階段の背面
7月9日の朝、井沢から週次の進捗報告の書式が届いていた。提出は明日の17時までとある。項目は四つで、工程、残作業、遅延要因、判断待ち事項。判断待ち事項の欄は、前の週も空欄で出した。美里はその書式を閉じて、昨夜の平面図を開いた。
四話の00:12:40で引いた三本の線は、まだ画面に残っている。残りの十本を同じ手順でやるつもりでいたが、二本目に入ったところで止まった。
三話の居間が、四話の居間と違う。障子が一枚ぶん右にある。座卓の位置も違う。柱と柱の間隔は同じなのに、部屋の形が変わっていた。
「セットは動かします」瀬尾が言った。「壁は差し込みで、抜けるようになっています。カメラを入れる側の壁を外して撮る。家具も毎回同じ場所には戻りません」
「では、二本目の平面図は、一本目の上に重ねられません」
「重ねられません。同じ部屋を描いていても、座標が別です」
美里は自分の描いた二枚の紙を並べた。どちらも八畳の居間で、どちらも正しい。正しいものが二枚あって、重ならない。
映像では同じ家に見える。視聴者には、障子が一枚ぶん動いたことも、座卓が数十センチずれたことも、ほとんど分からない。けれど、美里がいま必要としているのは、物語の中で同じ場所かどうかではなく、スタジオの床のどこだったかである。
昨夜の一本は、その一本の中でだけ成り立っていた。十一本を集めて一点に寄せるには、十一枚に共通する原点が要る。
「動かないものを探します」美里は言った。
瀬尾はモニターの前に座って、指をキーの上に置いた。それから、置いたまま動かさなかった。
「先に説明します」瀬尾は言った。「重ねる処理は、たぶん十分で終わります。ただ、何を基準にしたかが分からないまま結果だけ出ると、小峰さんが誤差の欄に書くことがなくなります」
美里は瀬尾を見た。先週なら、この人は処理を走らせながら喋っていた。走らせてから説明されると、聞くほうは結果を見ながら聞くことになる。結果を見ながら聞いた話は、記録に書くときに順番が入れ替わる。
「お願いします」
「二つあります」瀬尾はセットの割り付け図を出した。「一つは、照明の吊り位置です。天井にバトンが渡してあって、そこへ器具を吊る。バトン自体は撮影期間中は動かしません。照明記録に、どの吊点を使ったかが番号で残っています」
「画に映っていますか」
「器具は映りません。ただ、光は映ります。影の落ち方から、光源の方向と高さが出ます。二つ以上の吊点が分かれば、天井側の座標が決まります」
瀬尾は割り付け図の余白を、指の背でなぞった。
「この年代のスタジオは、電源が下から来ます」瀬尾は言った。「天井から吊るのは器具だけです。大きい電源は床で、配線ピットを切って、そこから盤へ引きます」
「図面に出ますか」
「出るはずです。設備ですから」瀬尾は施設側の図面を出して、しばらく見た。「この図には、ありません」
「これは、いつの図面ですか」
「1986年です。移転前の最新版だと聞いています」
美里はその話を、天井の座標とは別の欄へ書いた。いま調べているのは、人がどこに立っていたかである。床から電源をどう取ったかは、そこに関わらない。
「もう一つは」
「階段です」瀬尾は割り付け図の一角を指した。「二階建ての家屋セットで、階段は骨組みごと組んであります。差し込みの壁と違って、抜けません。撮影期間中、位置は変わっていないはずです」
美里は自分の紙に、その二つを書いた。天井の吊点と、階段の骨組み。どちらも、居間の中にはない。
「部屋の中で合わせようとしていました」美里は言った。「部屋が動くのなら、部屋の外で合わせます」
瀬尾は十一枚の平面図を透明な層にして、吊点二つと階段の一辺で重ねた。壁と家具はばらばらに散った。十一の居間が、薄い線になって互いを突き抜けた。障子も座卓も柱際の棚も、一枚ごとに少しずつずれる。
散ったまま、天井の丸二つと、階段の線だけが、十一枚とも同じところで揃った。
美里は一度、全部の層を消して、一本ずつ表示し直してもらった。居間は現れては形を変え、消えた。階段だけは毎回、同じ位置へ戻ってきた。
画面の中で動かなかったものを基準にすれば、俳優の視線を、撮影されたスタジオの床へ戻せる。
視線の使えるカットは十一本のうち七本だった。残りは人物が一人しか映っていないか、目だけを動かしている。七本の交点を出して、誤差の扇を足す。
六本が、半径70センチの円の中に入った。円の中心は、昨夜の一本で出した交点から20センチずれたところにある。
外れた一本は二話の食卓である。視線が低く、卓の上を向いている。近くの誰かを見ている角度だった。
「六本です」美里は言った。「昨夜の一本を入れて、七本のうち六本」
「一本では、たまたまと言われます」瀬尾は言った。「六本でも言われますか」
「言われます。でも、六本を偶然だと言うなら、今度はその根拠が要ります」
