切迫2
うっすらと涙が滲んでいく。彼がこの場にいたならば、ロレンツォにこんな真似をさせなかったに違いない。
――死神。どこにいるの。
――お願い、助けて。
迫る唇を必死に避けながら心のどこかで念じていると、ふと懐かしい気配が傍らにやってきた気がして。ロレンツォの力が一瞬、緩んだように思えた。目の端に黒いものが横切ったように思えた。
ヴィオレッタはその隙に、手でベッドボードを探る。棒状のものを引っ掴み、無我夢中で前に突き刺した。
「ぎゃああああああ!」
右目を押さえたロレンツォが身体をのけぞらせる。彼の目にはレース針が刺さっていた。
「あ……」
彼女は唇をかみしめたが、身体を翻して、窓辺へ走る。ベランダに出た。下には暗い水路が潜んでいる。その黒い海に飛び込んだ。
水がみるみるうちに服に染み込む。思ったよりも水の流れが速い。流されて、身体が沈んでいく……。ゴンドラ乗りのように水で泳ぐ訓練をしていないヴィオレッタは、上下左右がわからなくなった水中でもがいて、もがいて。……こぽり、と最後の息を吐きだした。
――ねえ、死んだ?
――おねえさま、死んだ?
倒れ伏したヴィオレッタに、明るい声が……聞き覚えのある声がかかる。
カルロッタが、にこにこしながらその場に立っている。
「ねえ、死んだ? ねえ、死んだ?」
ヴィオレッタはこの問いには何か意味があるように思えてならなくて、「死んでいないわ」と答えた。
「ねえ、おねえさま。カルロッタの命《蝋燭》を奪っていきているのは、どんな気持ち?」
厳密には、ヴィオレッタの意思で「命の蝋燭」をもらったわけではなかったが、黙り込む。
するとヴィオレッタの首に白魚のような手がまとわりつく。
「それならあげた意味もないじゃない? 一緒に死にましょうよ、おねえさま。おねえさまもカルロッタが好きでしょう? だって――カルロッタが死んでからも、一度たりとも忘れていないもの。それって、愛されているってことでしょう? 愛するふたりは一緒にいなくてはいけないの」
首に回った手がゆるやかにしめつけを強めてくる。
「カルロッタはおねえさまを迎えにきたのです。ずっとここで待っていました。ほら、地獄の門がすぐそこに……」
なぜか、業火に包まれた黒くて威厳のある門が見えた。ごつごつとした彫刻が施され、開いた門の向こうから、何も聞こえてこないのが不気味だった。
「カルロッタ……。あなた、私を呪っていたのね」
どうしてか、そんな言葉が出て来た。カルロッタは無邪気に頷いた。ああ、毒のあるかわいらしさとは、カルロッタのことを言うのだろう。
夢見心地の彼女は、もう休みたいと思った。ヴィオレッタにはヴィオレッタの愛があるけれど、方々から差し出される「愛」に疲れてしまったのだ。
でも……。ヴィオレッタはカルロッタの非力な手をはがした。
幼少の頃からいた寂しい死神を思い出した。幸せになってほしい、と彼が言っていたから、ヴィオレッタは今も生きていられたのだと思う。ヴィオレッタの死を願うカルロッタの呪いとは、別の形の呪いだ。ただし、彼の呪いは祝福だった。
「さようならしましょう、カルロッタ。私と血の繋がったたったひとりの姉妹だけど、だからこそ、離れなければならないの。同じ日、同じ時間、同じ場所に生まれてしまったのが、不幸のはじまりだったわね」
正妻の子と愛人の子。取り換えられた姉妹。もしも正しく育てられていたならば、もっと違う形で関係を持てたのかもしれない。カルロッタの異常性を止められていたかもしれない。
「おねえさま……?」
「姉妹になれなくて、ごめんなさい。私はまだ生きるわ」
遠くで、カルロッタが茫然と立ち尽くしていた。すぐ近くにいたはずの彼女が、あんなに遠くに。
「今度こそ、復讐を終わらせるわ」
執着するのも、ここまで。もうカルロッタのことは思い出さない。
そう思うと、ぐんぐんとカルロッタとの距離が離れていく。
カルロッタが、最期、寂しそうに「おねえさま」と呟いた。
