切迫1
質素な屋根裏部屋で、ゴンドラ乗りの男は寝返りを打った。眠れない。いつものことだった。彼は寝るのがとても苦手だ。寝るたびに悪夢にうなされる。おそらく、彼がラザロに来る前の記憶「らしい」。
「らしい」と言わざるを得ないのは、今の彼が覚えていることではないし、その夢自体が荒唐無稽すぎるからだ。
――ある時の彼は、一面の荒地にいた。
――飲み水を探しに彷徨う一方で、荒地にすむ異教徒と戦った。
――死を前にするたびに、親友と愛する婚約者を思い出した。
――ある時の彼は、海近くの城で親友と、婚約者の女性と夜通し語り合った。
――ああ、幸せだ、とそう思っていた。
――これから遠くにいかなければならないが、親友に任せておけば安心なのだ。
――ある時の彼は、町から町へ彷徨っていた。
――頭は骸骨、黒い外套を身に纏い、時に黒い馬と馬車を駆り、魂を狩りにいく。
――粛々と、淡々と働くのだ。感情は凍らせた。
――ある時の彼は、英雄だった。遠征に同行した国王が彼を称え、周囲も獅子奮迅の活躍だ、英雄だとほめそやす。
――これほどの戦功を持ち帰れば、故郷の皆もきっと喜ぶ。
――裏切ったな、裏切ったな、裏切ったな!
――殺してやる、殺してやる、殺してやる!
――不貞をおかしたな、愛する人よ。
――親友を裏切ったな。
――やっとの思いで帰ってきたというのにこの仕打ち。
――許すまい、許すまい……。殺してやる!
どう、と倒れる男女の身体。ベッドの上で裸になっていたふたりの身体から血しぶきが上がる。
――ああ、信じた私も愚かだったのだ……。
自ら命を絶った。死にゆく視界に、夢のように現れた白い鳩。感情のこもらない声が暗闇に響く。
――激情に走らなければ、後世に名を残していただろうに。
――天国も地獄も、その門を開くまい。
――そなたは、神を裏切った。
長い間、心に凍えるような寒さを感じていた。だが、その中にも木漏れ日のような優しさが彼を温めてくれることもあったのだ。
「死神」
自らの差し出された小さな手。取ってしまえば、彼女が凍えてしまうからと躊躇した。本当の名前はあったけれど、告げられなかった。
彼女は自分以外と幸せになるべき人間だったから。
自分は死神だ。彼女の幸せを見守っていられればそれでよい……。
「ヴィオレッタ」
ゴンドラ乗りの男は、梁がむき出しの天井を眺めながら呟いた。途端に、胸を押さえる。心の中を淡い波が通り過ぎていく。囁きかけるような、優しい波が。
夢で手を差し出したのは、少女だった。
先日から彼に何かと関わってくる女性の名は、ヴィオレッタ。勝手に零れてしまうその名前に、焦がれるような響きがある。
「ヴィオレッタ」
彼女が話したことと、自分の夢の記憶が一致している気がした。
そう、彼は記憶がなくなって、彷徨っていたところを、ゴンドラ乗りだった老人に拾われた。彼の厚意で、乗らなくなったゴンドラを引き継ぎ、今の仕事をはじめた。老人の孫娘も彼を気に入り、とてもよくしてくれている。
今の生活に不満はない。しかし、彼の中にもたしかに空虚な穴があって、そこにぴったりとはまるだれかを探しているような気がしている。
ヴィオレッタ。彼女は危険だ。青年を知らない世界に連れていこうとしている。
彼女は人妻だ。過去には大公の愛妾だった。ラザロでも様々な噂が飛び交っている。彼女の身の上を知ったから、離れようとした時もあった。
それでも……彼女は魅力的だった。橋の上から「落ちて来た」時から。その面差しがちらついて仕方ない。
「ヴィオレッタ」
今では、彼女の探している死神が自分であるといい、と心のどこかで願っている。
「ジャン、いる?」
ヴィオレッタはラヴァンの邸宅に用意しているジャンの部屋をのぞいた。果たして、彼はいた。いないときの方が多いのだが、すぐに見つかるとは珍しい。
「あ? なんだよ」
今日はいつにもましてガラが悪い。ソファーのへりに足を乗せ、寝そべっていたジャンは、チッ、と舌打ちをしながら起き上がる。頭髪はぼさぼさ、蝋のように白い肌をし、装いは動きやすい軽装に変わっていた。
「あなた、大丈夫?」
「大丈夫って、何がさ」
最近、ジャンの様子がおかしい。彼はもっと飄々としていたはずなのに、先ほどの大公との会話では激高し、大公にも食ってかかっていた。普段なら小馬鹿にするだけで済んでいたところだ。
つっけんどんに返されて、彼女は慎重に言葉を選んだ。
「あなたが、何かに悩んでいないかと思って。だっていつもにないことばかりするでしょう。以前なら、私の様子をこっそり観察したりすることもなかったし、最近、私の外出についてくることも頻繁になってきた気がする……。ねえ、ジャン。本当にあなたは、何のために私傍にいるの」
「は!」
ジャンは声高に嘲笑った。敏捷な仕草で立ち上がり、ヴィオレッタを壁際まで追い詰める。近づけば、ジャンの独特の……生者ではありえない死の香りが鼻につく。
「そりゃ、もう、決まってるさ。ご主人様のためだよ! 疑問に思うならさ、お嬢さん。教えてやるさ」
有無を言わさず、両目を冷たい手が覆う。何も視えない暗闇になる。
まるで一瞬の出来事だった。
ヴィオレッタがジャンの手をどかした時には、景色が一変していた。
