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森の奥で静かに暮らしたいだけなのですが、どうやら私の魔法は普通ではないようです。  作者: nene
第一章 花の咲く家

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7. 春風に誘われて、王都へ


 王都へ出発する日の朝、エリアナはいつもより早く目を覚ました。


 窓の外はまだ薄明るく、森には朝霧が残っている。庭の花々は露をまとい、夜の間に冷えた空気が開いた窓から流れ込んできた。


 エリアナは寝間着の上に薄いカーディガンを羽織り、庭へ出た。


 数日留守にするだけとはいえ、育てている薬草や花のことが気にかかる。


「お水は昨日たっぷりあげたし……」


 花壇を見渡しながら、一つずつ確かめていく。


 温室の植物には、留守の間も水が行き渡るよう、小さな魔法をかけてあった。


 土が乾くと水瓶から必要な分だけ水が流れる仕組みで、祖母が昔から使っていたものだ。


 エリアナにとっては便利な生活魔法の一つだったが、実際には複数の術式を組み合わせた高度な魔法だった。


「これなら大丈夫ね」


 最後に星灯花の鉢を確かめ、エリアナは温室を出た。


 家へ戻る途中、庭の隅に小さな白い影が見えた。


「あら?」


 近づくと、一匹の白い兎が花壇のそばに座っていた。


 普通の兎より少し大きく、額には小さな金色の模様がある。


「おはよう、ミル」


 エリアナが声をかけると、兎は長い耳をぴくりと動かした。


 森に住む魔獣の一種で、祖母が生きていた頃からときどき庭へ遊びに来ている。


「今日から少しお出かけするの。お庭のこと、お願いしてもいい?」


 ミルはエリアナを見上げ、小さく鼻を動かした。


「ありがとう。帰ってきたら、おいしい果物を用意するわね」


 その言葉に反応したのか、白い兎は嬉しそうに跳ねた。


 エリアナは笑いながら、その柔らかな背中をなでた。


 留守の間も、きっと森の友人たちが家を見守ってくれるだろう。


 そう思うと、少し安心できた。


        ◇


「エリアナ! まだー?」


 家の中からリュシーの声が響いた。


「今行くわ」


 返事をして戻ると、リュシーが旅行鞄の上に座っていた。


 足元には小さな布袋が置かれている。


「準備できたよ!」


「まあ、早かったのね」


「うん! お菓子も入れた!」


 エリアナは鞄を開き、中を確かめた。


 着替えと日用品、本が二冊。


 それから、丁寧に包まれた焼き菓子が入っている。


「……リュシー」


「なあに?」


「このお菓子、昨日より増えていない?」


「気のせいだよ!」


 リュシーは勢いよく答えた。


 エリアナは思わず笑ってしまった。


「そんなに持っていかなくても、王都にはおいしいお菓子がたくさんあると思うわよ」


「でも、エリアナが作ったのも食べたいもん」


「そうね。じゃあ、これはこのままにしましょうか」


「やった!」


 リュシーは嬉しそうに飛び上がった。


 エリアナは鞄を閉じ、部屋を見渡した。


 忘れ物はない。


 戸締まりも済ませた。


 あとは迎えを待つだけだった。


 ルシアンから届いた二通目の手紙には、今日の午前中に馬車を向かわせると書かれていた。


 公爵家の馬車に乗るなんて、もちろん初めてのことだ。


 少し緊張するけれど、それ以上に楽しみだった。


「……どんな街なのかしら」


 エリアナは窓の外へ目を向けた。


 王都リュミエール。


 祖母の話や本でしか知らない、美しい都。


 そこには、どんな景色が広がっているのだろう。


        ◇


 午前九時を少し過ぎた頃。


 森の入り口から、馬車の車輪が地面を踏む音が聞こえてきた。


「エリアナ! 来たよ!」


 庭にいたリュシーが、勢いよく家の中へ飛び込んできた。


「本当?」


「うん! 大きな馬車!」


 エリアナは慌てて鞄を持ち、玄関へ向かった。


 扉を開けると、家の前の小道に立派な馬車が停まっていた。


