死神と乙女のファンタジア
ヴィオレッタはレースの腕輪を受け取った。もうずいぶん昔に、死神にあげてから、一度も見ていない腕輪だ。死神のことだから、すぐに捨てたりしないだろうとは思っていたが、まさかこの場で目にすることになるとは。
「もしかしたら、と思っていた」
静かにアルトゥルは自分自身のことを語り出す。
「三年前までの記憶がないんだ。気づけば、この腕輪を握りしめたまま北の公国にいて、自分の名前は『アルトゥル』だとわかっていた。そのままなんとなくラザロまで流れ着いたんだ。居ついたのは、懐かしい気がしたからだ。でも、この町で私を知る人はいなかった」
……ふいに、ヴィオレッタは目を擦った。語る青年の隣に、懐かしい姿を見た。
ぼうっと浮かび上がる骸骨と黒い外套。
「夢見が悪い。死神となった夢を見る。以前、君が話してくれた死神と同じ、ではないかと思っている。腕輪はどうしても手放せなかった。大事なものだと思っていたんだ。……だが、君は昔の私を知っていた」
幻のような死神が、青年アルトゥルに重なっていく。
ヴィオレッタの探し求めていた死神だ。彼は今までもヴィオレッタを助けてくれて、一方で、人として、このラザロにいたのだ。
「ヴィオレッタ。今の私は……生きているのだろうか」
「死神……」
彼女は思わず、彼を抱きしめた。涙が止まらなかった。
「死神、ずっとそこにいたのね。ごめんなさい、気づかなくて。見失ってしまってごめんなさい。私の命を何度も助けてくれてありがとう」
凍えた心に届いてほしいと願いながら懸命に言葉を紡ぐ。
「私は、あなたが死神でも、人でもどちらでもいいの。あなたがいてくれればそれでいい。生きるのが辛いなら、一緒に分け合いましょう。喜びも、悲しみも、命も。一緒にいましょう。……私、あなたを愛しているの」
……ヴィオレッタの眼には、困ったような、照れくさいような顔のアルトゥルが映っている。ヴィオレッタが身を寄せていくと、ぎこちない仕草で彼女の肩に手を回し、遠慮がちな口づけを交わした。
彼の唇は温かった。ああ、彼は、人なのだ。死神ではなく、人となったのだ。
「私も……愛している」
ヴィオレッタはアルトゥルに強く抱きしめられた。
幸せだった。ヴィオレッタの幸福はここにある。
『あーあ、失敗したなァ』
嘯くような声とともに、ジャンが部屋の中に現われた。抱きしめ合っていたところだったから、二人ともが目を丸くする。
『なぁ、兄弟。どれだけ邪魔したにも関わらず、なにひとつ叶わなかった俺様は滑稽だと思うだろ? そこまでしてふたり一緒にいたい、とか、馬鹿みてえだ』
吐き捨てるような口ぶりだった。
『愛ってやつは偉大だよ。乙女のひたむきな愛で神の呪いが解けちまう。我が身を顧みず、禁忌を犯したあんたを、神は御赦しになられたが……俺様は許さねえよ』
幸せになる未来、なんて視ちまったからなあ、とジャンは語る。
彼は、羨ましそうだった。
「……ロレンツォとの契約をたてに、介入したのだな」
『さすが兄弟、理解が早いね。思い出したんだね。俺があんたの記憶を奪って道端に棄てたところも』
「ああ」
アルトゥルは無表情で肯定した。
「もう去れ、死神。おまえには、おまえの乙女が現われるだろう」
『はぁ、何慰めようとしているんだよ。俺様にはそんな救いなどまっぴらだね。この世の面白おかしいところをぜんぶまるっと楽しみつくしてやる』
「そうか」
彼はもう何も言わなかった。
『あー、もうやめだ、やめ。こんなつまらないことに付き合うのは嫌だね。さっさと次の土地に行ってやるんだ……』
背中を見せたジャンは、つまらなさそうに「救いなんて、いらないさ」と硬い口調で言った。
姿を消したジャンは、それからもう、二度と会うことがなかった。
翌日、ラザロでは大ニュースが飛び交った。ロレンツォが急死したというのだ。