美里は結果の下に、外れた一本のことも書いた。書かないと、六本だけを選んだように見える。
層をすべて非表示にした。画面が白くなって、吊点の丸が二つと、階段の線が一本だけ残った。
*
旧局舎までは車で二十分だった。高台の途中で市街が切れて、道の両側が雑木になる。雨上がりの葉が道路へ張り出していて、車が通るたび、枝の先から水が落ちた。
着いた先の敷地は、思っていたより広い。建物は三棟あって、いちばん奥の四角い箱が旧第二スタジオだった。
窓がない。壁は打ち放しで、雨だれの跡が縦に走っている。継ぎ目のところだけ黒く濃くなって、上から下まで線になっていた。人の出入りがなくなった建物は、入口より壁の面積のほうが大きく見えた。
エンジンが止まると、雨樋から水の落ちる音が残った。遠くで車の音はするのに、敷地の中へ入ると一段遠く聞こえる。
美里は、この中に二階建ての家があったのだと思おうとして、うまくいかなかった。画面の中の家には廊下があって、雨が降っていて、笠のぶんだけ暗い居間があった。目の前にあるのは箱である。
「小峰さんですね」
門のところで待っていたのは、五十くらいの男だった。汐江テレビの施設管理で、大浦と名乗った。ヘルメットを二つ差し出してくる。
美里がかぶると、顎紐が頬に当たった。普段の仕事では身につけないものなので、首を動かすたびに帽体の重さを意識した。
「立入記録に、お名前と時刻をお願いします。退出のときにもう一度書いていただきます」
美里は書いた。用紙は複写式で、上の欄に前の日付が二つある。どちらも「外周目視」とだけ書いてあった。
「入れるのは外周と、東側の倉庫の廊下までです」大浦は言った。「第二スタジオの中心部は入れません。火災のあと、材料を囲い込む処理をしていますので、開けるには手順が要ります」
「手順というのは」
「所有者の判断と、有害物質の対策と、業者の手配です。書面で申請していただいて、こちらで検討します」大浦は言った。「ただ、解体が7月25日から始まります。それまでに全部となると、正直なところ厳しいです」
美里は日付を手帳に書いた。7月25日。今日から十六日ある。
外周を西側から回った。舗装が切れて、雑草が壁際まで来ている。濡れた土の匂いに、コンクリートが湿ったときの粉っぽい匂いが混じっていた。大浦が先に立って、壁の継ぎ目を数えながら歩いた。
「このあたりが西の外壁です。中の割り付けでいうと」
「ここから何メートル入ったところに、セットの階段がありました」美里は割り付け図を広げた。図面の縮尺と、外から測った壁の長さを合わせる。壁の厚みは図面にある。
瀬尾が巻尺の端を持った。金属の帯を引き出す音が、壁に当たって短く返った。二人で二回測って、数字を突き合わせた。
セットの階段の背面と、スタジオの西の壁の間は、75センチだった。
美里はその数字を、声に出さずに手帳へ書いた。
瀬尾が巻尺を75センチだけ出して、地面の上に水平に持った。美里はその長さの横に立った。両腕を広げるまでもない。人が一人、正面を向いていられるが、誰かとすれ違うには身体を横へ逃がす幅である。
図面で見た75センチより、狭かった。
人が一人、立てる。横を向けば通れる。座ることもできる。ただ、そこを「場所」と呼ぶには狭く、物と壁の間の余りと呼ぶには広い。
「図面には、この隙間は何と書いてありますか」
「何も書いてありません」大浦は図面を覗き込んだ。「セットは仮設なので、施設側の図面には出ません。うちの図面に載るのは、壁と柱と設備です」
大浦は図面から目を離して、壁のほうを見た。
「移転してからは、半年に一度、私が外を歩いています」大浦は言った。「目視点検です。壁の外側を一周して、記録用紙に書く」
「中は」
「入りません」大浦は言った。「入るのは、囲い込みの検査の業者だけです。私が見るのは外側だけです」
美里は、門で書いた複写式の用紙を思い出した。上の欄に前の日付が二つあって、どちらも外周目視とだけ書いてあった。あの二行は、この人が書いたものである。
「壁の向こうに何があるかは、図面で知るしかありません」大浦は言った。「図面に書いていないものは、私も知らないままです」
弁明の言い方ではなかった。自分の仕事の範囲を一つ言った、という言い方である。
「非常口は」
「南東です」大浦は敷地の反対側を指した。「そこの角を回った先になります。当時からその位置です。開口の場所は変えていません」
美里は割り付け図の上で、西壁の隙間から南東の扉まで線を引いた。まっすぐには引けなかった。二階建ての家屋セットが真ん中にあるので、回り込むことになる。
線は、家の東側を通っていた。階段の背面から南東の扉へ、まっすぐには行けない。家を回るか、家の中を抜けるかのどちらかになる。
雨が少し落ちてきた。ヘルメットの上で、小さい粒がぱらぱら鳴った。大浦が腕時計を見た。