 濃い青色の車体には銀色の装飾が施され、扉には美しい紋章が刻まれている。


 馬車を引くのは、艶やかな黒い毛並みの二頭の馬。


 どちらもよく手入れされていて、静かに周囲を見渡していた。


「……綺麗」


 思わず声が漏れた。


 すると、馬車のそばに立っていた青年がこちらを振り向いた。


「あ、エリアナ様!」


 明るい声とともに、青年が近づいてくる。


 茶色の髪に人懐っこい笑顔。


 数日前、ルシアンを迎えに来た騎士だった。


「お久しぶりです。ノア・ヴェルディです。覚えていらっしゃいますか?」


「もちろんです。こんにちは、ノア様」


「様なんて必要ありませんよ。ノアで十分です」


「でも……」


「閣下にも同じことを言われませんでした?」


 エリアナは目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「……はい」


「でしょう?」


 ノアは得意そうに笑った。


「今日は閣下に代わって、お迎えに参りました」


「ありがとうございます。遠いところまで来ていただいて」


「いえいえ。これも仕事ですから」


 ノアはエリアナの手元にある鞄へ目を向けた。


「お荷物はそれだけですか?」


「はい。数日間ですし、あまりたくさん持っていってもご迷惑かと思って」


「なるほど。では、お預かりしますね」


 ノアは軽々と鞄を持ち上げた。


 そのとき、鞄の隙間からリュシーが顔を出した。


「ちょっと! 揺らさないでよ!」


「うわっ!」


 ノアは思わず鞄を落としかけた。


 エリアナが慌てて手を伸ばす。


「リュシー!」


「だって、急に持ち上げるんだもん!」


 リュシーは不満そうに腕を組んだ。


 ノアは鞄を抱えたまま、口を開けて固まっていた。


「……せ、精霊?」


「そうですよ」


 エリアナは当然のように答えた。


「リュシーです。私の大切なお友達なんです」


「……ああ、そうでしたね」


 ノアは何とか返事をした。


 閣下から、精霊が一緒に来るとは聞いていた。


 だが、実際に目の前で話しかけられると、やはり驚いてしまう。


 リュシーはノアをじっと見つめた。


「あなた、あの人のお友達?」


「……あの人?」


「ルシアン!」


「ああ。閣下のことですね」


「閣下って呼ぶの、変なの」


 リュシーは首を傾げた。


 ノアは苦笑した。


「まあ、立場上そう呼ぶことになっているので」


「ふうん」


 リュシーはあまり興味がなさそうに返事をすると、エリアナの肩へ飛んでいった。


 ノアはその後ろ姿を見送り、そっと息を吐いた。


 この旅は、思っていた以上に賑やかになりそうだった。


        ◇


 馬車が森を離れると、窓の外の景色が少しずつ変わっていった。


 深い森を抜け、緑の丘が続く道へ出る。


 遠くには小さな村が見え、畑では人々が働いていた。


 エリアナは窓辺に座り、流れていく景色を眺めていた。


「……広いのね」


「王都までは、まだまだありますよ」


 向かいに座ったノアが笑った。


「今日は途中の街で一泊して、明日も移動します。通常の馬車なら五日ほどかかりますが、この馬車は魔力を使った補助装置があるので、三日ほどで着く予定です」


「魔力の補助装置?」


「ええ。車輪に魔法がかけられていて、普通の馬車より速く走れるんです」


「まあ……」


 エリアナは興味深そうに足元へ視線を向けた。


 馬車の床から、かすかに魔力の流れが感じられる。


 確かに、車輪の周囲に術式が組み込まれているようだった。


「……なるほど」


 エリアナは小さくつぶやいた。


「どうかされました?」


「いえ、少し面白い仕組みだなと思って」


「王都では、こういう魔道具がいろいろ使われていますよ」


「そうなんですね」


 エリアナの瞳が輝いた。


 魔道具については、本で読んだことがある。


 けれど、実際に使われているところを見るのは初めてだった。


「……少し、触ってみてもいいでしょうか?」


「え?」


「床の下にある術式です」


 ノアは目を瞬かせた。


