完成版
書面は昨夜のうちに出した。宛先は三つである。汐江テレビの施設管理部、ノードラインの井沢、それと自社の制作部長。制作部長の宮下からは、朝いちばんに一行だけ返事が来ていた。会議には出る、とある。
オンライン会議は10時に始まった。画面は六分割で、上の段に美里と瀬尾と宮下、下の段に井沢と、汐江テレビの二人が並んでいる。大浦と、その上の施設管理部長である。部長は堀内と名乗った。
美里は共有画面に、資料を三枚出した。読み上げる順番は、昨夜のうちに決めてある。
「1964年の確認申請図の断面です。旧第二スタジオの北西部の床下に、高さ900、幅1200、長さ8000のケーブル保守層があります」美里は言った。「1986年の増築図では、同じ場所が床になっています。欄外に、埋戻し済みとあります」
美里は三枚目を出した。表の縦が長いので、上の三分の一だけを拡大した。
「1986年の工事の数量表です。既存開口部閉塞が0.8立方メートル。埋戻しの項目はありません。埋め戻すには8.64立方メートル要ります」
「工事写真も見ました」大浦が言った。「西の端を塞ぐ写真だけです。床の工事は写っていません」
堀内は少しのあいだ黙っていた。画面の中で、手元の何かを見ている顔だった。
「つまり、床下が残っているかもしれない、ということですね」
「可能性はあります。ただ、まだそれだけです」美里は言った。「残っていないかもしれません。ただ、残っていないという記録も、いまのところありません」
「残っていたとして、それが何になりますか」
美里は次の資料へ移った。三枚目までは建物の話である。ここから先は、人の話になる。
「1999年6月26日の香盤表の現場用複写に、鉛筆で追記があります。出演の欄に千尋、待機の欄に階段裏。階段裏というのは、家屋セットの階段背面とスタジオ西壁のあいだの、幅75センチの隙間です」美里は言った。「1964年の図では、その隙間の真下に、600角の点検蓋があります」
「それは、あの子がそこへ入ったという意味ですか」
「そうは申し上げていません」美里は言った。「19時48分に火災が起きて、19時51分に避難が始まっています。集合地点の点呼で、千尋さんは数えられていません。階段裏から南東の出口までは、セットを回り込む道しかありません。火元は西壁沿いです」
堀内は資料を見ていた。画面の中で、視線が下を向いている。
「お話は分かりました」堀内は言った。「ただ、これは全部、紙の話ですね」
「紙の話です」
「土地はもう売れています。引渡しの期日があって、そこから逆算して工事の日程が決まっています」堀内は言った。「止めるとなると、うちが違約になります。相手方にも、業者にも」
「止めていただきたいのは、旧第二スタジオの西側だけです」美里は言った。「全体の工程を止めてくださいとは申し上げていません」
「除去はいちばん西からです。順番を入れ替えると、囲いから作り直しになります」大浦が言った。言ってから、堀内のほうを見た。
誰も、しばらく何も言わなかった。回線の向こうで、椅子の動く音が一度した。
「井沢さん」堀内が言った。「御社のご意見はいかがですか」
井沢の画面が少し動いた。カメラの位置を直したのだと分かった。
「弊社は、この土地の関係者ではありません」井沢は言った。「工事の日程について、意見を申し上げる立場にありません」
「そうですね」
「弊社の関心は、7月17日の納品と、8月14日の配信です」井沢は言った。「その二つについては、予定どおり進めていただく前提で用意しています」
「小峰さんの書面は、御社にも出ていますね」
「出ています」井沢は言った。「読みました」
美里は画面の井沢を見た。背景はいつもの白い壁ではない。汐江のホテルらしい部屋だった。すでに市内へ入っているのだろう。
「読んで、どう思われましたか」美里は訊いた。
井沢は答えるまでに一拍あった。一拍は、この人にしては長い。
「私の意見は、判断材料にはなりません」井沢は言った。「弊社が動かせるのは、弊社の契約の中だけです。この件は、その外にあります」
「外にありますね」美里は言った。
堀内が咳払いをした。会議の終わりに使う種類の咳払いだった。
「社内で扱いを検討します」堀内は言った。「ただ、今日明日の話にはなりません。工事の契約は複数の部署にまたがりますので」
「解体の着手は25日です」美里は言った。「九日です」
「承知しています」堀内は言った。「検討の結果は、決まりしだいお知らせします」
会議は10時40分に終わった。美里は共有画面を閉じた。閉じたつもりだったが、画面の右下に、共有していた資料の最後の一枚だけが残っている。工事日程の掲示の写真だった。着手予定、令和八年七月二十五日。
美里はもう一度、閉じる操作をした。今度は消えた。
*
午後、美里は完成版の作業に入った。契約の納品物は四点である。修復映像、日本語アクセシビリティ字幕、品質管理報告、権利・素材一覧。このうち字幕は、美里が最終品質承認をする。
字幕データには、いま十二本の字幕が残っている。話者名はミオ。十二本のうち十一本は、1999年の劇中台詞と確認できている。残る一本は出所未確定である。どの行にも、現在の正式な字幕として採用された記録はなく、対応する音声もない。2026年の字幕制作工程で、誰かが入力した履歴もない。
十一本については「何の台詞か」が分かった。ただし、残る一本の出所も、「なぜこの字幕データに入っているか」も分からない。このままでは、十二本とも納品用の字幕にはできない。
