砕骨の未亡人
さらに衝撃的な話が飛び出した。
さすがのロイも、驚いたようにタチバナさんを見つめる。
「そんな過去があったなんて、聞いたこともなかったな。」
「もうずいぶん昔の話だからね。私は子供の頃から童顔だったし、実は三十年前にあなたに拾われた時には、もう四十歳近かったんだよ。」
その場にいた全員が息を呑んだ。
驚きの視線が、四十代にしか見えないタチバナさんの顔へと集まる。
タチバナさんは同年代の女性の中でも可愛らしい顔立ちをしており、小柄な体格だった。しかし、その一方で怪力で知られる冒険者でもある。服から覗く手足には無数の醜い傷跡が刻まれていた。
本来ならば、そこまで深い傷は筋肉や関節の動きを損なっていてもおかしくない。
それなのに彼女は、屈強な男でも持ち上げられないような重量物を軽々と運んでしまうのだ。
「若く見えるでしょう? ちゃんと理由があるの。」
そう言って彼女は微笑んだ。
一方、ロイは眉をひそめる。
「私から見れば人間なんて皆同じだ。確かに、お前はこの数十年ほとんど変わっていない。最初はパール王国特有の美容魔法か何かだと思っていた。」
その時だった。
一人の年配の冒険者が勢いよく立ち上がった。
あまりの勢いに、座っていた椅子が後ろへ倒れる。
周囲の怪訝な視線など気にも留めず、彼は目を見開き、まるでおぞましい怪物を見るような表情でタチバナさんを見つめた。
「溶けた金属の中から姫を救った女……パール王国……そうか、もっと早く気付くべきだった……。」
彼は震える声で言った。
「お前は――『砕骨の未亡人』、タチバナ・アンだ。」
老冒険者は全身を震わせながら彼女を見つめる。
「両親から聞いたことがある……! お前は『涙の聖女』を殺した者たち全員に、砕けた四肢を抱えたまま生涯を送らせたんだ! 今でもあいつらは生きている! ベッドの上で身体を腐らせながら、身動きも取れず、それでも死ぬことすら許されないまま!」
「それは私だけの功績じゃないよ。」
タチバナさんは静かにその冒険者を見た。
その瞬間、彼女の表情が変わる。瞳に宿った冷たく張り詰めた何かが、歴戦の冒険者たちですら思わず息を呑ませた。
「豊穣の女神が愛した娘を殺したのなら、それ相応の代償を払うべきでしょう。」
静かな声だった。
だが、その場の誰もが身震いした。
「ケイトが死んでから、あの土地には一度も雨が降らなくなった。」
「そして罪人たちもまた、死という救いを与えられる資格を失った。」
しばし沈黙が流れる。
やがてタチバナさんは、目の前の男へ視線を向けた。
「ギルド長があなたを連れてきた日から、気付いていたよ。」
彼女は柔らかく言った。
「フェドソン家の五男。」
老冒険者の顔から血の気が引いた。膝をつきそうになるほど身体が揺れ、その姿は急に老け込んだように見えた。
「ちゃんと、あの日の約束を守ってくれていたみたいだね。」
「……はい。」
フェドソン家の五男は震える手で椅子を起こし、ぎこちなく腰を下ろした。
うつむいたまま、それ以上は何も言わない。
「それならいい。」
そう言うと、タチバナさんは再び笑った。
先ほどまでの冷酷さはまるで幻だったかのように消え去り、場の空気が少しだけ和らぐ。
「でも『砕骨の未亡人』なんて酷い呼び名よね。」
「『涙の聖女の未亡人』とか、『聖女を救った女英雄』とか、もっと格好いい呼び方があったでしょうに。」
人々がざわめき始める。
冒険者たちは改めてタチバナさんを見つめた。
まるで初めて見る人物を見るような、不思議な視線だった。
「俺、『砕骨の未亡人』って作り話の都市伝説だと思ってました……。」
ミリアが驚いたように呟く。
「じゃあ、パール王国の蘭花平原が神罰を受けたって話も本当なんですか?」
「子供の頃、『砕骨の未亡人』の話を読んで何日も眠れなかった覚えがある。」
「どうやって一人で王子と側近たちの骨を砕いたんだ?」
質問が次々と飛ぶ。
だが、タチバナさんは答えなかった。
ただ一人、エイデンだけを見つめていた。
「溶けた金属の事件が起こる前、私とケイトは一度も互いに想いを伝えたことがなかった。」
「彼女は望まぬ婚約に縛られ、私は身分に阻まれていた。」
彼女は懐かしむように目を細める。
「私たちはずっと待っていた。」
「ずっと、ずっと。」
「奇跡が起こる日を。」
「そして最後には、炎の中で互いを失いかけた。」
エイデンは黙って聞いていた。
「あなたは私よりずっと幸運だよ、エイデン。」
「そのお嬢さんには今、婚約者がいない。」
「ティムの話では、向こうも少しはあなたに好意を持っているらしい。」
「だったら勇気を出して、彼女を知りなさい。大切にしなさい。」
「機会を逃してはいけないよ。」
エイデンはその言葉を聞き、考え込んだ。
「去年のうちに告白していればよかったのにね。」
ティムが言った。
彼は暗黒の森の地図を眺め続けており、まるで会話に興味がないようにも見える。
「え?」
エイデンは首を傾げる。
「去年なら、パール王国の第三王子はまだ療養中だった。」
「アルジー家もジャスミーヌ様との接触や婚約再締結に積極的じゃなかったし。」
「その時に勇気を出していたら、今頃結婚していたかもしれない。」
「やっぱり泣きながら跪くべきだったんだよ。」
ノーマンはまだ諦めていなかった。
「お願いだから父さんは黙っててくれる?」
エイデンは本気でそう言った。
そのやり取りに周囲から笑いが漏れる。
しばらくして、タチバナさんは指輪に触れた。
何十年という歳月を経ても、そこに嵌められたダイヤモンドは永遠を誇るかのように輝いている。
「聞きたいなら、私とケイトの話をしてあげる。」
彼女は静かに言った。
「それは、一人の王子と、公爵令嬢と、男爵令嬢の物語。」
「そして、女神に祝福された一人の聖女の物語。」
淡い微笑みが浮かぶ。
けれど、その瞳にはどこか遠い悲しみが宿っていた。
「ただし、先に言っておくね。」
「これは――幸せな結末を迎えた物語じゃない。」




