8. 旅先で出会った小さな奇跡
翌朝、エリアナは宿の窓を開け、外の様子を眺めていた。
昨夜降った雨の名残で、石畳はまだ少し濡れている。向かいのパン屋からは焼きたてのパンの香りが漂い、店先では早くも客たちが列を作っていた。
昨日まで知らなかった街で迎える朝。
それだけのことが、エリアナには新鮮だった。
「リュシー、起きて。そろそろ朝ごはんよ」
枕の上では、小さな精霊が毛布にくるまって眠っていた。
「……あとちょっと」
「昨日もそう言っていたでしょう?」
「今日は昨日より眠いの……」
エリアナは笑いながら、毛布の端をそっとめくった。
「朝ごはんに甘いパンがあるそうよ」
すると、リュシーの羽がぴくりと動いた。
「……甘いパン?」
「ええ。蜂蜜を使ったパンですって」
「起きる!」
勢いよく飛び起きたリュシーに、エリアナは声を立てて笑った。
「もう、本当に甘いものが好きね」
「エリアナだって好きでしょ?」
「そうね。私も好きよ」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
出発の準備は、昨夜のうちに済ませてある。
今日は昨日より長く馬車に乗る予定だった。
ノアの話では、夕方頃には王都に近い街まで進めるらしい。
エリアナは窓の外へもう一度目を向けた。
遠くには、朝霧の中に青く霞む山並みが見えていた。
あの山を越えれば、王都まではもう少し。
そう思うと、自然と胸が弾んだ。
◇
「エリアナ様、おはようございます」
宿の食堂へ向かうと、ノアが先に席についていた。
普段の騎士服ではなく、濃い茶色の上着を羽織っている。
「おはようございます、ノアさん」
「よく眠れましたか?」
「はい。とても静かなお部屋でした」
「それはよかったです」
ノアは椅子を引き、エリアナに席を勧めた。
食卓には温かいパンと卵料理、果物、それに香草を使ったスープが並んでいる。
「こちらの宿は、朝食が美味しいことで有名なんですよ」
「まあ、そうなんですね」
エリアナは嬉しそうに席へ着いた。
リュシーは早速、パンの入った籠をのぞき込んでいる。
「これ! これがいい!」
「はいはい。少し待ってね」
エリアナは小さな皿に蜂蜜パンを取り分けた。
リュシーは両手で抱えるように持ち、満足そうにかじりついた。
ノアはその様子を眺めながら、感心したように言った。
「精霊も、人間と同じものを食べるんですね」
「食べなくても平気みたいなんですけれど、リュシーはお菓子が大好きで」
「へえ……」
「失礼な言い方!」
リュシーが頬を膨らませた。
「好きなものは好きなんだもん!」
「ははっ、すみません」
ノアは笑いながら頭を下げた。
精霊に謝る機会など、そうそうあるものではない。
けれど、こうして話していると、普通の小さな女の子と大して変わらない気がしてくる。
もっとも、背中の羽と周囲に漂う魔力を見なければ、の話だが。
「そういえば、エリアナ様」
「はい?」
「昨日、薬草店の店主からお礼を預かりました」
「お礼?」
「ええ。朝、宿まで届けに来られたんです」
ノアは小さな布袋を取り出した。
中には、乾燥させた薬草が丁寧に包まれている。
「昨日教えていただいたとおりに土を入れ替えたら、月眠草が元気になったそうですよ」
「まあ……!」
エリアナの顔が明るくなった。
「よかったです」
「それで、ぜひお礼を渡してほしいと」
「でも、少しお話ししただけなのに」
「店主にとっては、ずっと困っていたことだったみたいですから」
エリアナは袋を受け取り、中身を確かめた。
見慣れない薬草が数種類入っている。
その中に、一つだけ深い紫色の葉があった。
「……あら?」
「どうかしました?」
「これ、紫月草ですね」
「ご存じなんですか?」
「はい。でも、森では見かけたことがなくて」
エリアナは葉を一枚取り出し、嬉しそうに眺めた。
「祖母の本で読んだことがあるんです。実物を見るのは初めてです」
ノアはその表情を見て微笑んだ。
「気に入っていただけたなら、店主も喜びますよ」
「はい。大切に使います」
エリアナは丁寧に袋を閉じた。
知らない街を訪れると、知らない植物にも出会える。
王都には、もっとたくさんの薬草があるのだろうか。
そんなことを考えながら、エリアナは温かいスープを口に運んだ。
◇
朝食を終え、一行は再び馬車に乗り込んだ。
