名前を載せない
7月17日は、朝から晴れていた。
編集室に入ったのは7時前である。窓のない部屋なので、外の天気は関係ない。それでも、来る途中で日が差していたことを、美里は覚えていた。朝から日が差しているのは、久しぶりだった。
最終の検査は二時間かかる。
八話ぶんの映像と、八話ぶんの字幕と、それを結ぶ表の照合である。
美里は上から順に走らせた。
映像の欠落、なし。
音声チャンネルの構成、全話一致。
字幕の表示時間の重なり、なし。
一行あたりの文字数、規定内。
環境音の注記、全話そろっている。
素材IDと編集決定表のカットIDの対応、全件一致。
項目は四十七ある。
四十七とも、右端の欄が緑になった。
美里はその画面を、しばらく見ていた。
欠陥はない。
八年やってきて、これだけ何も出ない検査はそう多くない。出ないように作ったからである。
この案件が始まったころなら、この画面で仕事が終わった。
終わったことにして、駅まで歩いて、明日の順番を頭の中で並べた。
今日は、並べる先がない。
瀬尾が9時前に来た。
上着を椅子の背に掛けて、隣の席で自分の担当の確認を始めた。修復映像の最終出力である。
「こちらも問題ありません」
「ありがとうございます」
「色も、粒子も、全話そろっています」
「はい」
瀬尾は返事を待つように少しだけ手を止めた。
「11時ですね」
「11時です」
「何かありますか」
美里の指がキーボードの上で止まった。
「何がですか」
「今日の会議で」
「最終確認です」
「それは知っています」
瀬尾は画面から目を離さなかった。
「小峰さん、昨日から、聞いていないことがある顔をしています」
「顔で判断しないでください」
「では、聞きます。何かありますか」
美里は、ない、と言おうとした。
言えなかった。
「会議で話します」
瀬尾の手が止まった。
「僕も会議に出ます」
「はい」
「そこで初めて聞くんですか」
美里は答えなかった。
瀬尾が初めてこちらを見た。
「分かりました」
それだけだった。
美里は検査結果を書き出して、品質管理報告の様式に貼った。
様式は決まっている。工程、実施日、実施者、判定、備考。
判定の欄に、合格と入る。自動で入る欄なので、こちらが打つところではない。
美里はその欄を見て、備考の欄へ移った。
台本との差が三十一件あること。差の理由を一件ずつ別表に付けたこと。第一話の00:06:14で、台本の「まだ乾いてない」を放送音の「まだ乾かない」で採ったこと。
全部、字幕の話である。
備考の欄に書けるのは、字幕の話までである。
美里はもう一つの文書を開いた。
昨夜のうちに作ったもので、様式はない。
表題だけ入れてある。
1999年の出演者記録に関する確認事項。
中身は五項目である。
20センチの布靴の立替精算。
衣装合わせの写真。
修正前香盤表の鉛筆追記。
18時07分の録音。
社内聞き取りの記録。
それぞれに、日付と、出所と、確認した方法が書いてある。
この文書は、品質管理報告の一部ではない。
付けるところがない。
付けるところがないものを、今日持っていく。
美里は印刷した。
プリンターが動き始めたとき、瀬尾が立ち上がった。
美里は反射的に印刷口の前へ立った。
瀬尾の足が止まった。
二人とも、その動きに気づいた。
「そこまでしますか」瀬尾が言った。
美里は一歩どいた。
「すみません」
「謝るなら、見せてください」
「会議で話します」
「僕に先に言うと、何か困りますか」
美里は紙を取った。
「困ります」
瀬尾の眉が動いた。
「どう困るんですか」
「瀬尾さんが、自分の仕事の話だと思うからです」
「僕の仕事でもあるでしょう」
「だからです」
美里は紙を鞄へ入れた。
「言えば、止めるか、一緒に来るか、どちらかを選ぶでしょう」
「どちらも嫌ですか」
「選ばせたくありません」
「またですか」
美里は顔を上げた。
「この前の車の中でも、僕に選ばせないようにして、責任者判断で押しました」
「その言葉は取り消しました」
「言葉は」
瀬尾はそこまで言って、自分で止めた。
「分かりました。会議で聞きます」
今度の分かりましたは、距離を取る音だった。
*
新局舎の会議室は、三階の中央にある。
局が用意した部屋で、机が長い。
井沢は先に来ていた。