ギシ、と軋むのは、勝手知ったる彼女のベッド。その上にヴィオレッタは膝をついて座っている。顔を上げた彼女の目に映ったのは、招いてもいないはずの男の姿だ。同じようにベッドに上がり、息すらかかりそうな位置で彼女を見つめているのは。
「……ロレンツォ様」
「こんばんは、ヴィオレッタ。ジャンの手引きでね、入らせてもらったよ」
ロレンツォの視線が部屋の隅に行く。壁にもたれたジャンがつまらなさそうにベッドの男女を見つめていた。
「ジャン、どういうこと」
「あんたは正しくロレンツォと結ばれるべきだろ? それが神様のおぼしめしだ。妹の運命をそっくり受けついでいるんだからな。幸運じゃないか、将来の元首の夫人だぜ? 悪くねえ結末だろ」
「……ジャン、おまえはもう外に出ていなさい。彼女と二人きりにしてくれ」
「おっと、そうだった」
ロレンツォの警告にジャンはにっこりした。
「じゃ、『運命』を愉しんでくれよ、ヴィオレッタ」
軽い足取りでジャンは出ていく。扉が閉まるまで確認したロレンツォは、あらためてヴィオレッタに向き直り、「やり直させてくれ」とヴィオレッタの頬に片手を伸ばす。
彼女はわずかに身を引いた。彼女の意思を悟ったロレンツォは眉間に皺を寄せる。その様も絵になった。ラザロ中の乙女がため息をつきそうだ。
「……おやめください。今のあなたなら他の素晴らしい女性をいくらでも選べます」
「僕が選ぶべき人はヴィオレッタ、あなたです。どうか、一度は思い人を間違えてしまった私を許し、受け入れてほしい。そのためならなんだってします」
「昔のことは終わったことです。お母さまの指輪もお返しできましたし、カルロッタももういません」
「今更、大公の物になるとでもいうつもり? あなたは大公と別れ、ラザロに帰ってきたはずだ」
昼間のやりとりを、ジャンがロレンツォに話したのだろう。
「ラザロにいるのは、仕事の拠点をこちらにも置いているからです」
ロレンツォは、ヴィオレッタの恋人ではない。どうして責められるのか、ヴィオレッタにはわからない。
「では、あのゴンドラ乗りですか? 最近、あなたがご執心だという……」
「そこまでジャンは報告しているのですか」
「そんなことをせずとも」
ロレンツォは、ほの暗い笑みを刻む。
「あなたのことは人に見はらせています。時々、見失うこともありますが……。カルナヴァルで出会ったのも、偶然ではありません」
カルナヴァルで尾行されたことを思い出す。あれはロレンツォがさせたのだ。
「ロレンツォ様。あなたはあの子の夫でした。そんな方と私が結ばれたら、世間がどう思いますか。それは、私自身もあり得ないことと思っています」
「ヴィオレッタ」
肩が押された。バランスを崩した上半身がたやすくベッドに沈み込む。
ロレンツォが彼女を覗き込み、鎖につないで首から下げた指輪を見せる。
「もう一度、指輪を受け取ってくれないだろうか」
ヴィオレッタはすぐに断ろうと思った。しかし、ロレンツォの目を見て、今は言うべきでないと考え直す。
「正直なところ、昔、あなたに指輪を渡された時、人生に一筋の光が差したように思いました。あなたに救われた時もあったのです。……それももう、過ぎ去りました。お互いに、前を向きましょう」
「それはできないよ、ヴィオレッタ」
ロレンツォの口調が崩れた。まさか、彼はこのままヴィオレッタを「征服」するつもりなのだろうか。気品ある貴公子だった彼が。
ロレンツォの変貌ぶりに戸惑いが隠せなかった。何が彼を変えたのだろう。
「ロレンツォ様。あなたは……ジャンとどういう契約を結んだのですか」
『もう、あんたならわかるんじゃねえか?』
別のところから声が響く。ジャンが戻ってきたのだ。
ジャン、と咎める声がロレンツォから発せられるが、まァまァ、とジャンはこつこつ、と部屋を歩き回る足音を立てる。
「ヴィオレッタ、わかるだろ。愛さ。ロレンツォはあんたを手に入れるために契約したんだ。このお坊ちゃんは、人が良いものだから限界まで待っていたが、とうとうしびれを切らしたのさ。死後の魂を差し出してな! すべては愛のためさ。愛、愛、愛……クックック。人を狂わせるのはいつも愛なんだよなァ」
さあ、どうする?
ジャンはゆっくりとヴィオレッタの顔を覗き込む。凄絶な笑顔に、身が凍る思いだった。ヴィオレッタはいつの間に、彼にここまで「恨まれていた」のだろう。
「こいつを救ってやれよ。死神と契約した者同士だろう? 初恋を叶えさせてやれよ。じゃないとかわいそうじゃないか……せっかく、輝かしい未来も栄光もすべて投げ捨てたのにさ」
今度は、ロレンツォもジャンの言葉を邪魔しなかった。そもそも、彼はヴィオレッタを見下ろしているばかりだ。
――もしかして、ジャンは私にだけ聞こえるように話している……?
彼女の思考がわかったのか、ジャンはにやっと笑ってみせると、手をひらひらと振ってまた消えた。
「ヴィオレッタ。口づけをさせてほしい……」
言葉ばかりはしおらしく、しかし腕は強引に、ロレンツォが覆いかぶさってくる。待って、と言いかけた言葉は押さえつけられ、抵抗する身体は男性の力には抗えない。
しかし、このまま流されるわけにはいかなかった。このままロレンツォを受け入れてしまっては、心のうちを打ち明けてくれた大公に申し訳が立たない。そして、アルトゥルにも逢えなくなる。選択すら、できなくなる。
――死神……。