「保存を先にしてください」瀬尾が言った。
「します」美里は言った。「削除する前に、十二本を含む版を、事件資料の保管領域へ入れます。閲覧権限は、江波さんのテープと同じにします」
「僕と、小峰さんと、江波さん」
「それと、警察へ出す場合の手続きを、権限欄に書いておきます」美里は言った。「出すかどうかは、まだ決まっていません」
瀬尾は保存の作業を先にやった。二十分かかった。終わってから、椅子を回して、こちらを向いた。
「削除は、僕がやりましょうか」
「いえ」美里は言った。「私です」
「小峰さんは、6月29日に一本消しています」
「消しました」
「あのときは、出典が分からないから消したんですよね」瀬尾は言った。「今日は、十一本まで出典が分かっています」
美里は画面を見たまま、少し考えた。
「出典が分かった十一本も、納品物には入れられません」美里は言った。「1999年の作品の字幕として、劇中人物ミオの台詞を入れることはできます。ただ、その場合は、ミオという役があったことを、作品の正式な記録へ戻す判断まで含みます」
「役はありました」
「ありました」美里は言った。「でも、私の承認権は、今回作る字幕が確認できる内容になっているかを決めるところまでです。二十七年前の出演者記録を直す権限はありません。そこを私が字幕だけで先に変えたら、今度は2026年の私が記録を作ることになります」
瀬尾は画面を見た。
「局が、公式記録を直す必要がある」
「はい。その判断より先に、私が納品版へ入れることはできません」
「根拠が出るまで、待てませんか」
「納品は明日です」
瀬尾は何も言わなかった。反論しないことと、納得することは違う。それも分かっている。
美里は削除の操作画面を出した。十二行を選んで、一括ではなく一本ずつにした。一本ごとに確認が出て、処理を待つ時間が二秒ほどある。二秒のあいだ、美里は画面から目を離さなかった。
一本目、第一話00:08:42。確認、実行。行が消えて、表の下の行が一つ詰まる。二本目、第一話00:21:16。三本目、第二話00:14:03。四本目、五本目、六本目と続く。
七本目は、第五話00:23:05である。名前を消したら、私も帰れなくなる、という行だった。美里はその二秒を、数えた。
八本目、第六話00:07:32。四行を並べて環の家へ持っていった、あの一本である。劇中では、芙美子の台詞と杏の台詞のあいだに置かれている。真ん中だけを抜いて、母への告発として読んだ。読んだのは自分である。
消えた。
九本目、十本目、十一本目。十二本目は、第八話00:25:11。ちゃんと数えて。私を入れて。
確認の表示が出た。美里は押した。進捗の表示が最後まで埋まって、消えた。
字幕の表は、上から下まで、現在の納品根拠がある行だけになった。一行ごとに、音声があり、話者があり、台本の対応があり、作業者の名前がある。
美里は検査を走らせた。表示時間の重なり、なし。文字数の超過、なし。環境音の注記、漏れなし。全部の項目が緑になった。
正しいファイルである。
*
瀬尾が帰ったのは22時過ぎだった。美里は編集室に残って、最後の確認をしていた。データの構成、フォルダの名前、番号の付け方。明日の朝に渡す形へ整えていく。
クレジットの画面を開いた。作品の頭に、1999年のクレジットがそのまま入る。制作、脚本、演出、出演。出演の欄には、七人の大人と、三人の子役の名前がある。
その下に、2026年の作業クレジットが追加される。デジタル修復、汐江映像アーカイブ株式会社。修復技師、瀬尾直哉。日本語アクセシビリティ字幕、小峰美里。品質管理、小峰美里。
美里は自分の名前を見た。同じ字が二回出ている。1999年の欄には、千尋の名前がない。
準備稿にはミオがいる。菜緒のノートにもいる。衣装合わせの写真があり、20センチの布靴の伝票があり、現場用香盤表には千尋と書かれている。
それでも、美里が自分の権限だけで1999年の出演者欄へ名前を足すことはできない。資料があることと、誰が正式記録を訂正できるかは別の問題である。
美里は椅子の背に寄りかからないまま、画面を見ていた。
1999年に、誰かが出演者の欄からミオを外した。撮影は済んでいて、映像もあって、台詞もあった。それでも、名簿に入れていなかったので、外すのに書類は要らなかった。
2026年に、自分が字幕から十二行を外した。理由は違う。今回は、削除前の版も、削除した者の名前も、残す。
それでも、明日納品される作品だけを見れば、ミオはいない。
美里は、それを今日、自分の手で確定させた。確定させたものに、自分の名前が二回入る。名前が読めるのは、自分の分だけである。
画面の光が、机の上を白くしていた。
止めるものが何もない。契約は生きている。工程は動いている。納品は明日で、配信は8月14日で、解体は7月25日である。どれも、誰かが決めた日付で、決めた人はもういない書類の中にいる。
美里は保存を実行した。完成版が確定した。作業記録に、時刻が入る。7月16日23時41分。
備考の欄が空いている。美里はそこに、一行だけ書いた。
字幕十二本は削除。削除前の版は事件資料として別保管。削除の判断は小峰による。
書いてから、消さなかった。誰かがあとで開いたときに、この十二行を消したのが誰かは分かる。分かるように書いた。
書いても、行は戻らない。




