本読みの席
画像は前の日のうちに届いていた。十四枚ある。日高菜緒が缶から出して、机に置いて、真上から撮ったものである。影が入らないように、二度撮り直した跡があった。同じページが二枚あって、片方は端が切れている。
美里は受け取りの記録を先に書いた。提供者、提供日時、提供方法、原本の所在。原本は本人の手元にある。こちらにあるのは画像だけで、加工はしていない。
書き終えてから、開いた。子供の字だった。鉛筆で、行がまっすぐでない。ページの上のほうが大きくて、下へいくほど小さくなる。書きながら余白が足りなくなったのが分かる。
最初の一枚に日付がある。1999年6月8日。本読み、とだけ書いてある。
その下に、名前が縦に並んでいた。
ふみこ。あん。しゅうへい。けいた。みお。
平仮名である。役名を、耳で聞いたとおりに書いたのだろうと美里は思った。五つ並んでいて、上から四つは放送版にいる。五つ目だけがいない。
美里はそのページを、しばらく閉じなかった。二十七年前の子供が、本読みの席で書いた並びである。書いた本人は、この五人が全員いる作品を読んでいた。
*
午前中は照合の方法を決めるのに使った。手元にあるものは三つある。菜緒のノート、準備稿、撮影稿の断片三つ。前々日は一部しか確認しなかった断片も、今日は一ページずつ照合する。そこへ、放送版の反応カットが加わる。
「順番で当てます」瀬尾が言った。
「順番といいますと」
「ノートに台詞の順が書いてあります。誰の次に誰が喋るか。これは台本の順です」瀬尾は画像を拡大した。「放送版には、ミオの台詞だけがない。ということは、ノートの順から一つ抜けた形になっているはずです」
美里はノートの二枚目を見た。行の頭に、話者らしい平仮名が書いてある。その横に短い言葉があって、さらに横に数字が入っている。
「この数字は」
「カット番号だと思います」瀬尾は言った。「本読みのときには付いていないので、撮影のときに書き足したんでしょう」
美里は数字を三つ書き写して、編集決定表を引いた。
三つとも、実在するカット番号だった。美里は椅子を引いて座り直した。
これで、ノートと編集決定表が繋がる。編集決定表と放送版は既に繋がっている。放送版と字幕も、番組内タイムコードで繋がっている。
三つの繋がりを順にたどれば、ノートの行と、字幕の行が、同じカットの上で出会う。
「照合の手順を決めます」美里は言った。「まず、字幕の出る位置を編集決定表へ当てて、カット番号を出します。次に、その番号に当たるところが、ノートか撮影稿の断片に残っているかを見ます。残っていれば、その行にミオの台詞が書かれているかどうかを見ます」
「三段ですね」
「三段です。途中で切れたら、その一本は不成立にします」
美里は机の上の紙を、話数ではなくカット番号の順に並べ替えた。準備稿も、断片も、ノートの写しも、全部同じ順にする。
話数の順は、こちらが選んだ順である。カット番号の順は、1999年に付けられた順である。どちらで並べるかで、見えるものが変わる。一昨日それを一度やって、失敗した。
机の上が一度ぐちゃぐちゃになって、それから揃った。揃ったあとの机は、昨日までと同じ紙が載っているのに、別の机のように見えた。
*
昼から始めた。一本目は第一話の00:08:42である。
ノートの該当ページを探した。カット番号は編集決定表から出る。ノートを繰って、同じ数字を探す。
あった。
行の頭に「けいた」とあり、その次の行に「みお」とある。二行が続けて書かれている。
美里は手を止めた。「みお」の横に、短い言葉が書いてある。
それ、わたしがいうはずだったのに。
平仮名である。読点の位置も違う。ただ、語は同じだった。
美里は画面の字幕を出した。並べて置いた。
〈ミオ「それ、私が言うはずだったのに」〉
紙のほうは、それ、わたしがいうはずだったのに。同じである。
美里は二つを並べて、一字ずつ確かめた。それ。わたし。いう。はず。だった。のに。漢字と平仮名の違いだけで、語の並びは一致している。
美里は確かめ終えてから、もう一度、頭から確かめた。二度目も同じだった。
この行は、1999年6月8日の本読みの席で、13歳の子供が鉛筆で書き取ったものである。書いた時点で、2026年の字幕プロジェクトは存在しない。書いた本人は、いま画面に出ている文字列を見たことがない。