昨日よりも空気が澄んでいて、遠くの山々までよく見える。
馬車は石畳の道を抜け、広い街道へ出た。
左右には緩やかな丘陵地帯が続き、ところどころに小さな花畑が広がっている。
エリアナは窓辺に頬を寄せるようにして、景色を眺めていた。
「……綺麗」
淡い黄色の花が、風に揺れている。
その向こうには、青い空がどこまでも広がっていた。
「この辺りは、春になると花畑が広がるんですよ」
ノアが説明した。
「王都へ向かう旅人にも人気の場所です」
「そうなんですね」
「もう少し進むと、大きな川が見えてきます。そこを渡れば、王都まであと半日ほどです」
「あと半日……」
エリアナは小さく繰り返した。
いよいよ、王都が近づいている。
森を出る前は、長い旅になると思っていた。
けれど、初めて見る景色や出会う人々のおかげで、時間はあっという間に過ぎていく。
「ノアさん」
「はい?」
「王都には、どんなお店がありますか?」
「そうですね……。何でもありますよ。服屋に宝石店、菓子店、書店。それから、魔道具を専門に扱う店もあります」
「魔道具のお店も?」
「ええ。中央広場の近くに、大きな店があります」
「見てみたいです」
エリアナの瞳が輝いた。
ノアは笑った。
「閣下にお願いすれば、きっと案内してくださいますよ」
「でも、ルシアン様はお忙しいでしょうし……」
「大丈夫だと思いますけどね」
ノアは意味ありげに笑った。
エリアナは不思議そうに首を傾げる。
「……そうでしょうか?」
「ええ。きっと」
ノアはそれ以上何も言わなかった。
主君が彼女の到着をどれほど楽しみにしているか、今ここで話す必要はないだろう。
それは、本人から伝えるべきことだ。
◇
昼を少し過ぎた頃、馬車は大きな川の近くに差しかかった。
川幅は広く、水面には陽の光がきらきらと反射している。
石造りの橋が架かり、対岸には小さな村が見えた。
しかし、橋の手前で馬車が止まった。
「……何でしょう?」
エリアナが窓の外を見ると、橋の入り口に人だかりができていた。
商人らしき男たちが集まり、何やら困った様子で話している。
ノアは窓から顔を出し、御者に尋ねた。
「どうした?」
「橋の上で荷馬車が動けなくなっているようです」
「荷馬車が?」
「はい。車輪が壊れたらしく、道を塞いでしまっていると」
ノアは小さく息を吐いた。
「……困ったな」
この橋は、王都へ向かう街道の重要な通り道だ。
迂回しようとすれば、かなり遠回りになる。
「少し様子を見てきます」
ノアが馬車を降りると、エリアナも窓から外を眺めた。
橋の中央には、大きな荷馬車が斜めに止まっていた。
片方の車輪が外れかけ、荷台が大きく傾いている。
周囲では数人の男たちが懸命に支えていたが、なかなか動かせないらしい。
「……大変そう」
エリアナは小さくつぶやいた。
そのとき、リュシーが肩に飛んできた。
「エリアナ、あれ、壊れてるよ」
「そうみたいね」
「直せないの?」
「うーん……」
エリアナは少し考えた。
壊れたものを直す魔法は、祖母から教わっている。
ただし、人前ではむやみに使わないようにと言われていた。
ルシアンにも、同じことを約束したばかりだ。
「……まずは、普通にお手伝いできることがないか聞いてみましょう」
エリアナはそう言って、馬車の扉を開けた。
◇
橋の上では、商人たちが困り果てていた。
「だめだ。これ以上動かしたら、荷台がひっくり返る」
「車輪を外して取り替えるしかないな」
「だが、予備の車輪なんて持ってきていないぞ」
話を聞く限り、修理にはかなり時間がかかりそうだった。
エリアナはそっと近づき、声をかけた。
「あの、何かお手伝いできることはありませんか?」
商人の一人が振り向いた。
「お嬢さん?」
「はい。車輪が壊れてしまったんですよね」
「ああ。軸が折れてしまってな。どうにもならん」
エリアナは荷馬車の下をのぞき込んだ。
確かに、太い木製の軸に大きな亀裂が入っている。
「……なるほど」
少し考えていると、ノアが慌ててやってきた。
「エリアナ様!」
「あ、ノアさん」
「どうされたんですか? 馬車で待っていてくだされば……」
「すみません。何かお手伝いできないかと思って」
ノアは苦笑した。
やはり、こうなる気がしていた。
「お気持ちはわかりますが、危険ですから……」
「……あの」
