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字幕にだけいる  作者: 卓哉
第五部 名前を載せない完成版

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25/25

ひとつ足りない

 10月下旬の汐江は、朝だけ冷える。


 新局舎の資料室は、七月に来たときと配置が変わっていた。書棚が二列増えて、背表紙に新しい番号が入っている。移転のときの整理が、ようやく最後まで届いたらしい。


 美里は瀬尾と並んで座った。


 七月の終わりから、二人が同じ案件の席に座るのは初めてだった。


「寒いですね」瀬尾が言った。


「資料室ですから」


「そういう意味ではなく」


「分かっています」


「分かってるなら、普通に寒いって言えばいいのに」


 美里は少しだけ笑った。


「寒いです」


「はい」


 七月なら、この程度のやり取りにも意味を探したかもしれない。いまは探さなかった。


 井沢は隣の席にいる。


 企画の担当からは八月に外れて、いまは後処理だけを続けている。前より少し短くなった髪を耳にかけて、局側の資料に目を通していた。


「始めてよろしいですか」局の権利担当が言った。


 誰もすぐには答えなかった。


「お願いします」井沢が言った。


 権利担当は封筒を一つ出した。


「先週、正式に連絡がありました」


 紙を取り出す手が、一度止まった。


「7月21日に発見された遺体は、江波千尋さんと確認されたそうです。母親との親子関係の鑑定と、年齢の推定と、当時の歯科の資料です。遺留品のほうも合っていました」


 資料室の空調が鳴っている。


 美里は封筒を見た。


 受け取らなかった。


 受け取るものではない。


「江波さんには」


「昨日、警察からご説明があったそうです」


 美里は手帳を開いた。


 日付を書いた。


 書いてから、書く必要がないことに気づいた。


 この件について、もう自分は何の記録も持っていない。


 それでも、消さなかった。


 瀬尾が横から手帳を見た。


「書くんですね」


「書いてしまいました」


「消しますか」


「消しません」


「そうですか」


 それ以上は言わなかった。


 権利担当が一度、喉を鳴らした。


「それで、うちの広報なんですが」


 言い出してから、少しだけ顔をしかめた。


「今この流れで言うことではないんですが、今日決めないと間に合わないので」


 井沢が資料から顔を上げた。


「言ってください」


「今月中に、二つ出したいと考えています。修復が完了していることと、今回の調査の報告です。経緯としてつながっていますので、同じ資料の中で順に説明したほうが分かりやすいかと」


「分かりやすくなります」井沢が言った。


 権利担当が少し安心した顔をした。


「そのぶん、二つが一つの話になります」井沢は続けた。


 権利担当の表情が戻った。


「作品が見つかって、そこから事件が出てきた、という話です。作品のほうへ関心が向いて、事件はその付属になります」


「そういう意図ではありません」権利担当が言った。


「分かっています」


「でしたら」


「意図どおりに読まれるとは限りません」


 井沢の声は七月と変わらない。


 ただ、前なら「意図の話をしていません」と切ったところを、今日は一度受けてから返した。


「作品の本編は、公開しません」美里が言った。「7月に、江波さんが決めたことです。修復データは残しますが、配信も上映もしません。その前提で広報を出すと、見られないものの宣伝になります」


「見られないものを、なぜ修復したのかと訊かれます」


 権利担当は少し苛立っていた。


「それ、こちらも困るんです。広報で修復に触れないと、何のための企画だったんだ、と社内から言われる」


「言われるでしょうね」井沢が言った。


「井沢さん、もう御社の案件じゃないから簡単に言えますけど」


 部屋が静かになった。


 権利担当本人が、一番驚いた顔をした。


「……すみません」


「いえ」井沢は言った。「そのとおりです。私は今月末で担当部署を離れます」


「そういう意味では」


「ただ、担当を離れるから言っているわけではありません」


 井沢は草案の見出しを指した。


「調査の報告だけを出してください。正式な手続きを経ずに子供が撮影へ参加していたこと。記録から外されていたこと。今回の発見に至った経緯。作品名は、必要な範囲だけ出す。修復には触れない」