それでも、同じだった。
「一本目、成立です」瀬尾が言った。
美里は返事をしなかった。返事をする代わりに、次のカット番号を出した。
二本目は00:21:16。ノートにある。おかあさんは、まだわたしをみてる。疑問符は書かれていない。子供の字なので符号を省いただけだと思われた。語は一致する。
三本目、第二話の00:14:03。いつつあるよ。ひとつ、だれの。これも一致した。
美里は一件ずつ書き取った。手が震えているかどうかを、自分で確かめる余裕はなかった。確かめている暇があるなら次を出したほうが速い。
四本目と五本目は第三話の二本で、どちらもノートにある。六本目の第四話も、七本目の第五話も、ある。
八本目、第六話の00:07:32。ノートにある。
おかあさんが、わたしをおいていった。
美里はその行を、しばらく見ていた。目を離せなかったのではなく、離す理由が見つからなかった。
一昨日、環の家の机に置いた四本のうちの一本である。母に置き去りにされた子供の訴えとして読んだ行である。
いま、それは13歳の菜緒が本読みのときに書き取った台本の順の中に、劇中人物ミオの台詞として並んでいた。
前の行に「ふみこ」とあり、その台詞が書いてある。あとの行に「あん」とある。
劇中の会話の、途中の一行だった。
美里は前後の行も書き写した。芙美子の台詞があり、ミオの台詞があり、杏の台詞がある。三行がひと続きの会話になっている。真ん中の一行だけを抜けば、母に置き去りにされた子供の訴えになる。前後を入れれば、家を出た母のことを子供が言い、姉が受ける場面になる。
抜いたのは自分である。抜くと決めた覚えはない。ただ、十二本の一覧には最初から一行ずつしか入っていなかった。前後は入っていない。入っていないものを、入っていないまま読んだ。
美里はその三行を、作業記録へ写した。写しながら、これを一昨日のうちに持っていれば、と考えて、考えるのをやめた。持っていなかったから一昨日になった。それだけである。
九本目、第六話の00:19:44。ノートにある。
十本目は、第七話の00:16:08である。
〈ミオ「書かなかったら、いないことになるの?」〉
ノートにない。美里は該当ページを二度繰った。そのカット番号が、どのページにも出てこない。ページが飛んでいるわけでもない。前のカット番号と、次のカット番号が続けて書いてあって、そのあいだが空いている。
書き落としかもしれない。本読みの途中で手を止めたのかもしれない。撮影のときに書き足す番号なので、その日の分だけ書かなかったのかもしれない。
どれも推測である。推測は書かない。
「ここは、断片のほうです」瀬尾が言った。
撮影稿の断片、第五話の前半。第七話ではない。
美里は三つの断片を確かめた。第七話の該当箇所は、どの断片にも入っていない。
「ノートにも断片にもない、ということですね」
「その一本は、いまは不成立です」美里は言った。「不成立として記録します」
十一本目、第八話の00:11:59。ノートにある。
あけるのはこわいけど、しめたままもこわい。
美里は画面を出して、隣へ置いた。表示されている行は、こうである。
〈ミオ「開けるのは怖いけど、閉めたままも怖い」〉
劇中では、封じたままの部屋の前に立つ場面の台詞だった。前の行は芙美子で、あとの行はない。場面がそこで終わっている。
十二本目、第八話の00:25:11。ノートにない。断片の第八話には入っている。
美里は断片のページを開いた。撮影稿の活字である。
ミオ「ちゃんと数えて。私を入れて」
活字である。漢字も、読点も、送り仮名も一致した。表記の差が一つもない。
美里は断片の紙と、画面の行を、しばらく並べて見ていた。片方は1999年に印刷されたもので、片方は2026年に画面へ出たものである。あいだの二十七年に、この二つを繋ぐ経路は一つも見つかっていない。
繋がっていないのに、同じ文字が出ている。
*
17時前に、十二本の照合が終わった。成立が十一本、不成立が一本である。
美里は表を作り直した。話数、カット番号、ノートまたは断片の該当箇所、一致した語の数、不一致の内容。
不一致は全部で三種類だった。漢字と平仮名の違い。読点の位置。疑問符の有無。どれも表記の差であり、語の差ではない。
