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字幕にだけいる  作者: 卓哉
第五部 名前を載せない完成版

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22/25

名前を載せない

 7月17日は、朝から晴れていた。


 編集室に入ったのは7時前である。窓のない部屋なので、外の天気は関係ない。それでも、来る途中で日が差していたことを、美里は覚えていた。朝から日が差しているのは、久しぶりだった。


 最終の検査は二時間かかる。


 八話ぶんの映像と、八話ぶんの字幕と、それを結ぶ表の照合である。


 美里は上から順に走らせた。


 映像の欠落、なし。


 音声チャンネルの構成、全話一致。


 字幕の表示時間の重なり、なし。


 一行あたりの文字数、規定内。


 環境音の注記、全話そろっている。


 素材IDと編集決定表のカットIDの対応、全件一致。


 項目は四十七ある。


 四十七とも、右端の欄が緑になった。


 美里はその画面を、しばらく見ていた。


 欠陥はない。


 八年やってきて、これだけ何も出ない検査はそう多くない。出ないように作ったからである。


 この案件が始まったころなら、この画面で仕事が終わった。


 終わったことにして、駅まで歩いて、明日の順番を頭の中で並べた。


 今日は、並べる先がない。


 瀬尾が9時前に来た。


 上着を椅子の背に掛けて、隣の席で自分の担当の確認を始めた。修復映像の最終出力である。


「こちらも問題ありません」


「ありがとうございます」


「色も、粒子も、全話そろっています」


「はい」


 瀬尾は返事を待つように少しだけ手を止めた。


「11時ですね」


「11時です」


「何かありますか」


 美里の指がキーボードの上で止まった。


「何がですか」


「今日の会議で」


「最終確認です」


「それは知っています」


 瀬尾は画面から目を離さなかった。


「小峰さん、昨日から、聞いていないことがある顔をしています」


「顔で判断しないでください」


「では、聞きます。何かありますか」


 美里は、ない、と言おうとした。


 言えなかった。


「会議で話します」


 瀬尾の手が止まった。


「僕も会議に出ます」


「はい」


「そこで初めて聞くんですか」


 美里は答えなかった。


 瀬尾が初めてこちらを見た。


「分かりました」


 それだけだった。


 美里は検査結果を書き出して、品質管理報告の様式に貼った。


 様式は決まっている。工程、実施日、実施者、判定、備考。


 判定の欄に、合格と入る。自動で入る欄なので、こちらが打つところではない。


 美里はその欄を見て、備考の欄へ移った。


 台本との差が三十一件あること。差の理由を一件ずつ別表に付けたこと。第一話の00:06:14で、台本の「まだ乾いてない」を放送音の「まだ乾かない」で採ったこと。


 全部、字幕の話である。


 備考の欄に書けるのは、字幕の話までである。


 美里はもう一つの文書を開いた。


 昨夜のうちに作ったもので、様式はない。


 表題だけ入れてある。


 1999年の出演者記録に関する確認事項。


 中身は五項目である。


 20センチの布靴の立替精算。


 衣装合わせの写真。


 修正前香盤表の鉛筆追記。


 18時07分の録音。


 社内聞き取りの記録。


 それぞれに、日付と、出所と、確認した方法が書いてある。


 この文書は、品質管理報告の一部ではない。


 付けるところがない。


 付けるところがないものを、今日持っていく。


 美里は印刷した。


 プリンターが動き始めたとき、瀬尾が立ち上がった。


 美里は反射的に印刷口の前へ立った。


 瀬尾の足が止まった。


 二人とも、その動きに気づいた。


「そこまでしますか」瀬尾が言った。


 美里は一歩どいた。


「すみません」


「謝るなら、見せてください」


「会議で話します」


「僕に先に言うと、何か困りますか」


 美里は紙を取った。


「困ります」


 瀬尾の眉が動いた。


「どう困るんですか」


「瀬尾さんが、自分の仕事の話だと思うからです」


「僕の仕事でもあるでしょう」


「だからです」


 美里は紙を鞄へ入れた。


「言えば、止めるか、一緒に来るか、どちらかを選ぶでしょう」


「どちらも嫌ですか」


「選ばせたくありません」


「またですか」


 美里は顔を上げた。


「この前の車の中でも、僕に選ばせないようにして、責任者判断で押しました」


「その言葉は取り消しました」


「言葉は」


 瀬尾はそこまで言って、自分で止めた。


「分かりました。会議で聞きます」


 今度の分かりましたは、距離を取る音だった。


*


 新局舎の会議室は、三階の中央にある。


 局が用意した部屋で、机が長い。


 井沢は先に来ていた。