今日は画面ではなく、実物である。6月29日に会って以来、顔を合わせるのは十八日ぶりだった。同じ紺のジャケットに、踵の低い靴。鞄から端末を出して、机に置いている。
宮下は美里の隣に座った。
汐江テレビからは、権利担当が一人来ている。
「では、最終品質確認を始めます」井沢が言った。「工程の報告からお願いします」
瀬尾が修復映像の説明をした。
十二分かかった。
説明のあいだ、井沢は一度も口を挟まなかった。
瀬尾も、必要なこと以外は言わなかった。
次が美里である。
美里は検査結果の一覧を配った。四十七項目が並んでいて、右端が全部緑になっている。
「字幕は八話ぶん、全項目が基準内です。台本との差が三十一件ありますが、理由を別表に付けています」
「拝見しました」井沢は言った。「技術面での指摘はありません。予定どおり、13時に納品判断へ入ります」
美里は「はい」と言わなかった。
宮下が横を見た。
瀬尾は見なかった。
「その前に、一つ申し上げます」
井沢の指が端末の縁で止まった。
「どうぞ」
「最終品質承認に、私は署名しません」
瀬尾がこちらを向いた。
宮下も向いた。
権利担当の男は、手にしていた別表を途中でめくるのを止めた。
井沢だけが動かなかった。
「理由をうかがってよろしいですか」
声はいつもと同じだった。
だから、美里はかえって緊張した。
「ファイルに欠陥はありません。いま配ったとおりです」
「では、何に署名できないんですか、小峰責任者」
呼び方が変わった。
美里は喉の奥が少し乾くのを感じた。
「この作品の記録です」
鞄から昨夜の文書を出した。
瀬尾の前にも置いた。
瀬尾はすぐには触れなかった。
「1999年6月の『雨の家』の撮影に、当時9歳の子供が参加していました。正式な出演者名簿、完成版の香盤表、給与記録には載っていません」
美里は一度止まった。
「載せられなかった、という言い方のほうが正確です」
井沢が紙を見た。
初めてだった。
「確認できた資料が五つあります。日付と出所は、そこに書いてあります」
権利担当の男が紙を手に取った。
「その子供は、1999年6月26日の夕方以降も局内にいました。火災当日の点呼では数えられていません。それと、削除前の稿に、その子が演じる役があります。局の移転資料庫にある稿で、7月6日に閲覧しています」
「その話は、今日の議題ですか」井沢が言った。
「議題ではありません」
「では、契約上の何ですか」
質問が一段短くなった。
「契約上の項目ではありません」
「小峰責任者」
井沢は机の上の品質管理報告を指した。
「あなたが今日承認するのは、修復映像と日本語アクセシビリティ字幕です。出演者記録ではありません」
「分かっています」
「分かっていて、止める」
「はい」
井沢は一度、息を吐いた。
「では、理由を契約の言葉ではなく、あなたの言葉で説明してください」
美里は予想していなかった。
いつもなら、井沢は契約へ戻す。
「私は」
そこで止まった。
品質管理責任者として、と言えばまた役職の言葉になる。
「私は、この作品の記録に、事実と違うところがあることを知りました」
井沢は何も言わない。
「知ったうえで、これで完成です、と名前を書くことができません」
「技術的には完成している」
「しています」
「字幕も正しい」
「正しいです」
「修復映像も」
「正しいです」
「それでも署名しない」
「はい」
井沢は背もたれへ一度も寄りかからなかった。
「分かりました」
美里は少し驚いた。
「ただし、分かったとは言いました。認めたとは言っていません」井沢は言った。「弊社が発注している範囲に、1999年の出演者名簿の正確性は含まれません。対象外の事実を理由に対象内の承認を止めれば、契約上は納品遅延です」
「はい」
「違約が発生する可能性があります」
「はい」
「御社の責任になります」
美里が答える前に、宮下が言った。
「小峰」
低い声だった。
美里は横を向いた。
「今朝の時点で決めていたのか」
「はい」
「俺には言わなかったな」
「はい」
「瀬尾にも?」
美里は瀬尾を見た。
「言っていません」
宮下は一度、目を閉じた。
「そういうことを一人で決めるために責任者にしたわけじゃない」
美里の胸が縮んだ。
「申し訳ありません」