「見られないものを、なぜ直したかは」


「訊かれたら答えます」美里が言った。


 権利担当が美里を見た。


「何と」


 美里は少し考えた。


「修復データは保存します。公開はしません、と」


 権利担当は草案へ線を引いた。


「分かりました。修復は外します」


 言いながら、まだ納得はしていない顔だった。


「社内では怒られますけど」


「私も七月に怒られました」美里が言った。


「それ、慰めになりませんね」


「すみません」


「謝らないでください」


 七月より、少しだけ会議が人のものになっていた。


 会議のあと、美里は資料室の新しい棚を見に行った。


 番号は連番で入っている。


 ただ、一つだけ空いていた。


 棚板の背に番号だけが貼ってあって、そこに何も入っていない。


「事件資料の枠です」瀬尾が言った。「入るのは、捜査が終わってからになります。いまは、番号だけ取ってあります」


 美里は空きを見た。


 番号がある。


 中身がない。


 二十七年前と、順番が逆だった。


「何ですか」瀬尾が言った。


「いえ」


「また一人で意味をつけています?」


 美里は瀬尾を見た。


「少し」


「少しなら、いいんじゃないですか」


 前なら瀬尾はそう言わなかった。


 美里も前なら、そうですね、では返さなかった。


「そうですね」


*


 環の家に着いたのは14時過ぎである。


 丘陵の道は七月と同じで、生垣だけが刈り込まれていた。空気が乾いていて、路面が白く見える。


 居間のソファの位置は変わっていない。


 机の上に、湯呑みが二つ出ていた。


 出してから待っていたのが分かる置き方だった。


「昨日、伺いました」環は言った。「警察の方から」


「はい」


「あの子でした」


 美里は何か言おうとした。


 何も出なかった。


 七月なら、言葉を選んだ。


 記録の場なら、確認できる範囲を答えた。


 今日は、そのどちらでもない。


「……はい」


 それだけ言った。


 環はうなずいた。


 湯呑みに手を伸ばした。持ち上げて、飲まずに戻した。


「小峰さん」


「はい」


「今、何も言わなかったですね」


「言えませんでした」


 環は少しだけ目を伏せた。


「それでいいです」


 美里の胸の奥が詰まった。


 礼を言う場面ではないと思って、何も言わなかった。


 しばらくして、環が自分から言った。


「今日は、記録の話ですね」


「はい」


 美里は鞄から、局の保存台帳の登録票を出した。


 項目が縦に並んでいて、右側が空欄になっている。


 机に置いて、環のほうへ向きを合わせた。


 環はそれを自分の側へ引き寄せた。


 上から順に読みはじめた。


 今日は、最後まで読んだ。


「登録すると、この形で残ります」美里は言った。「あとで開いた人が読むのは、この紙に書いてあることだけです。千尋さんに関わるところは、江波さんに決めていただきます」


