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字幕にだけいる  作者: 卓哉
第五部 名前を載せない完成版

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23/25

止まった工事

 署を出たのは14時前だった。受理の控えを一枚もらって、それだけである。担当の係官は、資料を確認して、内容によっては連絡します、とだけ言った。


 局へ戻ると、瀬尾が別の部屋を取っていた。四人が入れる小さな部屋である。井沢も来た。今日の会議はもう終わっているのに、まだ帰っていない。


「保存の話をします」瀬尾が言った。


 瀬尾は机の上に、一枚の表を置いた。項目が縦に並んでいる。修復した映像の八話ぶん。字幕十二本を含む削除前の字幕データ。未編集素材の四件と円形痕。18時07分の音声。取込工程の記録。図面と伝票の複写。


 右の欄が三つに分かれていた。保存する場所、閲覧できる人、公開の可否。


「先に権限を決めます」瀬尾は言った。「中身の話をすると、決まらなくなります」


「順番の話ですね」美里は言った。


「順番の話です」


 瀬尾は一行目から埋めていった。修復映像。保存場所は事件資料の領域。閲覧は四名。公開の欄で、手が止まった。


「ここは、江波さんに決めていただきます」瀬尾は言った。


 環は表を見た。前へ引き寄せた。今日は、自分の側へ引いてから読んだ。


「配信はしないでください」環は言った。


「八話全部ですか」


「全部です」環は言った。「あの作品には、うちの子は映っていません。映っていないものを配信して、あの子の話が付いて回るようになります。付いて回るのは、うちの子ではなく、事件のほうです」


「修復そのものは、どうしますか」瀬尾は言った。「もう終わっています。データは残ります」


「残してください」環は言った。「見せないで、残してください」


 瀬尾は公開の欄に、不可、と書いた。書いてから、少し止まった。


「僕は、十二年、逆のことをしてきました」瀬尾は言った。「戻したものは見せるためにある、と思っていました。見せないなら、戻す意味がないと」


「いまは」


「いまは、戻しておくこと自体に意味があると思っています」瀬尾は言った。「見せるかどうかは、別の人が決めていい」


 美里は表の二行目を見た。字幕十二本を含む字幕データである。


「これは、どうしますか」井沢が言った。この部屋に入ってから、初めて口を開いた。


「同じ扱いです」美里は言った。「保存はします。公開はしません。ただ、これについては、もう一つ書いておきたいことがあります」


 美里は備考の欄に、自分で書いた。瀬尾に頼まなかったのは、この一行がこちらの判断だからである。


 この十二行のうち十一行の出所は、劇中台詞として確認済み。一行は未確定。画面へ表示された理由は不明。事件の証拠としては使用しない。


「不明と書くんですか」井沢が言った。


「書きます」美里は言った。「この表には、分からないまま残せる欄があります」


 環が、二行目の欄を見ていた。指は表に触れていない。


「あの十二の言葉は」環は言った。「どこかで、あの子の言葉になりますか」


 美里は答えるのに時間をかけた。


「十一本については、なりません」美里は言った。「台本にあった役の台詞だと確認しました。残る一本は、出所が分かっていません。ですから、その一本を千尋さんの言葉だとも言いません。分からないところに、あとから意味を足すことはしません」


「足さないでください」環は言った。「足すと、それはあなたの言葉になります」


「はい」


 環は表を、美里のほうへ戻した。角を、机の縁と平行にして。


*


 17時30分に、井沢は汐江映像アーカイブの会議室にいた。自社の社内会議へ、この部屋から接続する。美里は同席を求められた。理由は説明されなかった。


 画面の向こうに、井沢の会社の人間が四人いた。井沢は十分ほど説明をした。工程の状況、納品の未了、汐江映像アーカイブ側の対応、そして本日提出された資料の概要である。


「以上が、事実関係です」井沢は言った。「これから申し上げるのは、私の判断です」


 画面の中の誰かが、何か言った。井沢は続けた。


「本件の配信を中止します。決裁は私の名で行います」


 少しのあいだ、回線の向こうが静かになった。誰かの咳の音が、二度入った。


「損失は、制作費と権利処理費、契約解除に伴う費用を含めて、配信企画全体で概算八千万です。宣伝の枠はまだ買っていません」井沢は言った。「配信を止める理由は、権利上の瑕疵ではありません。作品そのものに問題はありません」


「では、なぜ止めるんですか」


「1999年に、この作品の撮影に参加していた子供が、記録から外されています」井沢は言った。「外された経緯に、局と制作側の判断が入っています。その状態のまま配信すると、弊社はその判断を追認したことになります」


「追認になりますか」


「なります」井沢は言った。「配信は、作品を現在の商品として出す行為です。出す側は、出すものの記録に責任を持ちます」


 井沢は少し間を置いた。次に言うことを決めてから来た人の、間の取り方だった。


「もう一点、汐江テレビへ正式に要請します」井沢は言った。「旧局舎の旧第二スタジオ、西側区画の解体準備について、当面の停止を求めます。弊社は所有者ではありませんが、本件の企画主体として要請を出せます」


「それは、うちの話ではないのでは」


「うちの話にします」井沢は言った。「配信を中止した理由が、その区画にあります。理由を残さずに、結果だけ止めるのは筋が通りません」


 会議は40分で終わった。井沢は接続を切って、端末を閉じた。閉じてから、しばらく机を見ていた。


「小峰さん」井沢は言った。「昨日、私の意見は判断材料にならないと申し上げました」


「うかがいました」


「あれは、正しいと思っています」井沢は言った。「私見で会社の金を動かすことはできません。今日動かしたのは、私見ではありません。記録の不備です。不備は、業務上の事実です」


