母の願い、息子の決意
翌朝、エイデンが目を覚まし、部屋の扉を開けると、母――ヒルダがソファに腰掛け、ゆったりと書類に目を通していた。
「おはよう、早起きの小鳥さん。」
幼い頃のあだ名でそう呼びながらも、ヒルダは顔を上げることなく書類をめくり続ける。
「久しぶり、母さん。」
「ええ。今回はヒューゴとマナの期末試験があったから、二か月ぶりになってしまったわね。」
「みんなは?」
「まだ寝てるわ。昨日はノーマンと一緒にボードゲームを始めたら決着がつかなくて、夜中まで遊び続けていたもの。」
エイデンは向かいのソファへ腰を下ろした。
昨日ジャスミンからもらった桃色の百合が、きれいに整えられ、上品なガラスの花瓶に飾られているのが目に入る。
そんな彼の視線に、ヒルダが気づいた。
「あの花瓶はノーマンが探してきたのよ。昨日はずっと拗ねていて、『こんなに長く一緒にいるのに、僕は一度も花をもらったことがない。頭に花を挿してもらったことすらない』なんて言い出して。」
「寝る直前まで、『息子に負けるなんて許せない。怒る。家出する』って騒いでいたわ。」
「ふふん。」
エイデンは得意げに胸を張る。
「それで、ジャスミンさんは何て返事をしてくれたの?」
ヒルダが尋ねる。
エイデンは少し照れながら答えた。
「僕のことも好きだって。」
ヒルダは一瞬ためらうように口を閉ざした。
鮮やかな桃色の百合を見つめ、数秒ほど静かにしてから、再び口を開く。
「ジャスミンさんは、私たち家族の事情を知っているの?」
「きっと何か察してはいるのでしょうけれど、本人が推測するのと、あなた自身の口から話すのとでは、まったく意味が違うわ。」
「家に来ないかって誘ったんだ。でも、真珠王国でやるべきことを全部終えてからにしたいって。」
ヒルダは静かに頷いた。
「責任感のある子なのね。それなら安心だわ。」
ヒルダは目を細め、遠い昔を思い返す。
「ノーマンのことでは、私は焦りすぎてしまった。」
「あの時、もっと先まで見通して、もっと全体を見渡せていたなら……今頃は家族みんなで暮らせていたのかもしれない。」
そう言って、小さく首を振る。
「……まあ、今さら悔やんでも仕方ないわ。」
「それで、あなたはこれからどうするつもり?」
「もうロイ会長には話してあるよ。前に母さんと話した通り、最後の依頼を終えたら、ヘクトール伯爵家が持つ子爵位を継ぐ。それと、父さんの実母が持っていた領地も引き継ぐ予定なんだ。」
「そのあとで、正式にエルチ家へ結婚を申し込みに行く。」
「いいわね。」
満足そうに頷いたヒルダだったが、すぐにエイデンの言葉に引っかかるものを覚えた。
「……最後の依頼って、何?」
「昨日の夜、ロイ会長から連絡があったんだ。」
「ディマン王国がギルドへ公開の緊急依頼を出した。勇者ヨウタの『魔物の王』討伐に協力してほしいって。それに、父さんを名指しで指名してきた。」
ヒルダの表情が険しくなる。
「魔物の王……?」
「ディマンが、ギルドへ公開依頼を出したですって?」
ここ数年、ノーマンは《錆の冒険者ギルド》でも指折りの実力者として、何度もエイデンと共に勇者ヨウタの魔物討伐へ同行していた。
しかし、それらはすべてディマン王国の威信を守るため、水面下でギルドへ依頼されていたものだった。
それが今回は、公に協力者を募らなければならないほど切迫している。
状況の深刻さは、それだけで十分に伝わってきた。
「この十数年間、ギルドのみんなには本当に支えられてきた。」
「だから、この危険な戦いでは、少しでも恩返しがしたいんだ。」
エイデンは真っ直ぐな眼差しでそう言う。
それを、自分なりの最後の別れと恩返しにしたいと思っていた。
ヒルダは長男を真剣な表情で見つめる。
「そこまで決めているなら、私は止めないわ。」
「でも、一つだけ忘れないで。」
「あなた自身を守るためなら、どんな手段を使ってもいい。」
「たとえ、それが最後の切り札になったとしても。」
「分かってる。」
エイデンは母の言葉の意味を理解していた。
それは、彼が赤ん坊だった頃から持っている、あの特別な才能のことだ。
その才能があったからこそ、ノーマンは幼いエイデンを抱いてヘクトール伯爵家を離れ、この遠い土地で育てることを選んだのだった。
「セイレン男爵家のことなら心配しなくていいわ。」
「兄はもうほとんど影響力を失っているし、父も同じよ。」
ヒルダは満足そうに微笑む。
「じゃあ、ヘクトール家の屋敷で暮らしているあの夢想家と、かつて彼が心から愛した、最近ディマン王国でずいぶん騒ぎを起こしている銀の妖精姫は?」
「心配はいらないわ。」
ヒルダは軽やかな口調で答えた。
「最後には、それぞれが自分で選んだ場所へたどり着くものだから。」
そして優しく微笑む。
「さあ、大切な女の子のところへ行ってきなさい。」
「ほかのことは、私が全部片づけておくから。」




