カット番号
返事は二十分で来た。今日でも構いません、とだけ書いてある。時間の指定はない。美里は文面を二度読んで、指定がないのは早いほうがいいという意味だと受け取りかけて、やめた。読み取るのではなく、こちらから出す。返信に「18時に伺います」と書いた。
「ご一緒していただけますか」美里は言った。「四行を持っていったとき、瀬尾さんもあの部屋にいました」
瀬尾は上着を取った。取ってから何か言いかけて、やめた。
丘陵の道は前回と同じで、車の窓から見える生垣も同じだった。雨は上がっていて、路面だけがまだ濡れている。空は明るいのに日は差していない。門から玄関までの三歩を、美里は数えてしまった。前に来たときは数えなかった。
環は前より早く扉を開けた。通されたのは同じ居間で、ソファの位置も変わっていない。環は今日は座り、それから美里たちにも椅子を勧めた。一昨日、誰も座らなかった部屋である。
美里は鞄を膝に置いたまま、先に事実のほうを言った。
「一昨日お見せした四行について、出所が分かりました。1999年の稽古のときの記録と、撮影稿の一部が見つかりました。それと照らして、十二本のうち十一本が、劇中の台詞だと確認できました。四行は、その十一本の中に入っています」
「劇中の、というのは」
「作品の中の台詞です。ミオという役が、台本の上で言うことになっていた言葉です」美里は言った。「私は、あの四行を続けて並べてお見せしました。並べたのは私です。台本では四つとも別々の場面にあって、前後に別の人の台詞があります。六話の一行は、前に芙美子さんの台詞があって、あとに杏の台詞がある。三行でひとつの会話です。真ん中だけを抜くと、意味が変わります」
環は膝の上で手を組んでいた。組んだまま、動かさなかった。
「その説明を、なさりに来たんですか」
「説明ではなく、間違えたことをお伝えに来ました」美里は言った。「根拠のないものを、根拠のあるもののようにしてお持ちしました。あの日、違うということを、江波さんに言わせました。求めるべきではありませんでした」
美里は椅子から立って、頭を下げた。下げてから、下げたままでは相手が返しづらいことに気づいて戻した。戻すまでの時間を、自分で長くも短くもできなかった。
環は少しのあいだ何も言わなかった。
「謝罪は受け取ります」環は言った。「でも、協力するという話とは別です。私は、あなたに協力すると申し上げたことはありません。一昨日も、その前も。資料をお見せしたのは、うちの子の写真をお渡ししたのは、私が渡したかったからです」
美里は膝の上の鞄の口を握り直した。
「分かります」
「分かる、とおっしゃると困ります」環は言った。「分からないほうで結構です」
美里は返事をしなかった。返事をすると、また読みになる。しばらく時計の音だけがした。前に来たときは聞こえなかった音である。座ると部屋の音が変わるのだと美里は思った。
「一つだけ、申し上げてよろしいですか」瀬尾が言った。環が瀬尾のほうを見た。「四行をお持ちしたとき、あれで説明がつくと考えていたのは、小峰さんだけではありません。僕は、あの十二本を、消えた素材から戻ってきたものだと考えていました。戻ってきたものなら、戻す人間のところに答えがあるはずだと」
「ありませんでしたか」
「ありませんでした」瀬尾は言った。「今回、答えが出たのは僕からではありません。小峰さんが間違いを認めて、それを聞いた方が、しまってあったノートを出してくださったからです」
環はうなずかなかった。うなずく代わりに、少しだけ姿勢を戻した。
美里は鞄から封筒を出した。中には照合の表が一枚入っている。話数、番組内の時刻、劇中のどの場面か、前後の台詞。四行のうちの一つは、三行そろえて写してある。
「これは、確認できたことだけを書いたものです」美里は言った。「お読みいただかなくても構いません。置いていくだけです」
美里は封筒を机の上へ置いた。置いてから、環のほうへ向きを合わせようとして、手を止めた。一昨日、紙を置いたときに同じことをして、受け取られなかった。
環は封筒を見て、それから手を伸ばした。角を持って、机の縁と平行になるように直した。開けなかった。開けずに、そのまま置いた。