ヴィオレッタはまさか自分のせいで、と恐れおののいたが、彼の顔には何の傷もないばかりか、死因は心臓発作だという話を聞いて不可解に思った。
ジャンが何かをしたのかもしれない。契約がある限り、ジャンはロレンツォから離れられないから。
ヴィオレッタが殺人犯だという噂がたつことはついぞなかった。
数日後。ヴィオレッタは久しぶりに着飾った。ゴンドラに乗って、迎賓館に向かう。
「行ってくるわ」
不安そうにするゴンドラ乗りに微笑んだ。
迎賓館に行き、用件を告げると、すぐに大公のいる部屋に通された。
「陛下、チェスをしましょう」
ヴィオレッタは開口一番にそう告げた。
「不思議なことを言うね」
「これがわかりやすいと思ったものですから」
差し向かいに座り、テーブルにチェスボードを用意する。
公国の宮廷にいた時のように、チェス盤の駒を動かしていく。
だがすぐに大公の顔がいぶかしげなものに変わった。探るようにヴィオレッタを見つめるが、彼女は構わず続きを促した。
「私は、もちろん真剣にやっております。手を抜いたりなどいたしません」
そう告げておいてから。
勝敗はあっという間についた。
「ヴィオレッタ。なぜ……」
大公ハインリヒは困惑していた。勝者のする顔ではなかった。
「手加減などはしたつもりはございません。これが本来の私なのです。もう私には陛下が気に入られたチェスの腕も、類まれな才能もございません」
死神と交わした契約により、滅多にない強運と溢れんばかりの才能を手に入れた。チェスの腕も、レースのデザインの才能も。
死神が三年前に消えた時から、強運も才能も、徐々に衰えていった。今ではもう、何も残っていない。工房にレースのデザイン画を渡した時に、「これで最後」と言ったのも、書き溜めていたアイディアが枯渇しただけのこと。ヴィオレッタは今、ただのレースが好きな女性だ。
「以前にも申し上げました通り、私は死神に魅入られた女なのです。大公の愛妾だった私は、ここにはもうおりません」
「だがヴィオレッタ、それでも私は……」
「陛下。お気持ちはうれしく思っております。陛下ほど、私を深く理解してくださった方はいませんでした。私の味方になってくださった、力を与えてくださった。この御恩は一生かけても返しきれないものです」
ヴィオレッタは持ってきていた書簡を出した。法律にのっとって作られた正式な書類だ。
「……陛下。私は、陛下からいただいたものをすべてお返しします。公国での財産も、権利も。お気持ちにお応えできない以上、私が持っていても仕方のないものです」
書類に目を通した大公は、ふう、と息をついた。まるで何十年も年を取ってしまっていたかのようだ。
「気持ちは動かないと?」
「はい」
「私に不満があったわけでもなく」
「はい」
「ほかに、好きな男ができたのか」
「いいえ。元々、持っていたものに改めて気づいたのです。気づいたなら、誠実でありたいのです」
「そうか……そうか」
大公ハインリヒがうなだれる。その姿を見て、ヴィオレッタは、
――自分で思っていたよりも、ずっと、この方に大事にされていたんだわ。
そう思う。気持ちに応えられない心苦しさは残るけれど、真正面から告げるしかなかったのだ。
「あなたを愛していたんだ」
「ありがとうございます、陛下。こんな私に賜ったお気持ちは忘れません」
大公と会うのはこれきりになる予感があった。元々が、遠い人だったのに、今までが奇跡のようなものだったのだ。
「陛下。おまじないをいたしましょう」
ヴィオレッタは精一杯の笑みを浮かべ、祈るように呟いた。
「次に陛下が愛する方は、心から陛下を愛してくれる方です。陛下は今よりももっと幸せになられます。陛下の統べる公国はますますの発展を遂げ、陛下の名は後世の名君として語られるでしょう。……このヴィオレッタが言うのですから、間違いございません」
「あなたは優しいな。たしかにあなたは表も裏もなく、誠実でいてくれた。だからこそ私は……あなたを手放したくないと思っていたんだよ」