「触る……というと?」


「魔力の流れを確かめるだけです。壊したりはしませんから」


「はあ……」


 ノアは少し迷った。


 だが、閣下からはエリアナの希望をできるだけ聞くように言われている。


 それに、ただ確かめるだけなら問題ないだろう。


「……どうぞ」


「ありがとうございます」


 エリアナは嬉しそうに微笑み、足元へ手をかざした。


 指先から淡い光がこぼれる。


 すると、床の下に組み込まれていた術式が、薄い金色の線となって浮かび上がった。


「……へえ」


 エリアナは感心したように眺めた。


「魔力を少しずつ巡らせて、車輪を軽くしているんですね」


「そ、そうなんですか?」


「はい。でも、ここの流れが少し滞っているみたい」


 エリアナは小さく首を傾げた。


「長く使っているのでしょうか」


「ええ。確か、もう十年ほど……」


「それなら、少しだけ整えておきますね」


「えっ?」


 ノアが止める間もなく、エリアナは指先を動かした。


 金色の光が術式に沿って流れ、途中で乱れていた線がゆっくりと整っていく。


 次の瞬間、馬車がわずかに揺れた。


「……!」


 ノアは慌てて座席の端を掴んだ。


 しかし、すぐに気づく。


 揺れが、なくなっている。


 それまで小さく伝わっていた車輪の振動が、ほとんど感じられなくなっていた。


 しかも、馬車の速度が少し上がっている。


「……え?」


 ノアは窓の外を見た。


 馬たちは変わらない速さで走っている。


 それなのに、景色の流れが明らかに速くなっていた。


「あ、よかった」


 エリアナが満足そうに微笑んだ。


「これで、しばらくは大丈夫だと思います」


「……エリアナ様」


「はい?」


「今、何を……?」


「魔力の流れを整えただけですよ」


「……整えた?」


「はい。少し絡まっていたので」


 ノアは言葉を失った。


 公爵家の馬車に使われている補助装置は、王都でも高価な魔道具の一つだ。


 定期的に専門の技師が点検し、魔力の調整を行っている。


 それでも、長年の使用による性能の低下は避けられない。


 ところが今、エリアナはほんの数秒で、その不調を直してしまったらしい。


 しかも、以前より性能が上がっている。


「……閣下が驚くわけだ」


 ノアは小さくつぶやいた。


「何かおっしゃいました?」


「い、いえ! 何でもありません!」


 慌てて首を振る。


 エリアナは不思議そうに彼を見たが、すぐに窓の外へ視線を戻した。


 ノアは深く息を吐いた。


 王都に着いたら、閣下に報告しなければならない。


 ただし、どう説明すればいいのかは、まだわからなかった。


        ◇


 昼過ぎ。


 一行は街道沿いの小さな宿場町に立ち寄った。


 石畳の通りには店が並び、行き交う人々の声で賑わっている。


 エリアナは馬車を降りると、興味深そうに周囲を見渡した。


「……素敵な街ですね」


「ここはセラートという街です。王都へ向かう商人がよく立ち寄るんですよ」


 ノアが説明した。


 通りには、焼きたてのパンの香りが漂っていた。


 果物を並べた露店や、色鮮やかな布を売る店もある。


 エリアナは一つひとつを眺めながら、ゆっくりと歩いた。


「あの、ノアさん」


「はい?」


「少しだけ、お店を見てもいいでしょうか?」


「もちろんです。時間はありますから」


「ありがとうございます」


 エリアナは嬉しそうに微笑んだ。


 最初に立ち寄ったのは、小さな薬草店だった。


 店先には乾燥させた薬草が吊るされ、棚には色とりどりの瓶が並んでいる。


「……あら」


 エリアナは一つの瓶に目を留めた。


 中には、薄い紫色の花が入っている。


「これ、夜露草かしら」


 店主の女性が顔を上げた。


「おや、お嬢さん。よく知っているね」


「はい。森でも見かけるので」


「森で?」


 店主は驚いたように眉を上げた。


「夜露草は、この辺りじゃ珍しいんだよ。王都から仕入れているんだけどね」


「そうなんですか?」