「あとで読みます」環は言った。
美里は、それ以上のことを言わなかった。
玄関で靴を履いているとき、環が後ろから言った。
「小峰さん。これから何かお持ちになるときは、確かめ終わったものにしてください。途中のものは、いりません」
「分かりました」
環は封筒を開け、表を半分だけ引き出した。上から下まで目を通してから、紙を封筒へ戻した。
「うちの子のことと、ミオという役のことを、分けて書いていらっしゃいましたね」環は言った。「今日の紙は、そうなっていました」
美里は表の書式を思い出した。役名の欄と、人物の欄を分けて作ってある。作ったのは今日の午後で、理由は、混ぜて訊いて叱られたからである。
「それでいいです」環は言った。「そのままにしてください」
扉が閉まる音は前より早く、閉まってから内側で鍵の音がした。美里はそれを、追い出されたとは受け取らなかった。受け取り方を選んだのではなく、そう聞こえた。
*
編集室に戻ったのは20時を過ぎていた。美里は照明を落とさず、そのままの明るさで席についた。落とすのは映像を見るときの習慣で、今夜は映像を見ない。
十二本の一覧を開く。話数、番組内タイムコード、話者、台詞、劇中の場面。列が五つある。美里は台詞の列を非表示にした。
画面から文字が消えて、数字だけが残った。00:08:42。00:21:16。00:14:03。並んだ数字は十二行ぶんの縦の列になり、何を意味する数字なのかは、この画面のどこにも書かれていない。
「中身は、もう調査に使いません」美里は言った。
「使えない、ではなく」
「使いません」美里は言った。「劇中台詞だと分かったものを事件の資料として読むのは、二度目の同じ間違いになります。使うのは位置です。番組内タイムコード。これだけは、私が付けたものでも、誰かの意図が入ったものでもありません」
瀬尾はモニターへ寄って、数字の列を見た。
「ただ、この数字は撮影の時刻ではありません」
「そこが問題です」
番組内タイムコードは、放送された一話の頭からの経過時間である。編集で並べ替えたあとの尺の上の位置なので、1999年の時計とは対応しない。撮影の順でもない。
「一段挟みます」美里は言った。「編集決定表です。放送版のこの位置は、どのカットを使ったかが書いてある。カット番号が出れば、そこから先は撮影側の帳票につながります」
「香盤表と、照明記録ですね」
「香盤表に撮影日と順番があります。照明記録には、その日にどの吊り位置を使ったかが残っている。合わせれば、カット番号ごとに、いつ、どのセットで撮ったかが出ます」
瀬尾は少し黙って、それから言った。
「順番を決めてください」
美里は瀬尾のほうを見た。先週までなら、この人は先に処理を走らせていた。走らせながら説明していた。
「編集決定表からカット番号を出すのは素材側の作業です。瀬尾さんにお願いします。私は帳票のほうを当たります」美里は言った。「合流点はカット番号にします。両方から同じ番号が出れば、そこは確かです」
「出なかったら」
「出なかった一本は、出なかったと書きます」
美里は自分の表を作った。カット番号、撮影日、撮影順、セット、吊り位置、備考。空欄のまま、行だけ十二本ぶん引いた。番号そのものは、昼の照合で十二本とも出ている。瀬尾がそれを編集決定表の側から確定させ、美里は帳票の側から同じ番号を出せるかを当たる。
22時前に、十一本のカット番号が香盤表の上に載った。残る一本、第七話のものは、帳票の側から同じ番号が出てこなかった。
美里は撮影日の列を見た。四つしかなかった。
十一本のカットは八話ぶんの放送に散らばっている。それなのに、撮影された日は四日しかない。6月12日、13日、19日、26日。
「話数の順ではないんですね」
「セット撮りは話数を跨いでまとめます」瀬尾は言った。「同じ居間で撮るものは、何話ぶんでも同じ日に撮る。そのほうが安いので」
美里は四つの日付を書き写した。放送では、この十一本は八回に分かれて二か月にわたって流れた。撮影したのは四日である。
四日のうちの一つが、1999年6月26日だった。