エリアナは小さく手を上げた。
「車輪を取り替えるのは、難しいのでしょうか?」
商人がため息をついた。
「替えの部品がないんだよ。近くの村まで取りに戻るしかないな」
「そうですか……」
エリアナは荷馬車を見つめた。
壊れているのは車輪の軸だけのようだった。
それなら、少し補強すれば動かせるかもしれない。
「……ノアさん」
「はい?」
「ほんの少しだけ、魔法を使ってもいいでしょうか?」
ノアの表情が固まった。
「……魔法、ですか?」
「はい。車輪の軸を直すだけなので」
「……だけ?」
「ええ。すぐ終わると思います」
ノアは額に手を当てた。
閣下からは、彼女の魔法を人前で見せないように言われている。
しかし、このままでは橋を渡れない。
周囲には困っている人もいる。
それに、壊れた車輪を直す程度なら、一般的な修復魔法の範囲内だろう。
少なくとも、そう信じたい。
「……目立たないように、できますか?」
「はい」
エリアナは素直に頷いた。
「できるだけ、こっそり直しますね」
ノアは小さく息を吐いた。
「……お願いします」
エリアナは荷馬車のそばにしゃがみ込み、折れた車軸に手をかざした。
周囲の商人たちは、まだ修理の相談をしている。
誰も彼女の方を見ていなかった。
エリアナは指先に、ほんの少しだけ魔力を集めた。
淡い光が車軸を包み込む。
裂けていた木目がゆっくりとつながり、亀裂が消えていく。
折れかけていた部分が元の形に戻ったところで、エリアナは手を離した。
「……できました」
小さくつぶやく。
ノアは恐る恐る車輪をのぞき込んだ。
壊れていたはずの車軸が、綺麗に直っている。
「……本当に、直ってる」
「はい。これなら動かせると思います」
エリアナは嬉しそうに微笑んだ。
ノアは少しだけ安心した。
今回の魔法は、確かに目立たなかった。
商人たちも気づいていない。
このまま馬車を動かしてもらえば、何事もなかったように済むだろう。
そう思ったときだった。
「おい! ちょっと見てくれ!」
商人の一人が声を上げた。
「車輪が……直ってるぞ!」
「何だって?」
男たちが一斉に集まってくる。
ノアは目を閉じた。
……やはり、そう簡単にはいかないらしい。
「さっきまで、あんなに割れていたのに……」
「どうなってるんだ?」
商人たちは驚いた様子で車軸を確かめていた。
エリアナは少し困ったように、ノアを見上げた。
「……どうしましょう?」
ノアは苦笑した。
「……そうですね」
少し考え、それから商人たちに声をかける。
「どうやら、車軸の亀裂が思ったほど深くなかったようですね」
「いや、そんなはずは……」
「動かせるなら、まずは橋の外へ出しましょう。ほかの馬車も待っていますから」
ノアは手早く話を進めた。
商人たちも、今は原因を考えるより荷馬車を動かす方が先だと思ったらしい。
数人が協力して荷馬車を押すと、今度は驚くほど滑らかに動き始めた。
「……おお!」
「動くぞ!」
男たちの間から歓声が上がった。
エリアナはその様子を見て、ほっと胸をなで下ろした。
「よかったですね」
「……そうですね」
ノアは少し疲れた顔で頷いた。
橋を渡れるようになったことは、確かによかった。
ただし、帰ったら閣下に報告しなければならないことが、また一つ増えてしまった。
◇
橋を渡り終えると、馬車は再び街道を進み始めた。
エリアナは窓の外を眺めながら、先ほどの出来事を思い返していた。
「……皆さん、無事に出発できてよかったですね」
向かいに座るノアは、小さく頷いた。
「ええ。本当に」
「お荷物も壊れていなかったみたいですし」
「そうですね」
ノアはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……エリアナ様」
「はい?」
「一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「次に何か困っている方を見つけても、まずは私に相談してください」
エリアナは不思議そうに首を傾げた。
「……今日も相談しましたよ?」
「ええ。そうなんですが……」
ノアは言葉に詰まった。
確かに彼女は相談した。
しかも、きちんと許可まで求めてきた。
問題は、彼女の考える『ほんの少し』が、どうにも信用できないことだった。
