った。「小峰さんも、同じでしょう」
同じ言い方を、先週も聞いた。瀬尾が保存の表を作りはじめたときである。
美里はうなずいた。宮下から昨日、話があった。この案件が片づくまでは、契約の窓口の補助をする。そのあとの担当は、秋に決める。責任者の登用は白紙のままで、字幕の仕事は当分ない。
「あの作品は、どうなりますか」環が言った。
「配信はしません」井沢は言った。「弊社は権利を返します。作品そのものは、汐江テレビのものです」
「局は、公開しますか」
「分かりません」井沢は言った。「ただ、いまの段階で公開する理由が、局にありません」
環は水を一口だけ飲んだ。飲んでから、コップの縁を指で拭いた。
しばらく、機械の音だけが続いた。音は変わらない。変わらないので、時間が進んでいるのかどうかが分かりにくくなる。
美里は一度時計を見て、体感で十分ほどしてからもう一度見た。時計は十二分しか進んでいなかった。自分で見ておいて、その短さに腹が立った。
11時20分だった。
朝からここまでで、確かなことは一つも増えていない。増えないまま待つ時間があることを、この三週間、美里は知らずに来た。資料は、探せば出るか出ないかが決まる。今日は、探しているのが自分ではない。
机の上に図面を出す理由もない。質問する相手もいない。作業記録に書ける新しい事実もない。
美里は空になりかけた紙コップを持ち上げた。水はもう冷たくなかった。
「小峰さん」環が言った。
「はい」
「一つ、決めたことがあります」環は言った。「あの十二の言葉を、私は訊きません」
美里は環のほうを見た。環はこちらを見ていない。机の木目のほうを見ている。
「先週、一度だけ訊きました。あの子の言葉になりますか、と」環は言った。「あなたは、分からないものは分からないままにする、と答えてくださいました。それで足ります」
「はい」
「もし今日、この下から何か出てきたら」環は言った。「私は、あの子が最後に何を考えていたかを、考えてしまうと思います。考えるのは、止められません」
環はそこで一度、言葉を切った。
扇風機の風が環のところへ行き、髪の端だけを動かして、また戻ってきた。
「ただ、作らないようにします」環は言った。「あの子が怖かったとか、暗かったとか、誰かを呼んだとか。そういうものを、私が作ってしまうと、それは私の話になります。私の話にしてしまうと、あの子のほうは、もう一度いなくなります」
美里は、返す言葉を持っていなかった。持っていないので、黙っていた。
三話の00:18:27に、ここで待っていればいいんだよね、という行がある。
美里はその行を、覚えている。覚えているが、今日、この部屋で口に出す理由が一つもない。
あれは劇中の台詞である。1999年6月のどこかの日に、居間のセットで撮られたカットの、画面の外にいた誰かの台詞である。1999年6月26日の19時半ごろとは、何の関係もない。
関係がないことを、二日かけて確かめた。確かめたのに、いま、この部屋でその行を思い出している。
美里は紙コップの水を飲んだ。ぬるくなっていた。
12時に、大浦が握り飯を配った。四人とも受け取って、二人が食べ終えた。
美里は包装を開けたが、半分で止まった。環の前のものは、開かれていない。井沢は食べながら一度だけ電話の画面を見て、伏せた。瀬尾は食べ終わると、空いた包装を小さく畳んだ。
食事のあとも、機械の音は同じだった。
13時を過ぎたころ、その音が少し変わった。
美里は顔を上げた。瀬尾も、井沢も上げた。環だけが動かなかった。
変わったのは音の高さではなく、断続の仕方だった。何かの機械が、別に一つ回りはじめている。
「切っているところだと思います」大浦が言った。
それから、誰も何も言わなくなった。
環は膝の上のコップを、両手で持ち直した。
*
13時15分に、白い服の人間が三人、前室から出てきた。
美里はテントの下から、それを見ていた。
三人とも面体を外して、そのまま止まっている。話をしているのではなく、止まっていた。
さっきまで一定だった作業の流れの中で、そこだけが静止して見えた。
代理人が、こちらへ歩いてきた。歩き方が、朝と違う。
代理人は美里たちのほうを見なかった。大浦のところへ行って、短く何か言った。大浦の背中が動かなくなった。
