恋する少年と夏の喫茶店
翌朝早く、エイデンはノーマンに半ば無理やり外へ連れ出された。
「たまには親子で散歩でもしようじゃないか」
「え?」
エイデンは実の父を訝しげに見つめた。
十八歳にもなって父親と街をぶらつくなど、休日の過ごし方としては下から数えたほうが早い。
「いろいろ考えたんだ。そういえば今まで、お前の母さんとのことをちゃんと話したことがなかったなって。せっかくだし最初から最後まで話してやろう。健全な恋愛観を身につける助けになるはずだ」
「ほんと? ただタチバナさんに張り合いたいだけじゃないの?」
「それに今は学院も夏休みだろう。ヒルダからの手紙じゃ、もうすぐマナとヒューゴを連れて来るらしい。あの子たちにはまだ早い話だからな」
「マナはたぶん母さんからもう聞いてるよ。何も知らないのはヒューゴだけじゃないかな」
「あの子は少し繊細だからな。そればかりは仕方ない」
ノーマンとエイデンは街を歩いていく。
ここはリタール王国の辺境地帯で、ヘクトール伯爵家の領地の外れと、沈黙山脈、その奥に広がる暗黒の森に隣接している。
錆鉄冒険者ギルドが移ってきて以来、この一帯はようやく活気を帯び始めた。
街並みを眺めながら、ノーマンは感慨深げに呟く。
「お前が小さかった頃は、この辺りは一面の空き地だったのにな。たった数年で、こんな賑やかな街になるとは思わなかった」
「へぇ」
エイデンは上の空で相槌を打つ。
やがて二人は、〈雲のカフェ〉の前で足を止めた。
エイデンが幼い頃、この辺りがまだ開けていなかった時代に、王都にしかなかったこの店は最初の支店をここへ出したのだ。
〈雲のカフェ〉では、遠い異国から伝わったという珍しい料理が楽しめる。パスタ、オムライス、スフレパンケーキ、アイスティー・フロートなどが人気で、店内は広々としており、席同士も十分な距離が取られていて、客はゆったりと会話を楽しめる造りになっていた。
エイデンは疑わしそうに父を見る。
「前は、この店じゃ全然腹いっぱいにならないって文句言ってなかった?」
「俺ももう三十五だからな。一度にそんなに食べる歳でもなくなったさ」
「ますます何か隠してる気がするんだけど……」
「気のせいだ」
「まさか『虐げられた奴隷少女は、孤独な大公に溺愛される』の作者のサイン会じゃないよね? 先に言っとくけど、並ぶのには付き合わないよ」
「何を言ってるんだ。あの先生のサイン会なら、夜明け前から並んでるに決まってるだろう」
まだ朝早いにもかかわらず、店の前にはすでに何組かの客が順番を待っていた。
―はぁ……。
ここで並んでるくらいなら、豊穣の女神についての本でも読んでたほうがいいよな。次にジャスミーヌさんと会った時、もっと話が弾むかもしれないし。
退屈そうにそんなことを考えていたエイデンは、自分たちの後ろで一人の女性が待っていることに気づいた。
彼は慌てて扉を押さえ、その女性を先に通そうとする。
「エイデン?」
驚いたような女性の声。
聞き覚えのある声だった。
――まさか……そんな偶然あるわけ……。親父が読んでる恋愛小説じゃあるまいし……
恐る恐る振り返る。
そこには、本当にジャスミーヌが立っていた。
「ジャ、ジャスミーヌさん!?」
思わず悲鳴に近い声が漏れる。
心臓が一瞬止まり、次の瞬間には激しく脈打ち始めた。
ジャスミーヌは黒く長い髪を下ろし、今日は真珠王国特有の刺繍入りの民族衣装や肩掛けではなく、リタール王国の女性が夏によく着る、ゆったりしたハイウエストのワンピースを身にまとっていた。足元には金色のサンダル。
見上げてくる杏色の瞳には、どうしてここで彼に会うのかという小さな戸惑いが浮かんでいる。
こんな格好のジャスミーヌさんも可愛い!