 氏名を書く欄と、役名を書く欄が並んでいる。


「案が二つあります」


 美里は一つ目を指した。


「ミオという未放送役の項目を作って、その中に、演じたのは江波千尋さん、と書く形」


 次を指した。


「もう一つは、江波千尋・演者と、ミオ・未放送役を、別々の行に立てる形です」


 環は紙を見た。


「違いは、何ですか」


「一つ目だと、千尋さんは役の説明の中に入ります。二つ目は、人の行が先にあって、役の名前があとに付きます」


「普通は」


「一つ目です。役の名前で引く台帳なので」


「では、なぜ二つ目を持ってきたんですか」


 美里は、用意していた説明を言いかけた。


 二十七年前に、あの子は役ごと消されました。


 そこまで頭に出て、止めた。


「七月に、江波さんから言われたからです」


「私が?」


「ミオと千尋を混ぜないでください、と」


 環の指が止まった。


「覚えていたんですね」


「記録しましたから」


 言ってから、美里は少し考えた。


「記録したからだけではありません」


 環が顔を上げた。


「最初の形だと、ミオという役を消したら、千尋さんの名前も一緒に消えます。二つ目なら、役の項目をどう扱っても、江波千尋という行は別に残ります」


 環は紙を見た。


 長く見た。


「二つ目でお願いします」


「はい」


 美里は書いた。


 江波千尋/演者。


 ミオ/未放送役。


 二行になった。


 環が、美里の手元を見ていた。


「小峰さん」


「はい」


「千尋の字、前より上手になりましたね」


 美里の手が止まった。


「前」


「七月に、手帳へ何度も書いていたでしょう」


 美里は自分の字を見た。


「……そうかもしれません」


「最初は、少し固かったです」


「見ていたんですか」


「あなたも、よく見ていましたから」


 環は湯呑みを持った。


 今度は一口飲んだ。


 次の欄は公開の範囲である。


 一般公開、制限公開、非公開。


「全部、制限のほうで」


「はい」


 美里は書いた。


 書き終えて、紙を環のほうへ回した。


 環は確認して、日付と名前を入れた。


 入れ終わってから、ペンを置かなかった。


 持ったまま、机の一点を見ていた。


「一つ、うかがってもいいですか」


「はい」


「あの人は、警察に、何を話したんでしょうか」


 美里はその質問を予想していなかった。


「あの人」という言い方だけで、黒瀬だと分かった。


「警察の内容は開示されていません。私が知っているのは、七月の社内の聞き取りで話されたことだけです」


「それでいいです」


「階段の裏で待つように言ったのは自分だ、と。点呼のときに、千尋さんが残っている可能性を考えた、とも話しました」


 環の指がペンを強く握った。


「考えた」


「はい」


「その場で?」


「点呼のときです」


 環は壁の時計を見た。


 七月の聞き取りの時刻を美里は伝えていない。


「一人足りないとは言わなかった、と」


 環はペンを机に置いた。


 置いた音が高かった。


「私は」


 そこで止まった。


 美里は何も言わなかった。


「私も、言わなくなりました」


 環はゆっくり言った。


「あの子が18時07分まで局にいた、と、一度は言いました。それを、そう聞こえる録音があります、に変えました」


「うかがいました」


「ずっと、同じだと思っていました」


 美里は顔を上げた。


「私も黙った。あの人も黙った」


 環は指を一本ずつ開いた。


「だから、責めたら、自分にも返ってくると思っていました」


 声は大きくない。


 むしろ、時刻を言ったときより小さかった。


「昨日、警察の方から、点呼の時刻も聞きました」


 環は美里を見た。


「19時58分だったそうですね」


「はい」


「黒瀬さんが、千尋を階段の裏で待たせたのは19時半ごろ」


「そう話しました」


「火災は19時48分」


「はい」


「点呼は19時58分」


「はい」


 環は時刻を一つずつ置いた。


 感情が高ぶるほど、この人は正確になる。


「私は29日に言い方を変えました」


 環は続けた。


「三日後です」


 美里は何も言わなかった。


「黒瀬さんは、その十分の中で言わなかった」


 環の目が少し赤くなっていた。


 声は変わらない。


「同じじゃないですね」


 美里は、はい、と言いかけて止めた。


 それを決めるのは自分ではない。


「江波さんは、そう思ったんですね」


 環は少しだけ眉を寄せた。


「そこまで仕事の言い方に戻らなくてもいいです」


 美里は息を吐いた。


「すみません」


「でも、今のは嫌いではありません」


 環は目元を指で一度押さえた。


「私が決めます」


 その言葉は、七月の美里が使った「責任者判断」と同じ形だった。