――もう、すっかり、あの蝋燭《命》はおねえさまのものなのね……。
……ヴィオレッタは、水面に顔を出していた。
「大丈夫か!」
夜闇の中で、だれかの手が差し出されて掴む。ずぶぬれの身体が引っ張り上げられる。
ヴィオレッタはラザロの海にいた。月明りが近くの大聖堂や宮殿の影をぼんやりと浮かび上がらせている。海に浮かぶゴンドラがヴィオレッタを助けたのだ。
背中を叩かれ、ごほっ、ごほっ、と水を吐き出す。次は背中を優しくさすられて、ヴィオレッタの鼓動が跳ね上がる。
「また……助けていただきましたね。ありがとうございます」
「それは、いい」
体温を失った身体に、男の上着が着せかけられた。また礼を言って、上着を掻き合わせる。
「アルトゥル、さんは、どうしてここに……?」
「落ち着かなかったからだ」
ゴンドラ乗りの男は言葉少なに答えた。彼は夜でも器用にゴンドラを操り、ラザロの町にゴンドラを戻していく。
「屋敷に、送ればいいか?」
ふいに尋ねられて、ヴィオレッタは慌てて首を振る。
屋敷には、まだロレンツォがいるかもしれない。それに、ジャンも……。これからのことを思うと、不安になる。
「ごめんなさい。訳あって、屋敷には戻りたくなくて……」
「わかった」
ゴンドラが方向を変えた。ヴィオレッタは町中でゴンドラを下ろされて、手を握られながら青年の後をついていく。死神と同じ顔が、温かな手をしているのが不思議だった。
青年はとある建物に入り、屋根裏部屋に彼女を連れて来た。荷物は少ないものの、生活感のある部屋だ。彼が住む部屋だとわかった。
「椅子は置いていないから、そこに座って」
言われるがままにベッドの縁に座る。少し距離を開けて、青年も座る。清潔な布が差し出され、ヴィオレッタは髪や肌が見える部分を拭いた。
「女物の着替えは置いていないんだ。男物のシャツやズボンなら用意できるが、どうする?」
「お借りします」
着替えを用意した男はヴィオレッタが着替えている間だけ部屋を出ていき、着替え終わったヴィオレッタの合図でまた戻ってきた。男物の服を着た彼女を見て、男はわずかに怯んだ様子を見せたが、先ほどと同じようにベッドの縁に腰かける。火のついた蝋燭に照らされた頬が赤らんでいた。
「……聞いてもいいか。君は、なぜ水に落ちたんだ」
「それは。長い話になるかもしれませんが、それでもいいのですか」
「ああ」
人びとが寝静まる時刻であったが、ヴィオレッタはぽつぽつと自分にあった出来事を話した。
大公からされたプロポーズ。激高するジャン。彼女に迫るロレンツォと、それから逃れるためにしたこと。夢うつつに見たカルロッタ……。
思い出すと、手が震える。もう、レースは編めないかもしれない。
震えが止まらない両手を見つめていると、上から大きな手が包み込んだ。
驚いていると、「すまない」と声がして、ぱっと離される。
「嫌かもしれないが、そうした方がいいかもしれないと、思った」
「いえ。大丈夫です。……あの、そうしてください」
「わかった」
もう一度、手に包まれる。温かくて、泣きそうだった。
もしかしたら、彼が死神だったとしても、そうでなかったとしても、どうでもよいのかもしれない。はじまりは、顔が同じだったことでも、今ではもう、彼自身を好ましく感じている。こんなことになるなんて思わなかった。
「実は、見せたいものがある」
ややあって、手を離し、彼は躊躇いながら、自分のポケットを探った。
見せて来たのは、色あせたレースの腕輪だ。長年経過したせいでぼろぼろにくたびれているものの、彼女には一目で自分で編んだものだとわかった。
――これは、死神に渡したものだ……。
ヴィオレッタは信じられない気持ちで、アルトゥルの顔を見る。
黒目、黒髪で、どこか異国情緒のある顔立ち。死神と違うのは、彼が生きていることと、ゴンドラに乗るために日焼けした肌だ。
「死神……」
彼女は呆然と呟いていた。




