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世界に二人だけの舞踏

※本章には女性同士の恋愛描写があります。苦手な方はご注意ください。


橘杏・ケイソ男爵令嬢が十五歳で真珠王国の王都を訪れたのは、神官の推薦を受け、王立学院へ入学するためだった。


橘杏の両親は幼い頃に病で亡くなり、祖父もそのずっと前に他界していた。家族と呼べる存在は祖母ただ一人だけだった。


祖母は寡黙な老婦人で、その容姿は真珠王国の人々とはどこか異なっていた。異国の出身だと言われており、「橘杏」という名前も、祖母がかつて暮らしていた土地の言葉から付けたものだった。


ケイソ男爵家は爵位こそ持っていたが、その暮らしは先祖代々の土地を守る裕福な平民とほとんど変わらなかった。


橘杏は幼い頃から近所の子どもたちと野山を駆け回る、まるで野生児のような少女だった。並外れた怪力の持ち主でもあり、十歳の頃には村で二、三人の大人の男でようやく運べる荷物を、一人で軽々と担ぎ上げていた。


その噂はやがて近隣の神官の耳にも届いた。


貴族としての教養と護衛としての訓練を受ければ、名家の令嬢に仕える侍女や王宮女官の護衛、さらには豊穣の女神に仕える聖女を守る聖騎士にもなれるかもしれない――そう判断されたのである。


祖母が亡くなった十五歳の春、橘杏は神官の推薦を受け、王都の王立学院へ入学した。そこで貴族教育を受けながら、騎士団で護衛としての訓練も積むことになった。


 