 意味は違った。


「同じじゃないことにします」環は言った。


 それだけだった。


 美里はうなずいた。


 環は登録票を、美里のほうへ戻した。


 角を机の縁と平行にした。


「これでいいです」


「はい」


 美里は封筒へ入れた。


 玄関を出るとき、環が呼び止めた。


 上がり框のところで、こちらへ向き直っている。


「小峰さん」


「はい」


「あの紙は、誰が読みますか」


「分かりません」


 美里は正直に答えた。


「十年後かもしれません。誰も読まないかもしれません」


 環は少し考えた。


「読まれなくても、あるんですね」


「あります」


「千尋の行が」


「あります」


 環はうなずいた。


「それで十分です、とは言いません」


 美里は顔を上げた。


「十分だったら、二十七年は長すぎます」


「はい」


「でも、ないよりはいい」


「はい」


 環は扉を押さえたまま、二人が門を出るのを待っていた。


 七月と同じである。


 ただ、扉が閉まるまでの時間が、少し長かった。


*


 編集会社に戻ったのは17時前だった。


 美里の席は七月と同じ場所にある。


 担当している案件は、旧作の権利整理が二件と、字幕の外注管理が一件である。


 最終品質承認をする仕事は、いまのところ持っていない。


 宮下からは秋のうちにもう一度話すと言われていて、それは十一月になる。


 美里は自分の机で、社内の様式の改定案を開いた。


 品質管理表の様式である。


 工程、実施日、実施者、判定、備考。


 この五つが、いまの欄だった。


 美里はそこへ、六つ目を足した案を作っている。


 保留。


 欄の説明には、こう書いた。


 確認を試みたが確定できなかった事項を記載する。記載した事項は判定に影響しない。空欄のまま提出してよい。


 三行である。


 三行を書くのに、二か月かかった。


 最初の案はもっと長かった。なぜ保留が必要かを説明する文章を、五百字ほど付けていた。


 宮下に見せたら、これは様式ではなく主張です、と言われた。


「だいぶ怒ってましたね、あのとき」


 後ろから瀬尾が言った。


「聞いていたんですか」


「隣の会議室でした」


「盗み聞きですね」


「壁が薄いんです」


「そういうところです」


「何がですか」


 美里は答えなかった。


 削っていくと、三行になった。


 様式は、主張ではないほうがいい。


 誰が使っても同じ形で残るのが様式である。使う人が、私はこう考えたので保留にしました、と書かなくて済むようになっていれば、それでいい。


 改定案は来月の社内会議にかかる。


 通るかどうかは分からない。


 17時半に、井沢からメールが来た。


 三行だった。


 局の広報は調査報告のみで出ること。


 修復についての記載はないこと。


 自分は今月末で編成制作部を離れ、来月から別の部署へ移ること。


 最後に一行だけ、本文から少し離して書いてあった。


 保留欄の件、通るとよいですね。


 美里は返信を書いた。


 ありがとうございます。


 来月の結果をお知らせします。


 二行である。


 送信する直前に、一度止めた。


 何か一言足したほうがいい気がした。


 7月17日のこと。


 そのあと局内で何をしたのか。


 異動のこと。


 どれも、メールにすると違った。


 結局、二行で送った。


 黒瀬のことは、八月に瀬尾から聞いた。


 七月の下旬に警察の聴取があって、待機の指示と、点呼のときのことを話したという。局の資料整理の協力からは、七月のうちに退いている。


 捜査は続いていて、そのあとのことは分からない。


「瀬尾さん」


「はい」


「黒瀬さんのことを聞いたとき、私、何と言いましたか」


 瀬尾は少し考えた。


「そうですか、って」


「それだけ?」


「それだけです」


「冷たいですね」


「小峰さんが?」


「私が」


 瀬尾は自分の席から少し顔を出した。


「何か言いたかったんですか」


 美里は考えた。


「腹が立っていました」


「七月にも言っていましたね」


「まだです」


「そうですか」


「はい」


「それなら、それでいいんじゃないですか」


「記録には書けませんけど」


「何でも記録にしなくていいです」


 美里は瀬尾を見た。


「それ、瀬尾さんが言うんですね」


「最近、言うようにしています」


 日曜の機材棚と同じ言い方だった。


*


 18時に、美里は一度外へ出た。


 地下道を上がって二つ目の角で、パン屋に寄った。


 棚に一つ残っている。


 くるみの丸いパンである。


 半額になるのは19時からで、値札はまだ伏せていなかった。


 美里は定価で買った。


 袋のまま鞄へ入れた。