 今日は画面ではなく、実物である。6月29日に会って以来、顔を合わせるのは十八日ぶりだった。同じ紺のジャケットに、踵の低い靴。鞄から端末を出して、机に置いている。


 宮下は美里の隣に座った。


 汐江テレビからは、権利担当が一人来ている。


「では、最終品質確認を始めます」井沢が言った。「工程の報告からお願いします」


 瀬尾が修復映像の説明をした。


 十二分かかった。


 説明のあいだ、井沢は一度も口を挟まなかった。


 瀬尾も、必要なこと以外は言わなかった。


 次が美里である。


 美里は検査結果の一覧を配った。四十七項目が並んでいて、右端が全部緑になっている。


「字幕は八話ぶん、全項目が基準内です。台本との差が三十一件ありますが、理由を別表に付けています」


「拝見しました」井沢は言った。「技術面での指摘はありません。予定どおり、13時に納品判断へ入ります」


 美里は「はい」と言わなかった。


 宮下が横を見た。


 瀬尾は見なかった。


「その前に、一つ申し上げます」


 井沢の指が端末の縁で止まった。


「どうぞ」


「最終品質承認に、私は署名しません」


 瀬尾がこちらを向いた。


 宮下も向いた。


 権利担当の男は、手にしていた別表を途中でめくるのを止めた。


 井沢だけが動かなかった。


「理由をうかがってよろしいですか」


 声はいつもと同じだった。


 だから、美里はかえって緊張した。


「ファイルに欠陥はありません。いま配ったとおりです」


「では、何に署名できないんですか、小峰責任者」


 呼び方が変わった。


 美里は喉の奥が少し乾くのを感じた。


「この作品の記録です」


 鞄から昨夜の文書を出した。


 瀬尾の前にも置いた。


 瀬尾はすぐには触れなかった。


「1999年6月の『雨の家』の撮影に、当時9歳の子供が参加していました。正式な出演者名簿、完成版の香盤表、給与記録には載っていません」


 美里は一度止まった。


「載せられなかった、という言い方のほうが正確です」


 井沢が紙を見た。


 初めてだった。


「確認できた資料が五つあります。日付と出所は、そこに書いてあります」


 権利担当の男が紙を手に取った。


「その子供は、1999年6月26日の夕方以降も局内にいました。火災当日の点呼では数えられていません。それと、削除前の稿に、その子が演じる役があります。局の移転資料庫にある稿で、7月6日に閲覧しています」


「その話は、今日の議題ですか」井沢が言った。


「議題ではありません」


「では、契約上の何ですか」


 質問が一段短くなった。


「契約上の項目ではありません」


「小峰責任者」


 井沢は机の上の品質管理報告を指した。


「あなたが今日承認するのは、修復映像と日本語アクセシビリティ字幕です。出演者記録ではありません」


「分かっています」


「分かっていて、止める」


「はい」


 井沢は一度、息を吐いた。


「では、理由を契約の言葉ではなく、あなたの言葉で説明してください」


 美里は予想していなかった。


 いつもなら、井沢は契約へ戻す。


「私は」


 そこで止まった。


 品質管理責任者として、と言えばまた役職の言葉になる。


「私は、この作品の記録に、事実と違うところがあることを知りました」


 井沢は何も言わない。


「知ったうえで、これで完成です、と名前を書くことができません」


「技術的には完成している」


「しています」


「字幕も正しい」


「正しいです」


「修復映像も」


「正しいです」


「それでも署名しない」


「はい」


 井沢は背もたれへ一度も寄りかからなかった。


「分かりました」


 美里は少し驚いた。


「ただし、分かったとは言いました。認めたとは言っていません」井沢は言った。「弊社が発注している範囲に、1999年の出演者名簿の正確性は含まれません。対象外の事実を理由に対象内の承認を止めれば、契約上は納品遅延です」


「はい」


「違約が発生する可能性があります」


「はい」


「御社の責任になります」


 美里が答える前に、宮下が言った。


「小峰」


 低い声だった。


 美里は横を向いた。


「今朝の時点で決めていたのか」


「はい」


「俺には言わなかったな」


「はい」


「瀬尾にも?」


 美里は瀬尾を見た。


「言っていません」


 宮下は一度、目を閉じた。


「そういうことを一人で決めるために責任者にしたわけじゃない」


 美里の胸が縮んだ。


「申し訳ありません」


「謝るのは後でいい」


 宮下は井沢のほうを向いた。


「弊社としては、本日の期日までに納品できません」


 美里は宮下を見た。


「部長」


「黙ってろ」


 初めてだった。


 宮下は声を荒げてはいない。ただ、美里へ説明する余裕を切った。


「担当者を替えて署名させることは、しません。品質管理の署名は、実務を見た者がするものです。見た者が署名できないと言っているのに、見ていない者へ回すのは、うちの仕事のやり方ではありません」