「謝るのは後でいい」
宮下は井沢のほうを向いた。
「弊社としては、本日の期日までに納品できません」
美里は宮下を見た。
「部長」
「黙ってろ」
初めてだった。
宮下は声を荒げてはいない。ただ、美里へ説明する余裕を切った。
「担当者を替えて署名させることは、しません。品質管理の署名は、実務を見た者がするものです。見た者が署名できないと言っているのに、見ていない者へ回すのは、うちの仕事のやり方ではありません」
「契約の扱いは」井沢が訊いた。
「私が窓口になります。遅延の責任、違約の扱い、費用の負担。会社の話は全部こちらで受けます」
「小峰責任者の扱いは」
「この案件については、本人の希望を聞きます」
宮下は一度、美里を見た。
「責任者としての登用は、いったん白紙だ」
美里はうなずいた。
覚悟していたはずだった。
言葉として聞くと、胃のあたりが冷えた。
瀬尾が机の下で足を動かした音がした。
美里はそちらを見なかった。
井沢は端末に手を伸ばした。画面を見て、何かを確かめ、それから蓋を閉じた。閉じてから、机の上で少し押した。手元から遠ざける置き方だった。
「小峰責任者」
「はい」
「6月29日に、私は、配信の可否は私です、契約の解除も私です、と申し上げました」
「うかがいました」
「そこは変わっていません」
井沢は初めて、美里ではなく五項目の文書を見た。
「ただ、今日の判断は、こちらの材料が足りません。持ち帰ります」
「13時の納品判断は」
「本日は行いません。社内会議を今日中に入れます」
権利担当の男が紙をもう一度めくった。
「これは、うちにも出るということですか」
「11時30分に、正式にお出しします。同じものを、汐江中央署にも出します。昨日、担当の方に時間をいただいています」
部屋の中で、紙の音だけがした。
瀬尾は何も言わなかった。
最初にこちらを向いたあと、会議のあいだ一度も目を合わせなかった。
*
廊下へ出ると、瀬尾が先に歩いた。
「瀬尾さん」
止まらなかった。
「瀬尾さん」
今度は止まった。
「何ですか」
「言わなかったことは、謝ります」
「何に対してですか」
美里は答えに詰まった。
「僕が怒っているから?」
「怒っていますか」
「今それを聞きますか」
美里は黙った。
瀬尾は眼鏡を外さず、指で位置だけ直した。
「今朝、聞きました。何かありますかって」
「はい」
「会議で話す、と言いました」
「はい」
「僕が何かを選ぶと、小峰さんが楽になるから、選ばせたくないと言いましたよね」
瀬尾はそこで一度言葉を切った。
「それ、僕のためではないですよね」
美里は返せなかった。
「僕に選ばれてしまうと、自分一人でやったことにならないからでしょう」
「逆です」
「何が」
「選ばれたら、私が一人でやったことじゃなくなる。それが、楽になるからです」
瀬尾の顔が少し変わった。
「……そこまで分かってて、黙ったんですか」
「はい」
「それは、余計に腹が立ちますね」
「すみません」
「今日は、その謝り方は受け取りません」
瀬尾は歩き出した。
美里も後ろを歩いた。
関係が壊れたとは思わなかった。
ただ、前と同じではない。
それを修復するのは、自分の仕事ではなく、自分たちの仕事だと思った。
*
11時30分に、局の別の部屋で提出をした。
環は11時に着いていた。紺のワンピースに薄い上着を着ている。手には、事務用の紙箱を入れた布の袋を持っていた。
「お待たせしました」美里は言った。
「いえ」環は言った。「私は、待つのは慣れています」
その言葉に、美里は何も返さなかった。
提出の束は、机の上で組み立てた。
一つ目、マイクロカセットの原本と、取り込んだ音声データ、それと取込工程の記録。提出者は環である。
二つ目、1999年6月26日の修正前香盤表の複写。出所は局の火災報告の束で、閲覧と複写の申請票が付いている。
三つ目、6月22日付の立替精算の複写。6月11日購入の領収書が添付されている。
四つ目、衣装合わせの写真の複写。写真には、環の署名した使用条件の紙が添えてある。
五つ目、未編集素材のうち、画面の外へ渡す動作が写っている四件と、第二話の食卓の円形痕。瀬尾が処理の記録を付けた。
六つ目、1964年の確認申請図と1986年の増築図の差分、それと1986年の工事の数量表と写真簿冊の複写。