美里はその日付に丸を付けなかった。色も変えなかった。表の中の一行として、他の三つと同じ幅で置いた。
四日ぶんの当日記録を出してほしいと井沢へ頼んだのは、7月5日である。あのとき挙げた四日は、素材台帳の欠番と、江波環の記憶から出たものだった。今度の四日は、字幕の位置から出ている。材料が違い、経路が違って、同じ四日に着いた。
作業記録に書いた。番組内タイムコードからカット番号を経由して、撮影日と撮影順を得た。撮影日は四日に集中し、7月5日に閲覧を求めた四日と一致する。その下に、括弧をつけて一行足した。一致した理由は、この時点では分からない。
*
23時を回った。瀬尾は帰ると言わず、美里も帰ろうと言わなかった。二人とも言わないので、そのまま続きになった。
「一つだけ、試してみたいことがあります」美里は言った。「四話の00:12:40です」
居間の場面である。家族が古い写真を見ている。芙美子が写真を手に持ち、杏と啓太が横から覗き込む。三人とも、途中で顔を上げる。
「この三人は、同じところを見ています」美里は言った。「画面の外です」
「視線の先を出すということですか。出せます。ただ、正確ではありません」
瀬尾はモニターを美里のほうへ回した。
「顔の向きから角度を取ります。目だけ動かしている場合は誤差が大きい。この三人は顔ごと向けているので、そこはまだいいほうです。問題は基準がないことです。画の中にあるものの実寸が分からないと、線を引く場所が決まりません」
「畳があります」
美里は画面を止めた。居間の畳が写っている。目の筋が見えた。
「セットの割り付け図に、一枚が88センチ掛ける176センチとあります」美里は言った。「実物の畳を規格だけで決めず、この記載を基準にします」
「座卓もありますね」
「座卓は寸法が分かりません。畳を基準にして、座卓のほうを測ります」
美里は紙に平面図を引いた。畳の目を数えて部屋の広さを出す。八畳である。柱の位置を入れ、鴨居の高さを入れた。カメラの位置は床の目の消失点から逆に出した。
ここまでは手順である。手順のあいだ、美里は一度も、誰が画面の外にいるかを考えなかった。考えると、線を引く先が先に決まってしまう。
三本の線を引いた。芙美子の顔の向き、杏の顔の向き、啓太の顔の向き。それぞれに誤差の幅を扇形で足した。三つの扇が重なった場所は、居間の外だった。障子の向こう、廊下を越えた先である。
美里はそこへ、セットの図面を重ねた。旧第二スタジオの1999年当時の割り付け図で、局から来た複写の中に入っていたものである。
重なった位置に、階段があった。
美里はしばらく、その一点を見ていた。線が三本、細く交差している。交わったところは、家の中で言えば階段の下である。撮影の側で言えば、カメラの画角の外で、セットの壁の切れ目にあたる。
「誤差はどのくらいですか」
「半径で40センチくらいです」瀬尾は言った。「これ一本だけでは、たまたまと言われます」
「言われます」美里は言った。「なので、これ一本では出しません」
美里は手順のほうを先に書いた。使った基準、畳の寸法、消失点の取り方、誤差の付け方。書いてから、結果を一行だけ足した。
四話00:12:40。三人の視線の交点、画面外。誤差半径およそ40センチ。位置はセット階段付近。
人の名前は書かなかった。書く材料がない。
残りの十本も同じ手順でやる、と美里は言った。明日の午前でできるところまでやって、午後は旧局舎へ回る。図面の上の階段と、実際の壁の位置を、外から確かめておきたい。
瀬尾がうなずいて、そのあとで言った。
「三話の00:18:27も、この中に入っています」
美里は表を見た。三話の00:18:27には、まだカット番号しか入っていない。その台詞を美里は覚えている。覚えているが、口には出さなかった。出せば、次の線を引くときに、引く先が決まってしまう。
「入っています」美里は言った。「明日、番号のところから始めます」
画面には数字の列が残っている。台詞の列は非表示のままだった。消えているのに、まだそこにあることは、美里にも分かっていた。