「ええ。薬に使う人が多くて、なかなか手に入らないのさ」


 エリアナは瓶を眺めた。


 夜露草は、熱を下げる薬によく使う植物だった。


 フィルネの森では湿った場所に自生していて、エリアナもときどき採取している。


「……そうだったんですね」


 店主は彼女の様子を見て笑った。


「お嬢さんも薬師なのかい?」


「はい。森で薬を作っています」


「それはいいね。若いのに感心だよ」


 エリアナは照れくさそうに微笑んだ。


 しばらく薬草の話をしていると、店主がふと思い出したように言った。


「そういえば、最近困っていることがあってね」


「何でしょう?」


「裏で育てている薬草が、どうにも元気がなくて。水も日当たりも気をつけているんだけど」


 エリアナは首を傾げた。


「どんな薬草ですか?」


「月眠草っていうんだよ」


「……月眠草?」


 エリアナの目が輝いた。


「私、そのお花が好きなんです」


「そうなのかい?」


「はい。夜になると花弁が閉じて、朝日が当たると開くんですよね」


「よく知っているねえ」


 店主は感心したように頷いた。


「もしよかったら、少し見てくれないかい?」


「もちろんです」


 エリアナは快く答えた。


 ノアはそのやり取りを聞きながら、何となく嫌な予感がしていた。


 閣下からは、エリアナの魔法を人前でむやみに使わせないよう頼まれている。


 しかも、彼女自身も気をつけると約束したはずだった。


「……エリアナ様」


「はい?」


「あの、できれば……」


 ノアが言いかけたところで、エリアナはにっこりと微笑んだ。


「大丈夫ですよ。ちょっと様子を見るだけですから」


「……そうですか」


 それなら問題ないだろう。


 ノアはそう思った。


 少なくとも、そのときまでは。


        ◇


 店の裏庭には、小さな木箱がいくつも並んでいた。


 その一角に、淡い黄色の花をつけた月眠草が植えられている。


 けれど、葉は少し変色し、茎も弱々しく垂れていた。


「……なるほど」


 エリアナはしゃがみ込み、土の表面を確かめた。


 水分は十分にある。


 日当たりも悪くない。


 けれど、根元の魔力がわずかに乱れていた。


「この土、少し疲れているみたいですね」


「土が?」


「はい。魔力がうまく巡っていないんです」


 店主は不思議そうに首を傾げた。


「そういうこともあるのかい?」


「ええ。薬草は魔力の影響を受けやすいので」


 エリアナは小さな鉢を指さした。


「土を少し入れ替えてあげると、よくなると思います」


「なるほどねえ」


「それから、こちらの木箱は水が溜まりやすいようなので、底に小さな穴を増やした方がいいかもしれません」


 エリアナは丁寧に説明した。


 店主は何度も頷き、手元の紙に書き留めていく。


 ノアは少し安心した。


 どうやら、今回は魔法を使うつもりはないらしい。


 エリアナも祖母の言いつけを守ろうとしているのだろう。


「……あら」


 そのとき、エリアナが一つの鉢に目を留めた。


 ほかの月眠草よりも、ひどく弱っている株だった。


 葉はほとんど枯れ、茎も折れかかっている。


「この子は……」


 エリアナはそっと手を伸ばした。


「もう、だめかもしれないんだよ」


 店主が寂しそうに言った。


「何度か植え替えもしてみたんだけどね」


「……そうですか」


 エリアナはしばらく花を見つめた。


 それから、ほんの少しだけ指先を動かした。


 目立たないように。


 誰にも気づかれないくらい、小さく。


 淡い光が、一瞬だけ土の中へ吸い込まれた。


「……これで、少しはよくなると思います」


 エリアナは立ち上がり、微笑んだ。


 店主は首を傾げたものの、嬉しそうに頷いた。


「ありがとう。しばらく様子を見てみるよ」


「はい」


 エリアナは満足そうに笑った。


 ノアは何も言わなかった。


 ただ、先ほど一瞬だけ光った指先を、確かに見ていた。


 そして、枯れかけていた月眠草が、ほんのわずかに葉を起こしたことも。


(……気をつけている、とは)