七つ目、社内聞き取りの記録。黒瀬本人の同意があり、読み上げて確認したところまで入っている。
黒瀬へは昨日のうちに連絡した。提出する旨と、提出先を書いた。
返事は来ていない。
美里は七つを番号順に並べ、目録を作った。
目録には、それぞれの出所と、誰から受け取ったかを書いた。
書けない欄はない。
鞄の中に、もう一つある。
字幕十二本の一覧である。
話数、番組内タイムコード、台詞、劇中での位置。
一週間前まで、この一覧が机のいちばん手前にあった。
美里はそれを出して、目録の外に置いた。
「これは、出しません」
「なぜですか」
瀬尾が言った。
会議室を出てから、初めて仕事の話をした。
「出すと、この一覧を説明することになります。説明できません。なぜ画面に出たのかを、私は一つも言えない。言えないものを七つの中へ入れると、七つ全部の見え方が変わります」
「十二本があったから、ここまで来ました」
「来ました」
「なのに、名前を載せない」
美里は瀬尾を見た。
「載せません。調べるために使った資料を、そのまま納品物に入れるわけではありません」
「稽古のノートも入っていません」瀬尾が言った。
「日高さんのお名前を出さない約束です」美里は言った。「出すときは、もう一度ご本人に伺います。それまでは、私の作業記録の中だけです」
瀬尾は一覧を見た。
それから机の七つを見た。
「分かりました」
美里は返事をしなかった。
「今度は、本当に分かりました」瀬尾は言った。「別の場所に置きます。事件資料の保管領域。権限は、いまと同じで」
「お願いします」
環が七つの束へ手を伸ばした。
一つ目の位置を、机の縁と平行になるように直した。
それだけして、手を戻した。
「これで、警察は動きますか」
「分かりません」美里は言った。「動くとしても、今日ではないと思います。私に言えるのは、二十七年前に出さなかったものが、今日そろったということまでです」
「そろえたのは、あなたです」
環は美里を見た。
美里はすぐに否定しようとして、やめた。
「私も、そろえました」
環の眉が少し動いた。
「でも、私一人ではありません。江波さんがテープを残していました。稽古のノートを出してくださった方がいます。瀬尾さんと、施設の大浦さんと、黒瀬さん。二十七年前に鉛筆で名前を書き足した人と、伝票に署名した人も入ります。その二人が誰かは、片方しか分かりません」
環は少し黙った。
「私も、入るんですね」
「入ります」
美里は一つ目の紙箱を見た。
「一つ目は、江波さんが二十七年持っていたものです」
環は紙箱に触れた。
「そうですね」
それだけ言った。
*
13時前に、汐江中央署へ移った。
署は旧局舎から車で十分の場所にある。
二十七年前、この建物から捜索が始まって、送迎の経路と駅と河川敷へ広がっていった。
受付で番号札を取って、待った。
三人とも何も話さなかった。
天井の蛍光灯が一本だけ点滅していて、そのたびに床の色が変わる。
環は膝の上に布の袋を置いて、両手を上に載せていた。
瀬尾は壁の掲示物を見ていた。
美里は番号札を何度も裏返した。
「小峰さん」
瀬尾が小さく呼んだ。
「はい」
「今朝のことは、まだ腹が立っています」
「はい」
「でも、ここには来ました」
「はい」
「それだけ、先に言っておきます」
美里は番号札を裏返す手を止めた。
「ありがとうございます」
「謝るよりは、そっちのほうがいいです」
環が二人を見た。
「喧嘩なさったんですか」
美里と瀬尾が同時に黙った。
環はほんの少し口元を緩めた。
「仕事の人も、喧嘩するんですね」
「します」瀬尾が言った。
美里は一拍遅れて、うなずいた。
名前が呼ばれた。
美里は目録を持って立った。
立ち上がってから、今日の午前に自分が何をしたかを、初めてまとめて考えた。
承認を断った。
責任者の登用が白紙になった。
会社が違約の側に立った。
瀬尾を傷つけた。
字幕の仕事は、今日で手を離れる。
どれも、六月の終わりの自分なら選ばなかった。
あのときの自分は、出典のない一行を消して、備考にも書かずに帰った。
あの日の判断を、いまも間違いだとは思っていない。
ただ、あのときと同じ手つきで今日も帰ることは、もうできない。
鞄は、来たときより軽い。