しかし、そのことを女騎士の教官にはどうしても言い出せなかった。


剣術や騎乗、護衛術よりも、橘杏が何より好きだったのは、王立学院の社交ダンスの授業だったからだ。


婚約者のいない橘杏には、決まったダンスパートナーがいなかった。


そして、もう一人だけ、いつも相手のいない少女がいた。


真珠王国第二王子の婚約者、公爵令嬢ケイトである。

もっとも、第二王子は舞踏が苦手で、何かと理由をつけて授業を欠席していた。


幼い頃から王太子妃教育を受けてきたケイトは、あらゆる宮廷舞踏を身につけており、授業では教師の補佐を務めたり、欠席者の代役として踊ったりすることが多かった。


ダンスなど一度も踊ったことのなかった橘杏が学院へ編入し、この授業に参加するようになると、ケイトは自然と彼女のパートナーになった。


ケイトの踊りは美しかった。

リード役でもフォロー役でも、まるで呼吸をするように踊りこなす。


手を取り合い、互いを見つめながら踊っていると、どれほど教室が混み合っていても、舞踏場が人で溢れていても、この世界には自分たち二人しかいないような気がした。


授業の終わり、最後のターンを終えた瞬間、ケイトが橘杏の耳元でそっと囁く。


「午後、学院の隅にあるあのカフェで一緒に勉強しない? 二人だけで。」


橘杏は何度も頷いた。

嬉しさで胸がいっぱいになり、言葉が出ない。


これこそが、橘杏が社交ダンスの授業を好きな理由だった。

優雅なケイトと踊ることができる。

そして授業が終われば、二人きりで過ごす約束まで交わせる。


ケイトが微笑むたび、胸の奥が少し痛み、鼓動が速くなる。

思い上がりばかりが強く、愚かな第二王子とは違い、橘杏はその感情が何なのかくらい理解していた。



王立学院で、橘杏は第二王子を中心とした貴族の少年たちの目に留まった。


それは彼らのお気に入りの遊びだった。


身分の低い少女へ優しく近づき、特別扱いし、誰よりも大切にしているように振る舞う。

そして皆の前で、ある日突然その少女を捨てる。

その後、少女が嘲笑されようと、恨みを買って報復されようと、学院から居場所を失おうと、彼らは少しも気にしなかった。


約束はしていない。

身体に触れたこともない。


だから誰にも罪を問われない。

ケイトは何度も王子や側近たちを諫め、少女たちを守ろうとした。


しかし、そのたびに失敗した。

公爵令嬢であり、王子の婚約者でもある彼女には、学院を離れなければならない務めも多く、一年の半分ほどしか学院にいられなかったからだ。



やがて、その標的は橘杏にも向けられた。

貴族らしからぬ無邪気な振る舞い。

世間知らずな雰囲気。


それだけで第二王子たちは興味を抱いた。


しかし橘杏は、貴族の少年たちなど眼中になかった。

持ち前の身体能力で、彼らの誘いも追跡も軽々と振り切ってしまう。

その拒絶が、かえって彼らの闘争心に火をつけた。


周囲の令嬢たちを放置し、長年の婚約者であるケイトさえ顧みず、橘杏の気を引くことだけに夢中になる。


彼らは平然と甘い言葉を口にした。


「君みたいな子は初めてだ。」


「きっとすぐに僕を好きになる。」


「安心して。君は僕のものにしてあげる。」


彼らに憧れる少女たちは橘杏を激しく嫉妬し、言葉で脅し、時には暴力まで振るうようになっていった。


そんな橘杏の前に現れたのが、ケイトだった。


誰もが、婚約者として橘杏を責めるのだろうと思っていた。


だがケイトは違った。

叱ることも、警告することもなく、ただ橘杏を自分の傍へ連れて行き、自分の友人たちの輪へ自然に迎え入れた。


読書会では文字の読み書きから学問まで教えられ、

茶会では立ち居振る舞いや紅茶の飲み方を覚え、

舞踏会ではケイトに導かれ、ぎこちなかった足取りは少しずつ優雅な舞へと変わっていった。

 


橘杏はケイトに恋をした。

決して口にできない恋だった。


ケイトには未来の王太子妃としての務めがあり、ときおり学院を離れる特別な任務があり、公爵家と王家を結ぶ婚約があった。


たとえ橘杏が男だったとしても、第二王子には敵わなかっただろう。


それでも橘杏は、ときどき夢を見る。

もしかすると、ケイトも自分と同じ気持ちなのではないか、と。


婚約者のいない男子を紹介することもできたはずなのに、ケイトは一度もしなかった。親しい令嬢は他にも何人もいるのに、放課後の誘いを一番多く受けているのは橘杏だった。

それが単なる優しさなのか、それとも別の感情なのか。


橘杏には最後まで分からなかった。


夏休みになると、ケイトは橘杏の招待を受け、辺境にあるケイソ男爵家を訪れた。


侍女たちが慌てて見守る中、二人は山あいの小川へ飛び込み、裾をたくし上げ、水を掛け合って笑い転げた。


学院で見せる上品で穏やかな微笑みとは違う。

その日、ケイトは心の底から楽しそうに笑っていた。


その笑顔に見惚れた橘杏は足を滑らせ、川へ倒れそうになる。


ケイトは反射的に手を伸ばし、橘杏はその胸へ飛び込むように倒れ込んだ。

片腕が背中を支え、もう片方の腕が膝裏を抱える。

その瞬間になって初めて、橘杏は自分がお姫様抱っこをされていることに気づいた。

目の前にあるケイトの顔を見つめた途端、耳元では雷鳴のように心臓が鳴り響いていた。


その後、橘杏はケイトに招かれ、公爵家の領地も訪れることになった。


公爵夫妻には古き名門らしい威厳があったが、橘杏にも使用人にも分け隔てなく接してくれた。

そこで初めて、橘杏はケイトが養女であることを知る。黒い巻き髪と褐色の肌を持つケイトは、色白の公爵夫妻とはあまり似ていなかった。


屋敷では公爵家の末息子とも出会った。

愛らしい少年で、いつもケイトの後ろをついて歩いている。一方、長男は第二王子の側近となっており、ほとんど領地へ戻ってこないらしい。


弟は橘杏にこっそり耳打ちした。


「お姉ちゃんね、かくれんぼすごく下手なんだよ! すぐ道に迷っちゃうの!」


「ちょっと!」


ケイトは顔を真っ赤に染めた。


「大丈夫。私、前から気づいてたから。」


橘杏は笑って答えた。

知り合って間もない頃から、橘杏はケイトがひどい方向音痴であることに気づいていた。

廊下では案内板を何度も見上げ、人の動きを観察しながらようやく目的地へ辿り着く。だから橘杏は、いつも気づかれないよう自然に先を歩き、さりげなく道を示していた。


弟はさらに声を潜める。


「これ、内緒だよ。お姉ちゃん、あの王子のことなんて全然好きじゃないんだ。」


「橘杏お姉ちゃんみたいに話をちゃんと聞いてくれないし、道に迷った時も助けてくれないんだから。」


その様子を見ていたケイトは、くすりと笑った。


遊びで乱れた弟の襟を整え、外れかけたボタンを留める。

続いて、茂みに隠れて乱れてしまった橘杏の髪にも手を伸ばした。耳の後ろへ髪をそっと流し、美しい髪飾りとリボンで結び直していく。

橘杏は、自分の耳まで真っ赤になっている気がした。


やがて三人が再び庭でかくれんぼを始めようとした、その時だった。

橘杏は、公爵夫人が夫へそっと囁く声を偶然耳にする。


「……あの子たちのどちらか一人でも、男の子だったならよかったのに。」


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