 六月の終わりに同じ場所を通ったとき、棚は空だった。


 あのときは、そのまま通り過ぎた。


*


 20時を過ぎて、美里は制限環境の編集室に入った。


 この部屋の端末は、外へつながっていない。


 閲覧できるのは、権限に名前が入っている資料だけである。


 今日は、保存用の全八話と、7月16日の削除後版を閉じる。十二本を含む削除前の字幕データは、事件資料としてすでに別保管されている。


 閉じるというのは、書き換えるのに手続きが要る状態にすることをいう。


 美里は三つとも関連付けて、第一話から順に、映像と字幕を突き合わせた。


 八話ぶんで、四時間かかる。


 机の端に、くるみのパンを置いた。


 一時間後に半分食べた。


 残りは袋へ戻した。


 00:08:42を通った。


 啓太が廊下の先を見て、母親が誰もいないほうへ返事をして、啓太が振り返る。


「いま、返事した」


 それから一秒ほど間があって、母親が別の話を始める。


 その一秒の上に、行はない。


 美里は再生を止めなかった。


 00:21:16。


 ない。


 第二話、00:14:03。


 ない。


 十二か所とも、字幕は出なかった。


 美里は出ないことを確認して、記録に書いた。


 保存用データにおいて、7月16日に削除した十二本は再表示されない。


 そこでペンが止まった。


 再表示されない。


 その書き方なら、今日の事実である。


 ただし、再表示されない条件は特定できていない。


 十二本がなぜ出たのかを、美里は最後まで説明できなかった。


 説明できないものが出なくなったとき、止まったのか、今日は出なかっただけなのかを、こちらが判断する材料はない。


 終わりました、とは書けない。


 0時を過ぎていた。


 第八話の最後まで来た。


 雨の音が続いて、家の外観が映って、そこから音が落ちる。


 1999年のクレジットが上がっていって、最後に黒い画面になる。


 黒画面は八秒ある。


 放送のときからそうなっていた。


 美里は、その八秒を最後まで再生した。


 四秒目で、行が出た。


〈ミオ「私の台詞、ひとつ足りない」〉


 美里は再生を止めなかった。


 判断ではない。


 手が動かなかった。


 行は二秒ほど表示されて、消えた。


 黒画面が終わって、再生位置が右端まで来て、そこで止まった。


 部屋は静かだった。


 美里は画面を見たまま、椅子の背にゆっくり体を預けた。


「……そうですか」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 6月29日なら、すぐ消した。


 七月なら、瀬尾を呼んだ。


 今日は、そのどちらも、すぐにはしなかった。


 まず時計を見た。


 0時06分。


 次に再生位置を記録した。


 第八話終了後、黒画面四秒目。


 表示時間、約二秒。


 話者名、ミオ。


 文字列。


 そこまで書いて、瀬尾へ電話をかけようとした。


 時刻を見て、やめた。


 代わりにメッセージを打った。


 明日、確認してほしいものがあります。急ぎません。


 送信してから、急がない、という文字を見た。


 七月なら書けなかった言葉だった。


 美里は備考の欄を開いた。


 欄は埋まっている。


 その下に、枠のない場所がある。


 あとで様式が変わったときに、そこへ移せばいい。


 美里は一行を作った。


 書いた。


 保留。第八話終了後の黒画面に、話者名ミオの字幕一行を確認。出典不明・2026年10月/未確定。


 削除はしなかった。


 正式な報告もしなかった。


 削除すれば、この一行はなくなる。


 なくなれば、この案件は完了になる。


 完了にする手続きは、6月29日の夜に一度やった。


 あのときは、備考にも書かずに帰った。


 今日は、書いた。


 書いたので、この記録は完了しない。


 保留の行があるかぎり、閉じられない。


 閉じられないものは、次に開いた誰かが読むことになる。


 美里は保存した。


 確認画面に、自分の名前が出た。


 今度は隠さなかった。


 十二本のうち、原典を確かめられたのは十一本である。残る一本は、出所が分からないままだった。


 その十二本を数え終えたところへ、まだ足りない、と出た。いま出た一行は十三本目である。誰が数えたのかは書いていない。誰に向かって言っているのかも、書いていない。


 美里は画面を閉じなかった。


 右端で止まったはずの再生位置が、また動いていた。


 黒画面はもう終わっていて、再生位置だけが、その先を進んでいる。八話ぶんの最後には、何も入っていない。何も入っていないところを、位置の表示だけが、一秒ずつ動いていった。

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