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字幕にだけいる  作者: 卓哉
第四部 画面外の位置

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20/24

埋戻し済み

 汐江市の建築資料室は、市役所の別館の地下にある。階段を下りると、紙と接着剤の匂いがした。窓がないので、時刻の見当がつかない。


 地下へ一段降りるごとに、外の車の音が薄くなった。受付の前まで来ると、聞こえるのは換気扇と、どこかで紙をめくる音だけだった。


 受付で用途を書いて、簿冊の番号を伝える。1964年の確認申請は原本ではなく副本で、簿冊にまとめて綴じられていた。閲覧は机の上だけ、複写は申請制、鉛筆以外は持ち込めない。


 ボールペンを鞄へ戻して、美里は消しゴム付きの鉛筆を借りた。普段なら訂正の履歴が残らない筆記具は避ける。その鉛筆しか使えない場所で、今日は消えた空間を探す。


 簿冊は厚さが10センチある。表紙に手書きで、汐江テレビジョン放送 局舎 昭和三十九年、とあった。綴じ紐が一度切れて、結び直してある。机へ置くと、紙の重みで小さく音がした。


「図面の記号が違います」瀬尾が言った。


「違いますね」


 いま見慣れている図面は、線の太さで壁と設備を分ける。1964年の図は、線種と記号で分けてあった。設備は別冊で、電気と給排水がさらに分かれている。


 美里は建築の分冊を先に見た。平面図の第二スタジオは、いまの割り付け図と外形が同じである。柱の位置も同じだった。違うのは、床の記号が二種類あることだった。


「この網掛けは」


「たぶん、床の高さが違うところです」瀬尾は言った。「凡例が最初のページにあるはずです」


 美里は最初のページへ戻った。紙が厚く、頁を返すたびに綴じ紐が少し鳴った。凡例は小さい字で二十行ほど並んでいる。網掛けの欄に、点検口ありと書いてあった。


 美里は電気の分冊を出した。配線の系統図がある。スタジオの照明と、音声と、局内の連絡回線。線が束になって、スタジオの北西部から西へ延びていた。


 束が壁の中へ入るのではなく、床の下へ落ちている。落ちた先に、もう一枚の図が参照されていた。図面番号だけが小さく書いてある。


 美里はその番号の頁を繰った。断面図が一枚あった。


 美里は図面を広げようとして、折り目のところで止めた。青焼きは折り目が擦れて、線が切れている。紙そのものも硬くなっていて、平らにしようとすると戻ろうとする。


 瀬尾が反対側を指先で押さえた。美里は切れている線を、鉛筆でなぞらずに、目で繋いだ。


 断面である。床がある。


 床の下に、四角い空間が描いてある。


 寸法が入っていた。高さ900、幅1200。


 美里は数字だけを一度読んで、それから机の高さを見た。90センチなら、この机と大きく変わらない。人が立てる高さではない。膝をつくか、腰を折って進む高さである。幅1.2メートルなら、一人が横になれるくらいはあるが、二人が並んで作業するには狭い。


「ケーブル保守層」美里は読んだ。


 断面の横に、平面が添えてある。保守層は北西部から西へまっすぐ延びて、外壁の手前で終わっていた。長さの記載は8000である。


「8メートル」瀬尾が言った。


 90センチの高さのまま、8メートル続く。


 美里は図面の線を目で端までたどった。机の上では、十数センチしかない。その短い線の中を、人なら何度も身体の向きを変えながら進むことになる。


「入口は」


 美里は平面をたどった。北西の端に、四角い記号がある。凡例で確かめると、点検蓋だった。寸法は600角。深さの欄に、1100と入っている。


 60センチ四方の蓋を開けて、1.1メートル下へ降りる。その先に、高さ90センチの空間が8メートル延びている。


 数字を一つずつ読むより、その順番で考えたほうが、急に狭く感じた。


 美里は自分の手帳を開いた。六日前に書いた数字がある。セットの階段の背面と、スタジオの西の壁の間、75センチ。


 美里は1964年の平面に、その位置を重ねた。重ねるまでもなかった。点検蓋の記号は、階段の背面と壁のあいだの、ちょうど真ん中にある。60センチ角の蓋は、75センチの隙間に収まる。