「そうですね」


「ただ、不備を不備として扱うかどうかは、こちらが決めています」井沢は言った。「そこは、私見に近い」


 井沢は要請書の様式を出して、その場で書きはじめた。宛先、汐江テレビ株式会社。件名、旧第二スタジオ西側区画の工事準備停止の要請について。


 最後の欄に、名前を入れた。


 ノードライン株式会社 編成制作部 井沢真帆。


 美里はその欄を見ていた。6月29日に会議室で聞いた説明を思い出した。できることと、その先。あのとき、この人はできることだけを並べた。今日の署名は、その先にある。


*


 7月20日の午前、編集室に局からの通知が届いた。美里はもう字幕の担当ではない。通知は宮下宛てで、宮下が転送してきた。業務上の共有、とだけ書いてある。


 汐江テレビからの通知は二枚だった。一枚目は、1999年6月26日の当日報告のうち、千尋の退出に関する記載について、記載者本人から訂正届の提出があったこと。これにより、局の記録における「17時30分、送迎担当へ引渡し済み」の記載を撤回すること。


 二枚目は、旧第二スタジオ西側区画について、緊急の構造・安全調査を実施すること。実施日は7月21日。関係者への説明を7月20日14時に現地で行うこと。


 美里は一枚目を二度読んだ。訂正届を出した本人の名前は、通知には書かれていない。何を訂正したかも、一行だけである。警察が何を聞いたのかも、書いていない。


 書いていないことのほうが多い。それでも、局の正式な記録から、17時30分が消えた。


 美里は火災報告の複写を出した。二十七年前の紙である。当日の経過をまとめた三枚のうちの一枚目に、その一行がある。


 17:30 千尋、送迎担当へ引渡し済み。


 いま手元にあるのは複写なので、訂正線は入らない。局の原本のほうには、今日、線が入っているはずだった。


 美里は複写の余白に、鉛筆で書いた。2026年7月20日、局記録において撤回。


 鉛筆にしたのは、これが自分の資料ではないからである。消せるようにしておく、という意味でもあった。


「坂井さんですね」瀬尾が言った。


「名前は出ていません」美里は言った。


「出ていませんが」


「出ていないものを、私たちが当てるのはやめます」美里は言った。「二十七年前に、そうやって決めた人たちがいます」


 瀬尾は何か言いかけて、やめた。


 美里は通知の二枚目を、机の中央へ置いた。実施は7月21日。解体の着手予定日までは、今日から五日である。


*


 14時の現地協議は、旧局舎の敷地の東側で行われた。仮囲いの内側に、机が二つ出してある。屋根はないので、パラソルが一本立っていた。集まったのは十二人ほどである。汐江テレビの堀内と大浦、工事の元請、石綿の除去業者、市の担当、汐江中央署の係官が二人、それと井沢と、美里と瀬尾。


 説明は元請の現場代理人がした。日に焼けた五十くらいの男で、図面を丸めずに板に留めて持っている。


「事前の石綿調査は、解体の準備として今年の四月に終わっています」代理人は言った。「今回は、その調査結果を使います。新しく全面の調査をやり直すと、それだけで二週間かかります」


「開口の場所は」堀内が訊いた。


 美里は図面を出した。1964年の平面に、保守層の位置が入っている。


「点検蓋は、家屋セットの階段背面にありました。ただ、その位置は火災の損傷がいちばん大きいところです」美里は言った。「蓋を直接開けるのではなく、隣の床から横に入るほうが」


「そこは、こちらで決めます」代理人が言った。


「はい」美里は言った。「私が申し上げるのは、位置と寸法だけです」


 美里は図面の寸法を読み上げた。北西部から西へ8メートル、高さ900、幅1200。西の端は外壁の内側で、1986年に塞がれている。入口は600角、深さ1100。


 代理人は自分の図面に線を引いた。それから、除去業者と話をした。負圧の養生をどこまで広げるか、袋詰めの動線をどう取るか。二十分ほど、専門の言葉が続いた。


 署の係官が一度だけ口を挟んだ。


「開口したあと、中のものは動かさないでください」係官は言った。「見えたところで止めて、こちらへ連絡してください。撮影と記録は、こちらでやります」


「工事側の安全確認が先です」代理人が言った。


「安全確認が済んでから、中のものには触れないでください」


 二人は少し話して、手順を分けることで決まった。開口、安全確認、そこで作業を止める、署へ連絡、立会いのうえで記録。


 美里はその手順を、手帳に書き取った。書き取りながら、自分が今日ここで何をしているかを考えた。図面の位置と寸法を読み上げた。それだけである。開けるのは業者で、見るのは警察で、決めるのは所有者である。


 協議が終わったあと、床に線が引かれた。塗料ではなく、太いテープである。作業区域の境界だった。


 美里はその外側に立った。線の向こうに、鉄の扉がある。二十七年前の6月26日、19時半ごろに、あの扉の中で、9歳の子供が待つように言われた。明日の8時に、業者が入る。


 大浦が、掲示のところへ行って、紙を一枚貼り替えていた。解体工事のお知らせの上に、新しい紙が重なる。


 工事一時中断のお知らせ。


 美里は少し離れたところから、それを見ていた。日付の欄に、7月20日と入っている。今日である。


 止まった。


 止めたのは、自分ではない。書面を書き、要請を出し、決裁をし、訂正届を出し、調査を発注した人たちがいる。そのうちの何人かは、名前が分かっている。何人かは、分からない。


 止まっているあいだに、明日が来る。

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