署の係官二人が、テントの横から出てきて、代理人と話した。三分ほどである。それから係官の一人が、無線で連絡を始めた。
美里は立ち上がった。立ち上がっただけで、線の外から動かなかった。環も立った。
係官の一人が、こちらへ来た。四十代くらいの男で、朝からずっと帽子をかぶっている。額のところだけ汗で色が変わっていた。
「江波さん」係官は言った。
「はい」
「いま、床下の空間に、人の骨と思われるものが確認されました」係官は言った。「入口から西へ、およそ3メートルの位置です」
環は何も言わなかった。聞き返しもしなかった。
機械の低い音だけが、その言葉のあとにも続いた。
「作業は止めています。触れていません」係官は言った。「これから鑑識が入ります。ここから先は、捜査の扱いになります」
「あの」環は言った。「ほかに、何かありましたか」
係官は少し迷った顔をした。手帳を見て、それから閉じた。
「布のようなものが、周りに残っています」係官は言った。「それと、履物と思われるものの一部が、青い色をしています」
環は、その言葉を聞いてから、二秒ほど何もしなかった。
紙コップの縁に置かれていた親指が離れた。それから、片方の手で、もう片方の手首をつかんだ。強くではない。つかんで、そのまま下げた。
「小さいですか」環は言った。
「大人のものではありません」係官は言った。「大きさについては、これ以上は申し上げられません。鑑定が要りますので」
「分かりました」
環はそれだけ言った。
美里は環の横に立っていた。
千尋さんです、とは言えない。
骨は骨で、布は布で、青いものは青いものである。二十七年前、20センチの布靴が買われ、同日の写真に水色の靴が写り、ここにも青い履物の一部がある。
つながる。つながるが、鑑定が済むまで、それは推定のままだった。
美里は、二週間前に自分がしたことを思い出した。出典のない一行を、母への告発として読んだ。読めたのは、読みたかったからである。
いま、ここで、千尋さんです、と言えば、環はそれを聞く。聞いたものは、消せない。
美里は言わなかった。
代わりに、半歩だけ、環のほうへ寄った。触れる距離ではない。並んで立つ距離である。
環は前を見ていた。白いシートの、閉じたままの入口を見ている。
「あの中ですか」環は言った。
「あの中です」美里は言った。
「二十七年、あの中にいたんですね」
「まだ、分かりません」美里は言った。
環は美里のほうを見なかった。見ないまま、少しだけうなずいた。
「そうですね」環は言った。「分かりませんね」
それから、二人とも黙った。
機械の音は、まだ続いている。回りはじめたときと同じ高さで、同じ強さである。中で何が見つかっても、この音は変わらない。
テープの線は、足元にある。美里はその外側にいる。二週間、図面と伝票と帳票を数えて、線をここまで引いてきた。引いた先に何があるかを、自分の目では見ない。見るのは別の人で、確かめるのも別の人である。
それでいい、と思った。
13時40分に、鑑識の車が二台入ってきた。仮囲いの門が開いて、閉まる。
瀬尾が、少し離れたところから写真を撮ろうとして、やめた。カメラを鞄へ戻して、こちらへ来た。
「記録は、警察が取ります」瀬尾は言った。
「そうですね」
「僕が撮ると、僕の記録になります」瀬尾は言った。「今日は、要りません」
井沢は、テントの端で電話をしていた。会社への報告だろう。声は小さくて、内容は聞こえない。
電話を切って、井沢はこちらへ来た。歩きながら、袖のボタンを留め直している。
「本日中に、汐江テレビへ正式な連絡が行くはずです」井沢は言った。「解体の全体日程は、当面止まります」
「25日は」
「なくなりました」井沢は言った。
美里は仮囲いの掲示のほうを見た。昨日貼られた紙が、日に当たって少し反っている。
工事一時中断のお知らせ。
その下に、まだ元の紙が残っていた。解体工事のお知らせ、着手予定、令和八年七月二十五日。
二枚とも、そこにある。上の紙が剥がれれば、下の紙がまた読める。
美里はそれを見てから、環のほうへ戻った。環は同じ場所に、同じ向きで立っていた。
テントの影は朝より短くなっている。椅子はすぐ後ろにある。
立っているあいだ、環は一度も座らなかった。