エイデンの脳内では、小さな自分が床を転げ回りながら絶叫していた。
いや、真珠王国の服を着ていた時も可愛かった。
初めて会った時、大きすぎる旅用のマントを羽織っていた姿も可愛かった。
要するに、何を着ていても可愛い。
「エイデン?」
ジャスミーヌが呼ぶ。
しかし反応がない。
「エイデン?」
「……え?」
「まだドアを押さえたままですよ。先に中へ入りましょう?」
「は、はい!」
真っ赤になったエイデンは慌てて扉を閉めようとし、危うくノーマンを締め出しかけた。
「おおおい!」
熊のような唸り声を上げながらも、ノーマンはその巨体からは想像もつかない俊敏さで扉の隙間をすり抜け、無事に二人の後へ続く。
店内の客たちは、その動きに思わず息を呑み、この冒険者へ畏敬の眼差しを向けた。
「こちらの方は?」
ノーマンは尋ねた。
もっとも、心の中ではすでに答えを察していた。
「真珠王国から来られたジャスミーヌさんです。ジャスミーヌさん、こちらが以前お話しした父のノーマンです」
「ジャ、ジャスミーヌさん!?」
数秒前のエイデンとまったく同じ悲鳴を、今度はノーマンが上げた。
「どうしてこのお店に?」
気まずさをごまかそうと、エイデンは慌てて話題を探す。
言った瞬間、自分でも馬鹿な質問だと思った。
彼女はこの近くに滞在しているのだから、どこの店へ来ても不思議ではない。
「知り合いの方に勧めていただいたんです。今朝は予定もありませんでしたので、一度来てみようと思いまして。それと、借りた本も読みたかったので」
「どんな本なんですか?」
「豊穣の女神について学ぶうちに、その周辺の歴史にも興味が湧いてきたんです」
ジャスミーヌは抱えていた本を見せた。
『砕骨の寡婦の謎』
『涙の聖女――大鍋の試練から蘭花平原までの記録』
『豊穣の女神ヴィルミナの箴言』
「僕も最近、『砕骨の寡婦』の話を聞いたばかりなんです」
エイデンは彼女の本を見つめ、愕然とした。
一方、自分が最近読んでいたのは――
『婚約破棄された令嬢と兵士の秘密の恋〜辺境に咲く禁断の花〜』
そんな恋愛小説ばかりだった。
ちょうど店員が案内を終え、三人へ視線を向ける。
「ご一緒のお客様でしょうか? 三名様ですか?」
「違います」
エイデンは即答した。
「はい」
同時に、ノーマンは真逆の返事をする。
「えっと、お二人は何かご予定があったのでは?」
ジャスミーヌが尋ねる。
「いえ。私たちはちょうど喫茶店で、歴史について真面目な話をしようとしていただけです」
ノーマンは断言した。
もちろん、現実とはまったく違う話である。
―こうして。
ジャスミーヌ、エイデン、そしてノーマンの三人は、喫茶店のボックス席に並んで座ることになった。
ジャスミーヌはメニューを眺め、セットにするか単品にするかを静かに見比べている。
エイデンはというと、窓ガラスを鏡代わりに前髪を何度も何度も整えていた。
その回数があまりにも多いため、ノーマンは興奮のあまり、そのままガラスへ頭から突っ込むのではないかと本気で心配になった。
ノーマンはそっとジャスミーヌへ目を向ける。
真珠王国特有の浅黒い肌。
白黒のはっきりした大きな瞳。
艶やかな黒髪。
その容姿だけ見れば、リタール王国の人々とはまるで違う。
それでも―彼女には、どこか特別な空気があった。
その瞳には、不思議と騒がしい者を静かにし、落ち着きのない者を穏やかにさせる何かが宿っている。
ノーマンは、ふとヒルダを思い出した。
「エイデンのお父様でいらっしゃる、錆鉄冒険者ギルドのノーマンさんですね。お会いできて光栄です」
話し方まで、どこか似ている。
ノーマンは複雑な気持ちになった。
まさか息子が、こんなにもヒルダを思わせる女性に恋をするとは。
ティムの情報が正しいなら、ジャスミーヌはかつて王子との婚約を解消され、今になって王家は二人を復縁させようとしている。
そんな状況で―。
彼女はエイデンの想いを受け入れるのだろうか。
それとも真珠王国へ戻り、再び王子妃となる道を選ぶのだろうか。




