氷が溶ける頃に
「ちょっと用事を思い出してね。先に失礼するよ」
飲み物を飲み終えたノーマンは、二人にそう告げた。
「どこ行くの?」
エイデンは慌てて父を見た。
―置いていかないでくれ! 一人なんて緊張して死んじゃう!
何とか父子の以心伝心で引き止めようとする。
「そういえば、今月分の母さんへの手紙をまだ出してなかったんだ。郵便局が閉まる前に出しておかないと」
そう言ってノーマンは、わざわざ封をしていない手紙を開いて見せた。
そこには、妙にぶつ切りで、どこか異様な情熱に満ちた文章が並んでいた。短い文も長い文も、とにかく愛の言葉ばかりで埋め尽くされている。
エイデンは青ざめ、慌てて手紙を閉じる。
(ジャスミーヌさん……どこまで見ちゃったんだ!?)
好きな女性に、自分の父親が変な人だと思われるのだけは避けたかった。
「そのお手紙……」
ジャスミーヌが興味深そうに口を開く。
「い、いや! あれは父さんが勝手に書いてるだけだから!」
「とても個性的な文章でしたね」
「父さん、手紙出しに行くんでしょ!? ほら、早く!」
「じゃあ行ってくる。二人とも、ごゆっくり」
ノーマンは荷物を背負い、手紙をしまうと、軽い足取りで店を出て行った。
こうして、喫茶店のテーブルにはエイデンとジャスミーヌだけが残った。
「こちらでの暮らしには、もう慣れましたか?」
照れくさそうにエイデンが尋ねる。
「エリカ王妃殿下のお心遣いのおかげで、とても快適に過ごしています。近所の皆さんも本当に親切なんですよ」
「それは良かったです。ギルドでも、外国から来た人は湿気に慣れるのが一番大変だって、よく聞きますから」
「真珠王国はもっと乾燥していますからね。最初は少し戸惑いましたけど、今はもう慣れました」
他愛のない話を交わしているうちに、最初のぎこちなさは少しずつ溶けていった。
「こうしてゆっくりお話しするのは……巡礼の旅以来ですね」
ジャスミーヌが懐かしそうに微笑む。
エイデンは少し迷った末、口を開いた。
「あの……巡礼の後半って、何かあったんですか?」
「どうしてそう思ったんです?」
「その……旅の後半になると、ジャスミーヌさん、あまり姿を見かけなくなって……僕たちともあまり話さなくなったから」
「その頃、セレナが倒れてしまって。私たちはずっと彼女に付き添っていたんです」
セレナ―。
エイデンはぼんやりと思い出す。
巡礼の仲間の中に、いつもジャスミーヌや他の少女たちの後ろへ隠れるようにしていた少女がいた。
護衛を務めていた冒険者たちとはほとんど話さず、本当に必要な時だけ、隊の女性冒険者二人を通して話しかけてきた。
果てなき部族の地へ到着した頃、その少女の姿があったかどうかまでは思い出せない。
「いつも大きめのマントを着ていた子ですか?」
「覚えていてくださったんですね。冒険者の皆さんは、道中で出会った魔物のほうをよく覚えているものだと思っていました」
ジャスミーヌはくすりと笑う。
「だって、あの頃のジャスミーヌさん、毎日のように彼女のそばにいたじゃないですか。だから覚えてるんです」
エイデンは真剣な顔で答え、それから照れくさそうに頬をかいた。
「実はずっと……僕が何か失礼なことをして、嫌われたのかと思ってました」
ジャスミーヌは首を横に振って微笑む。
「ご安心ください」
「私は一度も、あなたを嫌いだと思ったことはありませんよ」
その一言で、エイデンの顔は真っ赤になった。
恥ずかしさをごまかすように、慌てて話題を変える。
「そ、それで……セレナさんは、最近はどうしてるんですか?」
「今も果てなき部族で療養しています」
「まだ体調は戻っていないんですか?」
「ええ」
「そうですか……早く良くなるといいですね。それで、巡礼では……ずっと探していたものは見つかったんですか?」
「うーん……一割くらいでしょうか」
「一割?」
「果てなき部族には数多くの祭儀があります。でも、本当の部族の一員でなければ参加できません。その一員になるには、それまでのすべてを捨てなければならないんです」
「なるほど……」
「だから部族の方々が、リタール王国へ行ってみてはどうかと勧めてくださったんです。こちらでは豊穣の女神への信仰が今まさに発展していて、多くを学べる、と」
「それで、あの三冊を読んでいたんですね」
「え?」
「最近聞いたんです。『砕骨の未亡人』と『涙の聖女』の伝承は、実は同じ出来事なんじゃないかって。砕骨の未亡人は、聖女に付き従っていた侍女だった、とか」
ジャスミーヌは驚いたように目を見開いた。
「……驚きました。そのことをご存じだったなんて」
「真珠王国の人でも、砕骨の未亡人と涙の聖女が同じ物語だと知っている人は多くありません。多くの人は、別々の伝承だと思っています」
(だって、その砕骨の未亡人本人がうちのギルドにいるんだから……)
そう思ったが、もちろん口には出せない。
「どうして別々の話だと思われているんです? 五十年前に、本当に起きた出来事なのに」
「真珠王国では、王家にとって大変不名誉な事件ですから。今こうして話せるのも、私が国外にいるからですよ」
「じゃあ……その……これからも、ずっとリタール王国にいたいって思ってるんですか?」
思わず口をついて出た。
ジャスミーヌはエイデンを見つめた。
その瞳がわずかに見開かれる。
紅茶をかき混ぜていた手も止まり、銀のスプーンがグラスに当たって、澄んだ音を立てた。
エイデンは一気に顔が熱くなる。
「ち、違うんです! そういう意味じゃなくて……えっと……砕骨の未亡人のお話の、どの部分が一番お好きなのかなって……」
「そうですね……」
ジャスミーヌはしばらく考え、
「復讐、でしょうか」
と静かに答えた。
「えっ?」
エイデンは思わず声を上げる。
「変ですよね」
ジャスミーヌは自嘲気味に微笑んだ。
「いえ……ただ、その答えは少し意外でした」
エイデンは、タチバナさんから聞いたあの物語を思い返す。
確かに、復讐はあの物語の大きな柱の一つだった。
ジャスミーヌは目の前の飲み物へ視線を落とした。
紅茶の上に浮かんでいたアイスクリームは、もうほとんど溶けてしまっている。
白と深い琥珀色が混ざり合い、境界の分からない色へと変わっていた。
「私は、主人公が幸せになった途端、それまで主人公を傷つけてきた人たちの罪まで、何事もなかったかのように許されてしまう物語は好きではありません」
少しだけ寂しそうに微笑み、
「もし世界がそんなに優しい場所だったなら――涙の聖女は、最後に自分を傷つけた人たちの手で殺されることなど、なかったはずでしょう?」