ヴィオレッタが反応するより前に、大公は訊ねる。
「この書簡を受け取ったら、あなたはこれからどうするつもり?」
「生きます。何をするかわからないですが、レースを編むように、こつこつと」
「そうか。達者に暮らせ」
はい、とヴィオレッタは立ち上がる。勝負を終えたチェス盤をちらりと見る。……本当に、ひどい勝負だ。勝負にすら、ならなかった。
最後に、大公からの口づけを手の甲に受け、辞去した。
船着き場で待っていたアルトゥルのゴンドラに乗り、片付けを進めている邸宅に帰った。
数か月後、ラザロである噂が立った。
かつて公国の愛妾として名を馳せたヴィオレッタ・アマレーロ・ラヴァンは、ラザロを去って、旅に出たのだと。
彼女との交友の少なかったラザロの貴族たちの間で、彼女の行方が知られることはなかった。
……通りがかった村の畦道で、喧嘩している姉妹を見た。声までは聞こえないが、よく似た面立ちのふたりが、言い争い、背丈の大きい方が怒ったように駆け出した。残された小さな背丈の子は首を傾げている。なぜ、姉が泣いたのか、わかっていない様子だった。
ヴィオレッタは妹らしき子のところに歩み寄った。
「どうして喧嘩したの」
「……おねえちゃんは、あたしが自分のものを盗ったんだ、っておこっていたの」
ややたどたどしい言い方で小さな子は言う。少女は手のひらにある髪留めを見せてくれた。小さな色ガラスがついていて、髪につければよく映えるだろう。
「きらきらしていたの。おねえちゃんのものだから、きらきらしていたの……」
小さな子も思うところがあるのか、しょんぼりとしていた。
「そう。……ねえ、おねえちゃんのことは好き?」
「うん。きらわれたくない……」
ヴィオレッタは微笑みを浮かべた。
「それなら、おねえちゃんの気持ちを考えてあげなくちゃ。おねえちゃんを泣かせてばかりだと、嫌われてしまうわ。一緒にいたいなら、愛し方を考えなくちゃね。……今ならまだ大丈夫。おねえちゃんに、ごめんなさいって謝るの。できそう?」
幼い子はこくり、と頷いて、姉が走った方向へ駆けていく。小鹿のような後ろ姿が視えなくなるまで追ってから、ヴィオレッタは街道に戻った。
アルトゥルが、馬に水をやりながら彼女を待っていた。
そこはちょうど街道の休憩地だ。井戸と、あまざらしの丸テーブルとベンチが置いてある。
旅の途中で、休憩をしに立ち寄ったのだ。
質素なパンを二人で食べた。白い鳩が足元まで歩いてきたから、パンくずを少しあげた。鳩はヴィオレッタのあげたパンくずをついばんでから、空に羽ばたいていった。釣られて、青い空を見る。
――鳩は、神様の御遣いなんだったっけ。
ならば、この旅《人生》は祝福されている。そう思うことにした。
ヴィオレッタはおもむろに編みかけのレースを手に取った。
「また夜まで続けるつもりじゃないか?」
「少しでも触っていないと、落ち着かないの」
レースへの執着は、捨てきれなかった。もうだめかもしれないと思っても、レースを編んでいるのが幸せだ。隣にアルトゥルがいると、もっと幸せになれる。
レース針を器用に使うヴィオレッタの手元を、アルトゥルが昔と同じように見つめている。こんな時間も、大好きなのだった。
「……商売でもはじめましょうか」
「レースの?」
「そう。私が職人で、アルトゥルが売るの。落ち着けるような小さな町に店を開くのよ。私ね、昔に牢屋にいた時、何度もそう夢に見たのよ。死神といっしょに、って」
「いいな。叶えよう」
死神でなくなった青年が身を寄せてくる。二人を遮るものはもう何もなかった。触れ合った手は温かく、同じように時間を重ねていける。ヴィオレッタは彼にもたれかかり、息を吸う。
「死神……私は、幸せだわ」
「私もだよ、ヴィオレッタ」
そうやって、二人は何度目かもわからない口づけを交わしたのだった。
これにて完結。ありがとうございました。