 ノアは心の中でつぶやいた。


 おそらく、彼女なりには本当に気をつけているのだろう。


 それでも、見捨てられないものがある。


 そういう少女なのだと、少しずつわかってきた。


        ◇


 その夜、一行はセラートの宿屋に泊まることになった。


 公爵家が手配した宿は、街の中心から少し離れた静かな場所にあった。


 エリアナに用意された部屋は、明るく清潔で、窓からは小さな庭園が見えた。


「……素敵なお部屋」


 エリアナは鞄を置き、窓辺へ歩み寄った。


 庭には白い花が咲き、中央には小さな噴水がある。


 水音が心地よく、旅の疲れも少し和らぐようだった。


「エリアナ!」


 リュシーが窓から庭を眺めながら言った。


「お水が流れてる!」


「ええ。綺麗ね」


「王都にはもっと大きいのがあるんでしょ?」


「そうみたい。楽しみね」


 エリアナは微笑んだ。


 そのとき、扉が叩かれた。


「エリアナ様、ノアです」


「はい。どうぞ」


 ノアが顔をのぞかせた。


「お夕食の準備ができたそうです。食堂へご案内しますね」


「ありがとうございます」


 エリアナは立ち上がり、リュシーを肩に乗せた。


 廊下へ出ると、ノアが少し申し訳なさそうな顔をしていた。


「……どうかされました?」


「いえ。実は、今日の馬車のことなんですが」


「馬車?」


「はい。あの補助装置です」


 エリアナは少し考え、それから思い出したように頷いた。


「ああ。魔力の流れを整えたところですね」


「そうです。それで……」


 ノアは言葉を選んだ。


「御者が驚いていまして。いつもよりずいぶん速く走れるようになったそうです」


「まあ、そうなんですか?」


「ええ。しかも、馬への負担が減っているようで」


「それはよかったです」


 エリアナは嬉しそうに微笑んだ。


「お馬さんたちも、疲れにくい方がいいですものね」


「……そうですね」


 ノアは苦笑した。


 彼女にとっては、魔道具の性能が上がったことより、馬が楽になったことの方が嬉しいらしい。


「……エリアナ様」


「はい?」


「王都に着いたら、きっと閣下がいろいろと驚かれると思います」


「……ルシアン様が?」


「はい」


 エリアナは不思議そうに首を傾げた。


「何か、変なことをしてしまったでしょうか」


「いえ! そういうわけでは……」


 ノアは慌てて否定した。


 それから、少しだけ笑う。


「……閣下は、きっと喜ばれると思いますよ」


 エリアナは安心したように微笑んだ。


「それなら、よかったです」


 その笑顔を見ながら、ノアは心の中でそっとため息をついた。


 王都に着くまで、まだ二日ある。


 これ以上何も起きなければいいのだが。


 そんな願いを抱いたところで、どうにも叶う気がしなかった。


        ◇


 同じ夜。


 アルヴェリス公爵邸では、ルシアンが執務室の窓辺に立っていた。


 机の上には、ノアから届いた簡単な報告書が置かれている。


 エリアナは無事に出発したこと。


 途中の街で一泊すること。


 そして、馬車の補助装置の性能が、なぜか大幅に向上したこと。


 ルシアンは最後の一文を読み返し、小さく笑った。


「……早速か」


 森を出て、まだ一日目だ。


 それなのに、もう何かが起きている。


 詳しい事情は書かれていないが、おおよその見当はついた。


 きっと彼女は、何か不調を見つけて直したのだろう。


 それがどれほど難しいことなのか、考えもせずに。


「……エリアナらしいな」


 ルシアンは報告書を机に戻した。


 窓の外には、夜の庭園が広がっている。


 彼女が到着するまで、あと二日。


 その短い時間が、妙に長く感じられた。


 ルシアンはふと、庭の一角へ目を向けた。


 そこには、しばらく使われていなかった小さな温室がある。


 亡き母が大切にしていた場所だったが、ここ数年は花を育てることも少なくなっていた。


 エリアナなら、きっと喜んでくれるだろう。


 そう思った瞬間、ルシアンは呼び鈴に手を伸ばした。


 しばらくして、執事のセドリックが現れる。


「お呼びでしょうか、閣下」


「セドリック。庭の温室について、少し相談があるんだ」


「温室でございますか?」


「ああ。しばらく使っていなかっただろう」


「はい。奥様がお亡くなりになってからは、最低限の手入れだけでございます」


 ルシアンは窓の外を見つめた。


「……客人が来る前に、少し整えておきたい」


 セドリックは一瞬驚いたようだったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「かしこまりました。明朝、庭師に申し伝えます」


「ありがとう」


「どのようなお花をご用意いたしましょう」


 ルシアンは少し考えた。


 森の庭に咲いていた白い花。


 淡い青色の月雫草。


 そして、花を見つめるエリアナの嬉しそうな横顔。


「……季節の花を、いくつか」


「承知いたしました」


「それから、薬草も育てられるようにしておいてほしい」


 セドリックは静かに頷いた。


「お客様は、お花がお好きなのですね」


「ああ。とても」


 ルシアンの声が自然と柔らかくなる。


 その様子を見て、セドリックは微笑んだ。


「それは、きっとお喜びになりますね」


「……そうだといい」


 ルシアンは窓の外へ目を向けた。


 春の夜風が、庭の木々を静かに揺らしている。


 あと二日。


 彼女にまた会える。


 そのことが、今は何より楽しみだった。


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