婚約破棄が残した黒い残響
「ソロモン皇太子の息子たちが、この二年ほどでいろいろ問題を起こしていて、第四側妃まで迎えようとしているって話は聞いていたけど……まさか、そこまで滅茶苦茶だったなんて。」
エイデンは驚いたように言った。
「つまり、自分で認識している性別と、生まれ持った性別が違う……そういう話なの?」
「そんな単純な話ではないの。宮廷内の権力争いのせいで、ヴィクトリア側妃は息子を幼い頃から女の子として育て、ある程度成長してから本来の身分に戻すつもりだったらしいの。」
その話を聞いて、エイデンは自分の境遇を思い出した。
けれど、男の子を女の子として育てるという発想だけは、どうしても理解できなかった。
「それじゃ、あの人が傷つくだけじゃないか?」
「どうしてそう思うの?」
「長男の王子なのに、外では“秘密の王女”として堂々と振る舞うんだろ? 本当に圧倒的な実力で名を轟かせでもしない限り、最後には笑いものになるだけだ。」
「……私も、今でも理解できないわ。」
ジェスミンは小さくため息をついた。
「もしジェンナの正体がジェイドだったなら、あの三人とは何だったんだ?」
エイデンは首を傾げる。
「ジェイド本人からすれば、政治的・経済的な後ろ盾を得るための交渉だったみたい。でも、それ以外の感情が混じっていたのかまでは分からない。」
少し間を置いてから、ジェスミンは続けた。
「ただ、後から私が調べた限りでは、ジェイドの侍女だったマリーが、ずっとジェイドとエルンストを煽ってセリーナを追い詰めていた。そして最後には、あんなことになってしまった……。残念ながら、彼女もジェイドと一緒に姿を消してしまったけれど。」
ジェスミンの瞳に、鋭い光が宿る。
「それで、ジェイドが男性だと分かった途端、第三王子たちは婚約をやり直そうと言い出したのか。」
「ええ。」
ジェスミンは静かにうなずいた。
「私はセリーナのことを知って、すぐに迎えに行った。運よく近くで見つけられたけれど……傷はとてもひどくて、その後もしばらく家で療養することになったの。」
「でも、エルンストは何度も彼女に会おうとしてきたわ。『あんなことがあっても愛している』『妻として迎えたい』って。」
「セリーナさんのご家族は、その結婚を望んだの?」
「最初はね。でも、セリーナがどれほど男性を恐れるようになってしまったかを見て、考えを変えたの。」
ジェスミンはゆっくりと言葉を選ぶ。
「もし結婚しても、名誉を得るのはエルンストだけ。セリーナは傷を負った女性として人々に知られ、形だけの妻になるだけだった。」
その言葉のあと、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。
エイデンは、冒険者として何度も似たような光景を見てきた。
依頼を果たし、弱者を傷つけた犯人を捕らえ、被害者――生きている人も、遺体となった人も――を家族の元へ送り届ける。
歓声と感謝を受け、ギルドへ戻り、その日の勝利を祝う。
だが、それで終わりではない。
依頼は終わっても、生き残った人々には、「生き続ける」という終わりのない務めが残される。
傷を負った者は、まるで童話の人魚姫のように、一歩踏み出すたびに痛みを感じながら、それでも未来を歩き続けなければならない。
家族もまた同じだった。
再会を喜んだあとには、愛する人が傷によって少しずつ変わっていく姿を見守り続けなければならない。
もし帰ってこなかったなら、遺された者の心には大きな穴が空く。
その穴が時とともに埋まっても、跡だけは決して消えない。
エイデンは今でも覚えている。
かつて父と救い出した少女の暮らす村を再び訪ねたことがあった。
しかし、その少女はすでに自ら命を絶っていた。
唯一の娘を失った両親も、後を追うようにこの世を去ったのだ。
「そのあと……」
ジェスミンはグラスへ視線を落とした。
アイスクリームと紅茶は、もう淡い茶色へと溶け合っている。
「その後、エルンストは残りの二人の力を借りて、セリーナの部屋へ押し入ったの。」
「そのせいで、セリーナは完全に心を壊してしまった。自分を傷つけようとするほどに。」
「もう二度と同じことを起こさせないために、私はセリーナのご家族と何度も話し合った。その頃ちょうど、豊穣の女神の巡礼の広告を見つけたの。」
「だから二人で巡礼に参加したんだ。」
「ええ。」
ジェスミンはうなずく。
「一か月の旅なら、あの人たちから離れられる。その間に、母とセリーナのご両親が戸籍の手続きを済ませてくれたの。」
「戸籍の手続き?」
「そう。あなた、どうして私がセリーナのことを全部決めているのかって聞いたでしょう?」
「今は、セリーナの後見人が私だから。」
「セリーナは私より二歳年下なの。成人するまでは、エルンストは後見人である私を通さずに、彼女の情報を得ることはできない。」
そんな方法があるのか。
エイデンは思わず固まった。
法律をそんなふうに使えるなんて、考えたこともなかった。
分かったようにうなずきながらも、頭の中では今聞いた話を必死に整理している。
つまり、セリーナはジェスミンの養女みたいなものなのか?
じゃあ、もし僕がジェスミンと結婚したら……
セリーナは僕の養女にもなるのか?
「これからは僕も、一緒にセリーナさんを大切に支えていくよ!」
頭が真っ白になった結果、口から飛び出したのはそんな言葉だった。
「それは、たぶん……いえ。」
ジェスミンは一瞬だけ言葉を止め、それから小さく笑った。
「……ありがとう。」
どこか気まずそうな彼女を見て、エイデンはますますどう返せばいいのか分からなくなる。
慌てて別の話題を探した。
「でも、エルンストは公爵家の権力で君を押さえつけたりはしないの?」
「母方の祖父の家は、それなりに力があるの。それに、エルンストの先祖とは少し因縁があってね。だから、あの人も私には手を出せないの。」
「そうだったのか。」
エイデンは納得したようにうなずいた。
ジェスミンの家とエルンストの一族にどんな因縁があるのか、少し気にはなった。
けれど、今日はもう十分だ。
家同士の昔話は、また今度聞けばいい。
セリーナのことを話すジェスミンは、エイデンがこれまで見てきた中で、一番苦しそうな表情をしていた。
――それに。
エイデンにも、彼女へ話さなければならない自分自身の物語があった。