「……できれば、魔法を使う前に、もう少し詳しく説明していただけると助かります」
「わかりました」
エリアナは素直に頷いた。
「次からは、きちんとお話ししますね」
ノアはほっと息を吐いた。
少なくとも、これで少しは安心できるだろう。
そう思ったところで、リュシーが横から口を挟んだ。
「でも、エリアナは今日、全然すごい魔法使ってないよ?」
「……え?」
ノアが顔を上げる。
リュシーは当然のように続けた。
「だって、車輪を直しただけだもん。森だったら、もっといろいろ直してるよ」
「……もっと?」
「うん。壊れた橋とか、倒れた木とか」
ノアはゆっくりとエリアナを見た。
「……エリアナ様」
「はい?」
「森では、普段どんなことを?」
エリアナは少し考えた。
「そうですね……。道が崩れていたら直したり、川の流れがおかしくなったら整えたり……」
「……川の流れ?」
「はい。雨が続くと、水が溢れてしまうことがありますから」
エリアナは微笑んだ。
「でも、そんなに大きなことはしていませんよ」
ノアは窓の外へ視線を向けた。
遠くには、先ほど渡った大きな川が見えている。
……考えるのは、やめよう。
少なくとも、王都に着くまでは。
◇
夕暮れが近づく頃、馬車は高台へ差しかかった。
道の向こうには広大な平原が広がり、その先に淡い青色の山並みが連なっている。
そして、さらに遠く。
夕日に照らされた白い城壁が、かすかに見えてきた。
「……あれは?」
エリアナが窓から身を乗り出した。
ノアは微笑んだ。
「見えましたね」
「……?」
「あれが、王都リュミエールです」
エリアナは息をのんだ。
遠くに見える白い建物。
その中心には、高い塔がいくつもそびえている。
夕日を受けた屋根は淡い金色に輝き、街全体が柔らかな光に包まれているようだった。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
ノアはその横顔を見て笑った。
「明日の昼頃には到着しますよ」
「……はい」
エリアナは嬉しそうに頷いた。
王都。
ずっと本の中でしか知らなかった場所。
その街が、今、自分の目の前にある。
胸の奥が、静かに弾んだ。
「リュシー、見て」
「……わあ!」
リュシーも窓辺へ飛んできた。
「大きい!」
「ええ。本当に」
二人はしばらく、夕日に染まる王都を眺めていた。
遠くから鐘の音が聞こえたような気がした。
旅の終わりが近づいている。
そして、新しい日々の始まりも。
◇
同じ頃、王都のアルヴェリス公爵邸では、ルシアンが温室の前に立っていた。
数日前まで使われていなかった温室は、庭師たちの手によって美しく整えられていた。
古い鉢は磨かれ、傷んでいた棚も修復されている。
中央には小さな丸いテーブルと椅子が置かれ、窓辺には季節の花々が並んでいた。
「……これなら、喜んでくれるだろうか」
ルシアンは静かにつぶやいた。
そばに控えていたセドリックが、穏やかに微笑む。
「きっと、お喜びになりますよ」
「そうだといいね」
ルシアンは温室の中へ足を踏み入れた。
花の香りが、柔らかく漂ってくる。
森の小さな家で過ごした時間を思い出した。
朝の食卓。
庭で飲んだ紅茶。
そして、何気ない会話の中で見せたエリアナの笑顔。
「……少し、早すぎただろうか」
ルシアンがつぶやくと、セドリックが首を傾げた。
「何がでございましょう?」
「いや……」
ルシアンは小さく笑った。
「まだ、彼女が来る前なのにね」
セドリックはしばらく主君を見つめた。
そして、静かに答えた。
「お迎えする方を思って準備を整えることは、決して早すぎることではございません」
ルシアンは顔を上げた。
「……そうかもしれないね」
「はい」
セドリックは柔らかく微笑んだ。
ルシアンは温室の奥へ視線を向けた。
窓辺には、淡い青色の花が一輪咲いている。
森でエリアナからもらった月雫草だった。
持ち帰った花を、彼女に教わったとおり水に挿しておいたところ、数日経っても枯れることがなかった。
それどころか、細い根が伸び始めていた。
ルシアンは小さく笑った。
「……君が来るまで、元気でいてくれよ」
花に向かってそうつぶやく。
明日には、エリアナが王都へやって来る。
その日を待ち遠しく思う自分に、ルシアンはもう気づいていた。
ただ、それがどんな感情なのかまでは、まだ名前をつけられずにいた。