「濡れると記録用紙が駄目になりますので」
美里はうなずいて、巻尺を巻き取った。
帰る前に、東側の倉庫の廊下だけ通らせてもらった。大浦が扉を開けると、外より冷えた空気が流れてきた。湿気のある埃と、古い塗料の匂いがした。
屋根の高いところで雨の音が響いて、同じ雨なのに外より大きく聞こえる。靴底がコンクリートを踏むたび、乾いた音が少し遅れて戻ってきた。床に古い塗装の線が残っている。黄色だったものが、ところどころ灰色へ擦れていた。
線の先は、閉じた扉で切れていた。
大浦がそこで止まり、美里と瀬尾も止まった。扉の向こうへ行かないことが、説明されなくても分かった。扉一枚を挟んだ向こう側が、さっき外から測っていた箱の中だった。
帰りに一度だけ振り返った。壁の継ぎ目の黒い線は、雨で濃くなっていた。濃くなったところだけが、上から下まで通って見えた。
*
編集室に戻って、美里は三つの資料を並べた。局の割り付け図。1999年6月の香盤表。それと、局の施設資料から出た控室の割当表である。
控室の表は移転のときに電子化されていて、日付ごとに部屋番号と使用者が並んでいた。
6月26日の行を出した。控室は四つ使われている。二階の三つが大人の俳優で、一階の一つが子役用だった。子役用の欄に、名前が三つある。
三つである。
美里は香盤表の出演欄と突き合わせた。子役は三人。日高菜緒、周平役、啓太役。合っている。合っているので、何も出ない。
「合っています」美里は言った。「ただ、この表の中では、です」
「四人目がいれば、どこかに出るはずですね」
「出ません。名簿に入れていないなら、控室も割り当てません」美里は言った。「割り当てなかった人間を、現場のどこかには置いておかないといけない。置いた場所は、どこにも書かれない」
75センチの巻尺が頭に残っていた。机の上の図面では、階段の線と壁の線のあいだは指一本ほどしかない。午後には、その指一本の中へ自分が正面を向いて立てることを確かめている。
美里は香盤表を頭から繰った。撮影順、カット番号、使用セット、待機の指示。指示の欄はほとんど空白で、たまに「スタジオ内待機」「一階控室」と入っている。
6月26日の後半に、名前の欄が空白の行があった。時刻は19時台である。備考の欄に、六文字だけ書いてある。
待機場所なし。
美里はその行を、しばらく見ていた。名前がない。役名もない。待機の内容もない。
書いてあるのは、待機場所がないということだけである。書いた人間は、待機場所がない誰かのことを、この欄に書く必要があると考えたことになる。
「これは、何の行ですか」
「分かりません」瀬尾は言った。「香盤表の行は、普通は人か、カットか、時間帯に紐づきます。どれにも紐づいていない行は、あとから足したものだと思います」
「作成者は」
美里は表の枠外を見た。作成の欄と、訂正の欄がある。作成は制作進行の印で、訂正の欄には別の印が二つ押してあった。片方は読めない。もう片方は、黒瀬と読めた。
美里は椅子の背に寄りかからないまま、三つの資料を線でつないだ。西壁とセット階段の間、75センチ。図面に名前のない空間。控室の割当にいない四人目。19時台の、待機場所なしという行。
どれも、そこに誰かがいたとは書いていない。書いていないことだけが、四つそろっている。
美里は作業記録を開いて、書いた。
旧第二スタジオ北西部、家屋セット階段背面とスタジオ西壁の間に幅75センチの隙間がある。施設図面に用途の記載なし。1999年6月26日の控室割当に子役は三名。同日の香盤表に、名前欄が空白で備考「待機場所なし」の行が一件ある。時刻は19時台。訂正印のうち一つは黒瀬。
その下に、一行足した。この隙間を待機場所として使わせた者がいるとすれば、その者は待機場所として記録していない。
書いてから、消さなかった。断定ではない。条件が付いている。条件が付いているうちは、書いておける。
時刻は22時を回っていた。明日は新局舎の資料庫へ行く。6月26日の当日記録と、精算の書類を見る。
その前に、井沢の書式を開いた。判断待ち事項の欄に、初めて一行書いた。旧局舎内部の閲覧可否について、所有者へ書面で申請するかどうか。締切は明日の17時である。
書いてから、この欄が空欄でなくなると、次の週に返事が来ることに気づいた。
画面の端に、字幕プロジェクトの名前が並んでいる。今日は一度も開いていない。開かなければ出ないことは、六月のうちに確かめてある。
開いていないだけで、十二本はその中にある。削除していないので、消えてもいない。
美里は画面を閉じる前に、割り付け図をもう一度出した。
75センチの隙間は、図面の上では二本の線でしかない。線と線の間は白い。白いところに、何を書くこともできる。書いてしまえば、それは自分が書いたものになる。
美里は何も書かずに、図面を閉じた。