「契約の扱いは」井沢が訊いた。


「私が窓口になります。遅延の責任、違約の扱い、費用の負担。会社の話は全部こちらで受けます」


「小峰責任者の扱いは」


「この案件については、本人の希望を聞きます」


 宮下は一度、美里を見た。


「責任者としての登用は、いったん白紙だ」


 美里はうなずいた。


 覚悟していたはずだった。


 言葉として聞くと、胃のあたりが冷えた。


 瀬尾が机の下で足を動かした音がした。


 美里はそちらを見なかった。


 井沢は端末に手を伸ばした。画面を見て、何かを確かめ、それから蓋を閉じた。閉じてから、机の上で少し押した。手元から遠ざける置き方だった。


「小峰責任者」


「はい」


「6月29日に、私は、配信の可否は私です、契約の解除も私です、と申し上げました」


「うかがいました」


「そこは変わっていません」


 井沢は初めて、美里ではなく五項目の文書を見た。


「ただ、今日の判断は、こちらの材料が足りません。持ち帰ります」


「13時の納品判断は」


「本日は行いません。社内会議を今日中に入れます」


 権利担当の男が紙をもう一度めくった。


「これは、うちにも出るということですか」


「11時30分に、正式にお出しします。同じものを、汐江中央署にも出します。昨日、担当の方に時間をいただいています」


 部屋の中で、紙の音だけがした。


 瀬尾は何も言わなかった。


 最初にこちらを向いたあと、会議のあいだ一度も目を合わせなかった。


*


 廊下へ出ると、瀬尾が先に歩いた。


「瀬尾さん」


 止まらなかった。


「瀬尾さん」


 今度は止まった。


「何ですか」


「言わなかったことは、謝ります」


「何に対してですか」


 美里は答えに詰まった。


「僕が怒っているから?」


「怒っていますか」


「今それを聞きますか」


 美里は黙った。


 瀬尾は眼鏡を外さず、指で位置だけ直した。


「今朝、聞きました。何かありますかって」


「はい」


「会議で話す、と言いました」


「はい」


「僕が何かを選ぶと、小峰さんが楽になるから、選ばせたくないと言いましたよね」


 瀬尾はそこで一度言葉を切った。


「それ、僕のためではないですよね」


 美里は返せなかった。


「僕に選ばれてしまうと、自分一人でやったことにならないからでしょう」


「逆です」


「何が」


「選ばれたら、私が一人でやったことじゃなくなる。それが、楽になるからです」


 瀬尾の顔が少し変わった。


「……そこまで分かってて、黙ったんですか」


「はい」


「それは、余計に腹が立ちますね」


「すみません」


「今日は、その謝り方は受け取りません」


 瀬尾は歩き出した。


 美里も後ろを歩いた。


 関係が壊れたとは思わなかった。


 ただ、前と同じではない。


 それを修復するのは、自分の仕事ではなく、自分たちの仕事だと思った。


*


 11時30分に、局の別の部屋で提出をした。


 環は11時に着いていた。紺のワンピースに薄い上着を着ている。手には、事務用の紙箱を入れた布の袋を持っていた。


「お待たせしました」美里は言った。


「いえ」環は言った。「私は、待つのは慣れています」


 その言葉に、美里は何も返さなかった。


 提出の束は、机の上で組み立てた。


 一つ目、マイクロカセットの原本と、取り込んだ音声データ、それと取込工程の記録。提出者は環である。


 二つ目、1999年6月26日の修正前香盤表の複写。出所は局の火災報告の束で、閲覧と複写の申請票が付いている。


 三つ目、6月22日付の立替精算の複写。6月11日購入の領収書が添付されている。


 四つ目、衣装合わせの写真の複写。写真には、環の署名した使用条件の紙が添えてある。


 五つ目、未編集素材のうち、画面の外へ渡す動作が写っている四件と、第二話の食卓の円形痕。瀬尾が処理の記録を付けた。


 六つ目、1964年の確認申請図と1986年の増築図の差分、それと1986年の工事の数量表と写真簿冊の複写。


 七つ目、社内聞き取りの記録。黒瀬本人の同意があり、読み上げて確認したところまで入っている。


 黒瀬へは昨日のうちに連絡した。提出する旨と、提出先を書いた。


 返事は来ていない。


 美里は七つを番号順に並べ、目録を作った。