十一本のうち、活字の撮影稿断片で確認できたものが一本ある。残りの十本は、菜緒の手書きノートである。
美里はそこを分けて書いた。一本は資料上の一致、十本は共演者の記録による一致。強さが違う。
書きながら、自分の手が普通に動いていることに気づいた。昨日までは速くなっていた。いまは、いつもの速さだった。
速く動いていたのは、確かめる前に答えを持っていたからである。答えを持っていると、確かめる作業は答えへ向かう作業になる。今日は答えを持たずに始めた。持たずに始めたので、出てきたものが答えになった。
順番としては、こちらが正しい。八年やってきて知っているはずのことだった。
「原典が出ました」瀬尾が言った。
「出ました」
今度は、美里も同じ言葉を使った。前は使わなかった言葉である。
十二本のうち十一本は、削除された役の台詞である。私的な発話ではない。誰かの証言でもない。1999年に書かれ、稽古で読まれ、撮影された、劇中人物ミオの台詞である。
残る一本だけは、どちらの紙にも見つかっていない。
美里が四本を並べて読んだものは、劇中の会話の途中から抜き出した四行だった。
抜き出したのは自分である。抜き出した理由も、いまなら書ける。
美里はそのあと、二十分ほど何もしなかった。
画面には十二行が出たままになっている。〈お母さんが私を置いていった〉の横に、いまは劇中の場面番号が入っている。第六話、カット番号、ふみこの台詞の次。
数字が入ると、その行は資料になる。資料になったので、もう読めない。
読めない、というのは、意味が消えたということではなかった。読む位置が変わったのである。昨日までは、その行の向こう側に9歳の子供がいた。いまは、台本の一行がある。
どちらが本当かは、まだ分からない。分からないが、こちらが選べる話ではなくなった。
「小峰さん」瀬尾が言った。「品質管理報告に、どう書きますか」
美里は少し考えた。
「十二本のうち十一本について、劇中台詞との一致を確認した、と書きます。不成立の一本は不成立と書きます。出所は、共演者提供の記録と撮影稿断片。提供者名は伏せて、記録は残す」
「怪異のほうは」
「書きません」美里は言った。「なぜ出るのかは、まだ何も分かっていません。分かっているのは、出ている文字列が何であるかだけです」
「何であるか、は大きいと思います」
「大きいです。ただ、報告に書けるのは、確認したことだけです」美里は言った。「十一本が劇中台詞だと分かったからといって、なぜ字幕プロジェクトに出るのかは一歩も進んでいません」
「進んでいませんね」
「進んでいないのに、進んだようには書けません」
瀬尾はうなずいた。
「一つ、直します」美里は言った。「一昨日の作業記録です」
美里は7月6日の欄を開いた。誤読の経緯を書いた三行がある。
その下に、一行足した。日付を入れた。
7月8日、十二本のうち十一本が劇中台詞であることを確認。7月6日の読みは、根拠のない解釈であった。
解釈であった、と書いた。誤りであった、とは書かなかった。
誤りと書くと、正しい読みが別にあることになる。いま確認できたのは、あの読みに根拠がなかったということだけである。
書き終えて、美里は椅子から立った。窓の外はまだ明るい。
「今日中に、江波さんへ連絡します」
「明日でもいいと思います」瀬尾は言った。「今日はもう17時です」
「連絡だけです。伺うのは明日以降で構いません」美里は言った。「ただ、間違えたことを伝えるのを、こちらの都合で遅らせたくない」
「都合というほど、遅れませんが」
「一日は一日です」
美里は端末を開いて、文面を書きはじめた。
三行で済ませた。先日お見せした四行について、劇中台詞であることが資料で確認できたこと。あの読み方に根拠がなかったこと。改めて説明に伺いたいこと。
謝罪の語は入れなかった。入れると、この文面が謝罪のためのものになる。伝えるべきは、確認できた事実のほうである。謝るのは、会ってからにする。
書きながら、これも順番の話だと思った。順番を理由にして先へ送るのを、この案件で何度も見てきた。井沢が納品の順で送り、瀬尾が復元の順で送り、自分は確認の順で送った。
どれも正しい順番だった。正しい順番で送ったものが、送られたまま溜まっている。
今日は送らない。