 美里はしばらく、その四角を見ていた。見ているあいだ、鉛筆を持ったまま、紙には触れなかった。


 図面の中では、小さい正方形である。現場で測った75センチの狭さを知ってから見ると、その正方形だけが床の一部ではなく、開くものに見えた。


「1986年の図では、ここは床です」瀬尾は言った。「私たちが局から借りた図面には、何もありません」


「1986年の図を、もう一度見ます」美里は言った。「見るのは、床の絵ではなく、工事のほうです」


 美里は複写の申請票を書いた。建築の平面、電気の系統図、断面と平面の三枚。理由の欄に、旧局舎の床下構造の確認、と書いた。


 書ける範囲である。ただ、今日は、書ける範囲がいつもより広かった。


*


 新局舎の施設資料席は、三階の隅にある。閲覧の机が二つと、書棚が並んでいるだけの場所だった。地下の資料室から来ると、窓から入る昼の光が妙に明るかった。


 大浦は昼の休みを削って出てきた。ネクタイをしていない。


「1986年の増築の図面と、工事の記録です」美里は言った。「同じ工事番号のものを、一式でお願いできますか」


「増築のときの図面でしたら、施設のほうにあります」大浦は言った。「工事記録は、写真の簿冊が残っていると思います。全部あるかどうかは分かりません」


 図面が先に出た。1986年の平面図である。第二スタジオの北西部は、床として塗り潰されていた。網掛けもない。点検口の記号もない。ただの床である。


 欄外に、注記が二行あった。


 既存ケーブルピット、使用停止。埋戻し済み。


「埋め戻したと書いてありますね」大浦は言った。


「書いてあります」美里は言った。


 美里は1964年の断面の複写を横に置いた。同じ場所の、同じ縮尺である。片方には高さ900の空間があり、片方にはない。


 二枚の紙のあいだは3センチも離れていない。3センチ移動すると、8メートルの空間がなくなる。


「工事の記録を見せていただけますか」


 写真の簿冊は、ビニールの台紙にネガの袋と焼き付けが一緒に入っているものだった。頁ごとに工事番号と日付が入っている。ビニールが古くなって少し曇り、頁をめくると静電気で指にまとわりついた。


 美里は該当する工事番号の頁を開いた。十四枚ある。


 一枚目、西の外壁の内側。二枚目、同じ場所の下部。三枚目、型枠。四枚目、コンクリートの打設。五枚目、脱型後。六枚目、仕上げ。


 全部、同じ場所である。西の端に、開口が一つあって、それを塞いでいく作業だった。


 七枚目から十四枚目は、別の場所の工事だった。二階の壁と、配管である。


 美里は十四枚を二度見た。二度目は、日付の順に並べ替えて見た。焼き付けを一枚ずつ指で送り、同じ壁が塞がれていく順番を追った。


 順に並べても、床は出てこない。


「床がありません」


「といいますと」大浦は言った。


「埋め戻したのなら、埋める前の穴が写っているはずです」美里は言った。「掘るか、材料を入れるか、上を塞ぐか。どれかの写真が要ります。ここにあるのは、西の端の出口を塞いだ写真だけです」


 大浦は簿冊を自分のほうへ引いた。引いて、頁を戻して、また進めた。


「写真は、全部撮るわけではありませんので」


「そうだと思います」美里は言った。「ですから、写真だけでは決まりません。施工の数量表はありますか」


 大浦は少し黙って、それから席を立った。戻ってきたとき、薄い簿冊を持っていた。


 工事の数量表である。項目ごとに、数量と単位と金額が並んでいる。


 美里は項目の名前を上から追った。仮設、解体、型枠、コンクリート、左官、電気。項目は七十ほどある。


 既存開口部閉塞、コンクリート、0.8立方メートル。


 その項目はある。埋戻しの項目は、ない。もう一度、頭から見た。ない。


「既存開口部というのは」


「もとからあった開口です」大浦は言った。「さっきの写真のところでしたら、この項目になります」


「埋め戻すと、いくつぶんになりますか」瀬尾が言った。


 美里は計算した。高さ0.9、幅1.2、長さ8。8.64立方メートルである。


 0.8と、8.64。


 小数点の位置が一つ違う。


「西の端の開口だけを塞ぐなら、0.8で説明できます」美里は言った。「8メートルの空間そのものを埋めるなら、この十倍以上の材料が要ります」


 数字を声に出すと、差がさらに単純になった。一枚の写真に写っている穴を塞ぐ量と、床下の空間全部を消す量は、同じ工事として扱える大きさではない。


「数量表に出ていないものは、原則として施工していません」美里は言った。「数量表は、支払いの根拠です」


「そうなりますね」大浦は言った。


 大浦は数量表を見たまま、しばらく何も言わなかった。それから、指で「既存開口部閉塞」の行を押さえた。


「これは、私の代の仕事ではありません」


「はい」


「ただ、うちの図面にそう書いてあることは、うちの責任です」大浦は言った。「埋戻し済みと書いてあれば、次に見る人間は、埋まっていると思います。私もそう思っていました」


 美里は三枚の複写を並べた。1964年の断面。1986年の平面。数量表の頁。


 三枚を続けて見ると、一つの空間が、図面の上でだけ消えている。消えた図面のほうが新しい。新しいほうが正しいことになっている。


 美里は、二十七年前の捜索のことを考えた。消防と警察が旧局舎を見たとき、手元にあったのは1986年の図面である。図面に空間がなければ、そこを開ける理由もない。


 捜索した場所と、開けた場所は、同じではなかった。


*


 旧局舎に着いたのは15時過ぎだった。前に来たときはなかったものが、門の内側にできていた。仮囲いである。まだ全部は立っていない。西側の三分の一ほどが、鉄板の壁になっていた。