 目録には、それぞれの出所と、誰から受け取ったかを書いた。


 書けない欄はない。


 鞄の中に、もう一つある。


 字幕十二本の一覧である。


 話数、番組内タイムコード、台詞、劇中での位置。


 一週間前まで、この一覧が机のいちばん手前にあった。


 美里はそれを出して、目録の外に置いた。


「これは、出しません」


「なぜですか」


 瀬尾が言った。


 会議室を出てから、初めて仕事の話をした。


「出すと、この一覧を説明することになります。説明できません。なぜ画面に出たのかを、私は一つも言えない。言えないものを七つの中へ入れると、七つ全部の見え方が変わります」


「十二本があったから、ここまで来ました」


「来ました」


「なのに、名前を載せない」


 美里は瀬尾を見た。


「載せません。調べるために使った資料を、そのまま納品物に入れるわけではありません」


「稽古のノートも入っていません」瀬尾が言った。


「日高さんのお名前を出さない約束です」美里は言った。「出すときは、もう一度ご本人に伺います。それまでは、私の作業記録の中だけです」


 瀬尾は一覧を見た。


 それから机の七つを見た。


「分かりました」


 美里は返事をしなかった。


「今度は、本当に分かりました」瀬尾は言った。「別の場所に置きます。事件資料の保管領域。権限は、いまと同じで」


「お願いします」


 環が七つの束へ手を伸ばした。


 一つ目の位置を、机の縁と平行になるように直した。


 それだけして、手を戻した。


「これで、警察は動きますか」


「分かりません」美里は言った。「動くとしても、今日ではないと思います。私に言えるのは、二十七年前に出さなかったものが、今日そろったということまでです」


「そろえたのは、あなたです」


 環は美里を見た。


 美里はすぐに否定しようとして、やめた。


「私も、そろえました」


 環の眉が少し動いた。


「でも、私一人ではありません。江波さんがテープを残していました。稽古のノートを出してくださった方がいます。瀬尾さんと、施設の大浦さんと、黒瀬さん。二十七年前に鉛筆で名前を書き足した人と、伝票に署名した人も入ります。その二人が誰かは、片方しか分かりません」


 環は少し黙った。


「私も、入るんですね」


「入ります」


 美里は一つ目の紙箱を見た。


「一つ目は、江波さんが二十七年持っていたものです」


 環は紙箱に触れた。


「そうですね」


 それだけ言った。


*


 13時前に、汐江中央署へ移った。


 署は旧局舎から車で十分の場所にある。


 二十七年前、この建物から捜索が始まって、送迎の経路と駅と河川敷へ広がっていった。


 受付で番号札を取って、待った。


 三人とも何も話さなかった。


 天井の蛍光灯が一本だけ点滅していて、そのたびに床の色が変わる。


 環は膝の上に布の袋を置いて、両手を上に載せていた。


 瀬尾は壁の掲示物を見ていた。


 美里は番号札を何度も裏返した。


「小峰さん」


 瀬尾が小さく呼んだ。


「はい」


「今朝のことは、まだ腹が立っています」


「はい」


「でも、ここには来ました」


「はい」


「それだけ、先に言っておきます」


 美里は番号札を裏返す手を止めた。


「ありがとうございます」


「謝るよりは、そっちのほうがいいです」


 環が二人を見た。


「喧嘩なさったんですか」


 美里と瀬尾が同時に黙った。


 環はほんの少し口元を緩めた。


「仕事の人も、喧嘩するんですね」


「します」瀬尾が言った。


 美里は一拍遅れて、うなずいた。


 名前が呼ばれた。


 美里は目録を持って立った。


 立ち上がってから、今日の午前に自分が何をしたかを、初めてまとめて考えた。


 承認を断った。


 責任者の登用が白紙になった。


 会社が違約の側に立った。


 瀬尾を傷つけた。


 字幕の仕事は、今日で手を離れる。


 どれも、六月の終わりの自分なら選ばなかった。


 あのときの自分は、出典のない一行を消して、備考にも書かずに帰った。


 あの日の判断を、いまも間違いだとは思っていない。


 ただ、あのときと同じ手つきで今日も帰ることは、もうできない。


 鞄は、来たときより軽い。

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