 午後の日を受けた鉄板から熱が返っていた。近くを通ると、金属と新しい養生材の匂いがする。風が吹くたび、固定途中の鉄板がどこかで一度だけ低く鳴った。


 仮囲いの角に、掲示が貼ってある。雨に濡れないよう、透明の袋に入れて留めてあった。


 解体工事のお知らせ。着手予定、令和八年七月二十五日。工期、約五か月。


 その下に、作業時間と、連絡先の電話番号が入っていた。文字は大きく、読みやすい。読ませるために貼ってあるものである。


「準備は先週から入っています」大浦は言った。「足場と養生です。中の解体は、有害物質の除去が先になりますので、7月25日は着手の日付ということになります」


「除去は、どこからですか」


「西からです」大浦は言った。「火災の損傷があるのは西側なので、そこから囲って、除去して、それから躯体です」


 美里は敷地の図面を広げた。1964年の平面に、保守層の位置を鉛筆で引いてある。


 保守層は北西部の点検蓋から西へ8メートル延びる。西の端は、外壁の内側で塞がれている。


 除去の範囲と、重なっていた。端から端まで、まるごと重なっている。


「除去の工事では、床を壊しますか」


「壊します。含有材が床の仕上げにも入っている可能性がありますので」大浦は言った。「壊して、袋詰めして、出します」


「壊した下に空間があった場合は」


「そのときは止めます。安全のためです」大浦は言った。「ただ、止めるのは作業の話です。空間の中に何があるかは、その場では分かりません。全部、瓦礫と一緒に出ることもあります」


 仮囲いの向こうから、金属を置く音がした。工事はまだ始まっていない。それでも、始めるための物はもう運び込まれている。


 美里は掲示の日付をもう一度見た。


 7月25日。今日は7月15日である。


 十日ある。


 十日のあいだに、旧局舎の所有者が判断を変えなければ、西側の床は壊される。壊れれば、その下の空間も一緒になくなる。


 中に何があるかは分からない。ないかもしれない。1999年の6月26日、階段の裏で待っていた子供が、点検蓋を開けて下へ降りたという記録は、どこにもない。


 ただ、南東の扉へは行けなかった。行っていれば、集合地点にいた。


 行けなかった子供の足元に、60センチ角の蓋があった。それだけは、図面から出る。


 美里は端末を出した。井沢からの通知が来ている。


 7月17日11時、最終品質確認。同日13時、納品判断。会議室は局側で確保済み。


 二日後である。件名は、日程確定、とだけ書いてあった。


 美里は画面を見ながら、自分が六月の終わりから、何のために資料を数えてきたのかを考えた。字幕を確定させて、品質管理報告を書いて、17日に納品する。それが仕事だった。いまも、それが仕事である。


 ただ、17日に納品して、25日に工事が始まれば、あとには何も残らない。作品は配信され、建物は更地になる。二十七年前に一人足りなかったことは、どこにも記録されないまま終わる。


「小峰さん」瀬尾が言った。


 美里は端末を伏せた。画面には、日程確定の四文字がまだ残っていた。


「工事を止めます」美里は言った。


 瀬尾は何も言わなかった。言わないまま、こちらを見ていた。


「止められるとは思っていません」美里は言った。「私に権限はありません。所有者は汐江テレビで、契約ももう結ばれています。ただ、この下に空間が残っている可能性がある。それは言えます」


「誰に言いますか」


「三つあります」美里は言った。「汐江テレビの施設。大浦さんの部署です。それから、うちの会社。それと、ノードラインです」


「井沢さんは、納品の話しかしません」


「納品の話をする人だから、日程を動かせます」美里は言った。「工事を止めるのは所有者ですが、所有者を動かすのは、この件でお金を出している側です」


 大浦が、仮囲いのほうを見ていた。鉄板の継ぎ目のところで、風の音がしている。


「書面でしたら、受け取ります」大浦は言った。「私の判断では止まりません。ただ、受け取ったものは、上へ回ります。回った先で誰が読むかは、私には分かりませんが」


「回してください」美里は言った。「今日、書きます」


 帰りの車の中で、美里は膝の上に手帳を開いた。カーブを曲がるたびに字が揺れるので、瀬尾が少し速度を落とした。


 書くことを箇条にする。図面の三枚。数量表の一行。階段裏の隙間。19時半ごろの待機指示。18時07分の録音。


 項目は五つになった。五つとも、日付と出所が書ける。最後に、こう書いた。


 旧局舎西側の床下に、埋め戻された記録のない空間が残存している可能性がある。7月25日以降の工事により、確認できなくなる。


 書いてから、その下に一行足した。


 この件は、納品物の品質に関わらない。


 書いた本人が、いちばんよく分かっていた。品質管理の報告に書く話ではない。書く欄がない。欄がないものを、それでも書いて出す。


 6月29日に、井沢から仕事の範囲を聞いた。修復映像、字幕、品質管理報告、権利・素材一覧の四点。字幕の最終品質承認は自分の署名になる。できることと、その先。あのとき手帳に書いた線は、まだそのままである。


 今日書いている書面は、線の外にある。


 車が坂を下りて、市街に入った。窓の外はまだ明るい。高台では濡れていた葉が、街へ下りると乾いて見えた。梅雨が明けかけているのだと、そこで気づいた。


 十日である。

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